いつか忘れてしまうから その時まで一緒にいよう

とりとめのない女友達との会話の中で、過去の苦い思い出や、くるしみ、悲しみについてふと話題にすることがあった。

彼女はかつてしていた数年間の結婚期間に起きたことをよく話してくれる。離婚をしようと決めてからも、なかなか相手がそれを了承せず、ずいぶんと長い間、彼女は裁判所に通うこととなった。

結婚期間がスタートしてすぐに、違和感はあったそうだけれど、いろいろな、ほんとうに様々な事情があった。夫婦の数だけ問題はある。彼女の場合は、婚姻関係を続行するにあたって困難な事由が明確に存在した。(詳細は省きますが)

わたしは彼女の結婚期間から、裁判所へ通っていた長い期間、近くでそれを見ていた。当人でなければ想像もできないほどの大変さがあっただろうし、しんどかっただろうと思う。そばで見ていて、話を聞いてあげることしかできなかった。

月日は流れ、無事、離婚は成立。
彼女は今、新しいパートナーと、幸せな結婚生活を送っている。

誰から見ても彼女は幸せそうで、本当に素敵な、彼女の一番の理解者になりうるパートナーと一緒に新しい生活を送っていることを、わたしも心からうれしく思う。

そんな彼女が言っていたこと。

「前の結婚の時に住んでいた街のことが、ずっと大嫌いだった。近くを通るのも、電車で通過するのも嫌だった。結婚生活のことや、裁判をしていたころのつらかったことを思い出してしまうから。あの街にはもう二度と近づきたくないと思っていた。でも、最近ふと、あの街をなつかしく思うことがある。商店街の感じとか、音とか匂いとか空気とか、好きだったお惣菜屋さん、レンタルビデオ店、喫茶店。駅前のパチンコ店。坂道。バス停。すべてがなんだか懐かしくて、好きだった街だなあと、ふと思う。実際に行くことはないだろうけれど。時間が解決してくれる、って、こういうことなのかな」

嫌だったことも、苦しかったことも、泣いたことも、事実としては記憶にあって、それは変わることはない。だけど、そう思ったときの感情だけがなくなって、そこにただ存在した無機物たちの存在と、それがもたらす自分の中に発生する記憶に、郷愁めいた、やわらかな気持ちを抱く。


これにはわたしにも覚えがある。


10代後半から20代そこそこの、身体も心も力と情動に満ち溢れ、どんなことでもできる気がする、どんなこともできない気がする、あの青春時代。わたしは難病に罹っていた。入院と退院を繰り返して、同年代の友達が通るほとんどのことを諦めざるを得なかった。(これはいつかもっとちゃんとした文章で書くかもしれないので軽く触れておくだけにする)

わたしはそのあと、普通の生活が送れるようになってからも、青春を彷彿とさせるものが極端に苦手になってしまった。制服でデートをする、部活のみんなと買い食いをする、体育祭で思い切りはしゃぐ。親に怒られてでも門限を破って遊ぶ、プールで泳ぐ、マラソンをする、隠れてお化粧をする、おしゃれに目覚める。そういう全てのことを苦しく感じていた。

大人になってからも、わたしは青春、特に「高校時代」に対するアレルギーをなかなか克服することができなかった。

でもわたしは今、無事に(立派とは言えないまでも)社会人生活を続けることができている。わたしが多分、他の人よりそのことを当たり前と思わず、自分で働くことができることの幸せを噛み締めることができるのは、あの時の経験があったからだと思う。

こうして生きて、働けることが、わたしは幸せなのだ。結局のところ。

そしてふと気がついたとき、わたしの中の「高校生コンプレックス」も「青春コンプレックス」も、どこを探しても見当たらなくなっていた。

そして、いろんなことを、全部、なつかしく、愛おしく、思い出すのだった。病院の中の緑色の液体石鹸、リネン室の音、点滴の針と皮膚。食器の舌に触れる感覚。高校の保健室の窓から見た校庭。体育の時間は身体を外気にさらさないようにいなければならなかった図書室の、ストーヴのにおい。粉薬の味、錠剤が張り付く喉。移動教室から見えた同級生の身体と心の、音が鳴るほどの変化。

あの頃、助けてくれた人たちがたくさんいて、友達がいて、だけどやっぱりわたしはひとりで、あの無機物たちだけがわたしと一緒に、一番近くにいてくれたんだなと思う。

生きるか死ぬかということばかり考えていた、あの頃の自分のことを、わたしは抱きしめてあげたいとよく思う。

それで。「高校生コンプレックス」も「青春コンプレックス」も克服できた今なら、と、高校生の女の子2人が出てくる小説を書いた。わたしにとって、とびきり特別な作品になった。大好きな作品になった。

作品の中の二人には、高校生活を楽しませてあげたかった。でもなんとなく、結果的に、そういう分かりやすいことをさせてはあげられなかった。ただ、わたしは彼女たちを、いつかの自分に重ねて、抱きしめてあげるような気持ちで書いた。そしてまた、彼女たちから、今の自分を抱きしめてもらうような感覚にさえなった。彼女たちに「大人も悪くないよ」と言えるような、そんな少しくらいはかっこいい自分に、なれていればいいのだけれど。


絶対に消えない苦しみも悲しみも、涙も痛みもきっとある。でも、いつか忘れてしまうことも意外とあるのかもしれない。忘れるというよりかは、大丈夫になる、という感じ。

事実が消えることはないけれど、なくなることはないけれど、受け容れられる日がくることはあるのだ。

それもこれもふくめて、あなたであり、わたしなのだ。

その痛みも涙も、苦々しさも、蓋をしてしまいたいほどの禍々しさも、愚かさも憎しみも、気がついたときには消えてしまうから。その時までは一緒にいればいいのかもしれない。それがかたちづくる「あなた」や「わたし」があるのかもしれないから。

いつか忘れてしまうから、その時までは一緒にいよう

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