自分を分析する日々


今年は振り返ると
今まで突き進んでいた行動や意思、ピタッと何かに後ろから引っ張られたように静止を感じた年になった。

静止したからといって別に今は何かに悲観的なわけでもなく、今時点ではこれが静止してる状態なのか後退してるのか、
もしかすると優しい人なら「必要な事だった」と声を掛けてくれるのかもしれない。
自分ではわからない。
ただ丁寧に暮らしながら、自分ってこういう性格だったよなと色々見つめ直しの部分が多い。

ただ、自粛や元々が引きこもり体質なのも相まって、なかなか人と合わない自分が数ヶ月に一度友人に会った時
その友人の大切さを身に染みた事が沢山あったし、このご時世でお互い思いやりながらも会える機会を与えてくれることに感謝しかないと、周りの近しい友人の尊さにあらためて気付かされている日々である。


話は戻るが、今一度立ち止まって自分を見つめ返している上で、
「類」である自分と本名側の自分と私は全く別に切り離して考えている。

どちらかの活動が潰れた時にどちらかで癒されていけること、逃げ道があることがある意味では保険でもあるのだと思う。
類として活動することはとてもエネルギッシュで楽しい反面、本性は引きこもりで面倒くさがり、楽な方に生きていきたい自分にはとてつもなくエネルギーを使うことになっているのだ。


特に自分がエネルギーを使うと感じるのは配信などの不特定多数への発信するような活動である。
私の本性は何度も言うが、頭を使わずに手を抜いて生きるのが大好きなやつなので、今までのコスプレに関しては本当に好きなことに厳選してやってきていた。
衣装は作りたくない、ミシンは使い方を覚えるのが面倒くさいのでできるだけ購入や手縫いでやってきたし、
カメラも自分の技術を磨くよりも高いレンズを購入してなんとか上手く見せるようにやり過ごしたり。(誤解を与えたくないが、時々友人と撮りあいっこすることがあるので、相手のphoto by 類の写真クオリティがあまりにも。。。な場合を避けるため必要最低限のスキルを身につけておく必要があるという理由である。結果的にカメラには自信がないのでよっぽど仲良しの有人でない限りは被写体に専念している)


反対にメイクやウィッグを作るのは好きであったり、コスプレを撮影する際の「物語」を創作するのが大好きだったので好きな事だけをただ頑張れた。自分の中で二次創作は原作を元にしたifの映画のようなもので、とにかく一枚絵の構図と言うよりは全てのシーンを映画のように撮りたいものが思い浮かぶ。
その気持ちに素直にコスプレ活動をして来た。


話しを戻すが、配信活動と言えばこれとは全くまた違う活動になってくる。
カメラに向かって何かを話したり、もう少し試行錯誤して練習すれば動画でクオリティの高い映画のようなものも撮れるのかもしれない。

でもわたしがやりたい事はコスプレでゲーム実況?コスプレでメイク講座?
正直に言う、それに伴う機材を整えたり、使い方を覚えるのがとても面倒くさい。ミシンと同じである。
配信で色々な方と話すのは本当に楽しい。
ただ、コスプレの撮影も配信も両方楽しいが、配信の方のクオリティの上げ方というか、自分が撮りたいものが全くわからない。

配信しなきゃ、と考えるのが自分にとって少し負担になってそっちばかりに気を取られるような、自分の楽しかった作品づくりの思考がブレているかもしれない。


丁寧に生きてると何事もバランスが大事だとわかってきた。
生き急くとその時にしか成しえないものも多いが、見えていないものも沢山ある。


これは結果論だが、コロナ禍で突き進んでいた自分を何かが引き止めてくれたのかもしれない。
あえての「この時期」に長年務めていた医療から離れた理由は何かあったのかなとか。
私が過去務めていた病院2つからコロナ患者が出ている。何か導かれたのだろうか、とどうしてもスピリチュアルに考えるクセがある。

まだ体調は回復していないが、
100%回復してからまたスタートし、またつまづくと立ち直れないと思われるので
ボチボチ60%くらいの力で生きていきたいなと思っている。

日々時間がありすぎて思考がぐちゃぐちゃ、
たまにとてつもなく漠然と焦ったり不安になったりもする。私生活やコスプレなどの趣味の生活のバランスを改めて大切にして生きていきたいとおもう。

サポート本当にありがとうございます。