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Wonderland/milet


ほんとうにバカバカしいと頭では分かっているのだけれど、そんな考え方はティーンエイジャーのときにきっちり昇華しているべきような考え方だし、いい加減自分に飽きているところもあるのだけれど。

「ああ、自分が美人だったらなあ」といつも思っている。

美人だから必ずしも全てのことがうまくいくわけではないし、容姿だけが何もかもを決めるわけじゃないということはもちろん分かっているし、分かった上でそう思う。

人が人を好きになるときというのは、必ずしも容姿だけではない。もちろん、容姿も大切な要素のひとつではあるのだけれど、必ずしもそこがすべてを決めるわけではない。それも分かっている。

どうしてこんなふうに、美人になりたい、と思うのだろうか。

というか、美人ってなに。


天使の輪が眩しい髪、まっすぐに通った高い鼻梁、白くてなめらかな肌、アーモンドのような大きくて潤った瞳、細くて長い手足、くびれたウエストに、大きなバスト、まるくて形のいいヒップ。

それから、あと、それから ?

わたしが欲しいものは、ほんとうのほんとうに、

そういうものなのだろうか。


NHKの「クラシックTV」という番組で、ラフマニノフの回に出演されていたmiletさんというアーティストを知りました。

ぱっと聴いたワンフレーズの響きや、音節や、その発声、声の中の空気のふくまれ方とか、とてもとても素敵だなと感じて、それから少し彼女の音楽を聴いています。

母音の響きにこだわっているというお話がすごく興味深くて、彼女の音楽を聴いているとなるほどそれがよく分かります。

あまり新しい音楽のことは分かっていないし、流行には疎いのだけれど、こうして知ることができてすごくうれしい。新しい音楽も、たくさん知りたいなと思う。ずっと昔からある音楽も、もちろん好きです。


それで彼女の音楽は、聴こえているのに聴こえていないみたいな、日本語も英語も、そういう、言語という、言葉の意味というものの鎧を脱いだ空気のカタマリのようなものに聴こえる。それはとても心地のよい、気持ちのよいもののように思う。

言語という、言葉の意味というものの鎧は、時に可能性を狭めてしまうこともある、それが良さでもあるのだけれど。彼女の音楽はそういうもののしがらみから解き放たれたところで、のびやかに広がっていくような、そんな気がして、わたしはとても惹きつけられた。

「好きだ」と思うものを言語化するのってむずかしいですね。今、文章にしてみて改めてむずかしい。


それで、そんな、気持ちのよい空気のカタマリであるようでいて、やっぱり言葉の意味が急に染み入る瞬間がある。

———見つけてくれた それだけでいいよ
(Tell me/milet)


例えば、彼女の音楽で今聴けるものをひととおり聴いてみて、わたしが最も心に残ったフレーズ。

こういう言葉がほんとうにいいな、と思う。なんでもないワンフレーズなのに、この空気のカタマリにくるまれたこの言葉は、どうしようもなく意味を孕み、どうしようもなくわたしの中に染み込む。ああ、見つけてくれたら、もうそれだけでいいよな、そうだよな、それ以上に欲しいものなんてなにもなくて、それ以外に欲しいものなんてなにもないな、と、そう思う。

「Wonderland」という曲があり、これがまたとても素晴らしい。

胸がくるしくなるような青い海と、白い雲と、どこまでも続いているような水平線と、からだじゅうで深呼吸をした時の解放感のようなものが駆け巡る曲だと思った。

なんか、なんでもやってみればいいじゃないか、というふうに、そんなふうに言われている気持ちになる。失敗しても、だめだったとしても、それが自分の決めたことならば、それでいいじゃないか、と言われているような気がした。恥ずかしいことをしてしまっても、情けなくても、それで命まで取られるわけではないのなら、それでいいじゃないか、やってみれば、と。


「美人になりたい」と相変わらずわたしは思っている。

でも多分、ほんとうに欲しいものは、いや、美人にはなりたかったけれど。瞳とかバストとかヒップとか、そういう具体的なものものではなくて、自信が欲しいんだろうな、と思う。

のびやかなものや、縛られていないものや、力強くすすむものや、そしてそういう人に惹かれるのは、憧れるのは、そういう確固たる、揺るがないものがうらやましいのだろうな。わたしもそうありたいのだろうな。

「美人だったら」もう少し強引になれたかもしれない、言いたいことを突き通そうとしたかもしれない、主義主張をしたかもしれない、少しワガママに思えるようなことを言ってみたかもしれない。たぶん、理由が欲しかっただけなのだろう。ださいな、わたし。


思い返してみればいつも臆病だった。あの時も、あの時も。そして今も。

思うことがあっても、伝えたいことがあっても、あと一押ししてみたくても、やっぱりそれはわたしは、あんまり選ばない。選べない、のか。

それで、こうして日記を書いたり、小説に書いたり、文章を書くことでしか解毒することができない。こんな小さな声はどこにも届かない、たぶん誰にも聞こえない。それでも、こうして文章を書くことでしか自分の気持ちを伝えられない。

痩せていないことも、鼻が低いことも、背が高いことも、骨格が逞しいことも、ずーっとコンプレックスだった。

でも、マキシ丈のロングコートやタンクトップやハイヒールやスキニーパンツが好きになった。そうやって好きなものが増えていって、ティーンエイジャーの頃よりはコンプレックスも「まあいいか」と思えるようになったような気もする。


「切ないな」と思う気持ちは、必ず糧になることをわたしはこれまで生きてきて知っている。見つけてもらいたい、掬い取ってもらいたい、でもそれは言わないでおこう、という「切なさ」は必ず糧になる。こんな「切なさ」は知らないまま生きられるのならば、でも、そっちの方がよかったのかな、などとも思うけれど。

自分で見つける、自分で掬い取る、自分で切り拓く、自分で進む。そういう強さを、自信を、持っていたい。


どこにも届かなくとも、誰にも聞こえなくとも、これがどんなに小さな声でも、それでも書くことを辞めないことだけは誓おうと思う。


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