Lousism

個人文芸サークルLousismが何かしら文章を投下するために使います。主に日記と千字エ…

Lousism

個人文芸サークルLousismが何かしら文章を投下するために使います。主に日記と千字エッセイです。

マガジン

  • untouchable holidays

    特に根拠のない屁理屈ばかり1000字ぴったりで呟きます。それはそうとして、なるべく静かに暮らしていけたらいいな。

  • invisible holidays

    個人文芸サークルLousismのなかのひとの日記。年単位で更新が遅れてるけど気にするな。本当の退屈を教えてやる。

最近の記事

追悼コーナー

 行き付けの書店に寄ったら大江健三郎の追悼コーナーが出来ていた。大江健三郎ぐらいの大家ならば追悼コーナーだって出来る。そんでこれに釣られた若者が『芽むしり仔撃ち』あたりに打ちのめされてくれるといいな……などと考えつつ、とある作家が亡くなった折りに、直ぐに追悼コーナーを設けてもらえるというはとても恵まれたことなのだとも思った。何故ならそれは、その著作がまだ世間に流通しているということを意味しているからだ。  出版社品切れ重版未定。  出版社の倉庫にもう在庫がなく、今後重版す

    • 野次馬の薄ら笑い

       純文学を書く作家達が、これは芸術なのだからごく限られた読者にだけ届けばいい、これは先進的なものだから限られた知識人やエリートにさえ読まれればいいと割り切ったうえで作品を書いているのなら、それを安易に否定することは私には出来ない。そうやって突き詰めなくては辿り着けない境地だってあるだろう。そうやって突き詰めるから「純」文学と名乗れていたという側面もあるだろう。  けれど以前の記事でも書いたように、今や「言葉の主導権」が知識人やエリートからごく一般の人達にも与えられるようにな

      • 意向と動向

         例の作家の発言が炎上している。ただ以前からこの作家がTwitterとか新聞とか、挙げ句に芥川賞選評などで余りに偏った危うい発言をしていたのは(情報音痴な私ですら)既に観測していたわけで、なるべくしてなった事態という感想しかないのだけど、ここで指摘されているようにこれが「純文学」の問題として取り扱われて「いない」というがむしろ私達にとっては深刻な事態なのであった。  芥川賞の選考委員というのは、文壇の大御所ともいうべき重要な立場であるはずだ。というのも、芥川賞受賞作以外の純

        • 小さくあり続ける

           大江健三郎が亡くなった。好きな作家……ではあったと思う。でも五、六作品しか読んでないし、最後に読んでから随分と時間が経ったから私が語れることなんて余りない。『芽むしり仔撃ち』が一番好きだった。  Twitterのトレンドにも大江健三郎の名前が挙がっていた。それでふと覗いてみたのだけど、作品のことではなくて彼の政治的な態度とか活動に関する言及がずらっと並んでいて溜め息を吐いてしまった。私は大江健三郎について詳しくはないけれど、難解というよりは難読、かなり独特の癖のある作家だ

        追悼コーナー

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        • untouchable holidays
          54本
        • invisible holidays
          21本

        記事

          量と質の相克

           幾ら同人誌即売会や執筆サイトの存在感が増したと言ったって、残念ながら純文学はそのどちらにおいても注目度の高いジャンルではない印象がある。SNSと相性がいいとは言い難いし、新しい読者や作者を牽引していくようなムーブメントもなかなか起こらない。青空文庫で古典的な近代作家が無料で読めるようになったのなんかはプラスだろうが……総合的に言えば、恐らく現代にあっても流通量の伸びが余り芳しくない分野の一つなのだと思う。  創作者側にとってみれば、オルタナティブな流通経路が拡大していない

          量と質の相克

          小さな物語の語り手

           小さな物語はいつだって無数にあったのだ。たとえ大きな物語が本当に存在したとしても、私達の周りには無数の小さな物語は溢れ続けていた。大手のテレビや新聞がどんな「物語」を世間に流通させていたとしても、北陸の片田舎の小学生が放射冷却でかちかちになった田圃の雪のうえを走って(ちょくちょく「ズボり」ながら)登校していたというこの小さな物語が失効するわけではない。子供達は透き通るような氷点下の晴天をどたどたと不器用に走っていく。土手を慎重に滑り降り、たまに凍った雪を齧り、脚の遅い子を待

          小さな物語の語り手

          大きな物語の意志

           詳しいことは知らないが、現代とはかつて世界を覆っていた大きな物語が終わり、小さな物語が無数に乱立している世界らしいのだ。ただこれは、例えば東西陣営の崩壊という世界情勢的なことであったり、或いは個々人の趣味嗜好の細分化みたいな意味でなら何となく分かるけど、でも私達を取り巻いている「物語」がそんな小さく細分化しているのかといえば、やはり疑問がある。大きな物語が存在しないならば何故、新聞やニュースは特定の事件や社会問題をあんなしつこく追求するのか? 何故SNSでは特定の事件や社会

          大きな物語の意志

          文体の一部

           ニコニコ大百科は競馬関係記事が非常に充実していて暇潰しがてらに読んでいるのだけど、現役の有名競走馬の掲示板ともなるとどうしても持論語りとか対立煽りとか誹謗中傷とかが現れてきて荒れがちだ。最近グッド/バッドの投票ボタンが出来たのだけど、この世にはバッド評価を集めるために掲示板に書き込む人達がおるんやなぁとちょっと悲しい気分になった。  さて閑話休題、こういう匿名掲示板には、特有の文体のようなものがあるのだろうと思う。そして外側にいる私達には同じような文体で匿名掲示板に書き込

          文体の一部

          成れの果て

           きっとあなたも知っているであろう日本有数の大ベストセラーの作者であり、しかしその後は特に世間の話題になることもなく、本人のTwitterのフォロワー数は千人程度しかおらず、呟いてることも退屈な政治・社会批評ばかりというとある小説家がいる。流石に名前は出さないけれど、私にとって衝撃的だったのは、名前を気にせずにその退屈な政治・社会批評をだらっと眺めてみたとき、ああ、こんな呟きばかりしてる下らない連中なんてごまんといるわと軽蔑気味に思ってしまったことだった。  そうだ、ごまん

          成れの果て

          物語を可視化する

           世界に「眼に見えない物語」が溢れているとして、私達のような物書きには二つの道が与えられる。世間一般に流通している「眼に見えない物語」に便乗してみんなが自然に受け入れやすい物語を書くのか。それとも敢えて「眼に見えない物語」を逸れて、みんながまだ見たことのない物語を目指すのか。  往々にして前者はより大衆文学的なアプローチ、後者はより純文学的なアプローチと捉えられるわけだけどなかなかそう簡単には行かない。エンタメ小説だってありきたりな物語に飽きた人々を刺激するための新奇さが求

          物語を可視化する

          眼に見えている物語

           「物語」は小説や漫画や映画などといった創作物に限らず、無数に私達を取り巻き続けていると考える。私達はテレビのCMなんて真面目に「物語」として観たりしない。しかし我が身を振り返ってみると、ほんの数十秒のCMを何度も何度も観せられたせいで何かしら影響を与えられている自分を見出だして恥ずかしくなることもある。ならば私達が真面目に「物語」として読んだり観たりするもの、例えば小説や漫画や映画のような創作物はどうなのだろう。これ等のいわば王道とも言える「物語」には、例の彼女が露骨に恐れ

          眼に見えている物語

          原発が爆発したんや

           あれは、結局誰の話だったのだろう。誰かのお父さんだったと思うのだけど、とある男性が当時は関西のほうで働いていて、1995年の阪神淡路大震災に被災した。そして突如の激しい揺れに襲われた男性は、とうとう福井の原発が爆発したんや、と咄嗟に思ったのだそうだ。  これは東日本大震災を経てしまうとあべこべなようにも思える。地震が起きたから原発が爆発したのではない。原発が爆発したから地震が起きたのだ。これはつまり、原発という存在がわりと身近だったとある福井県民が育んでいた特殊な「物語」

          原発が爆発したんや

          影響を受けたくないんです

           所属していた大学の文芸部に部外から作品を持ち込んできたひとがいて、まぁ普通に全然詰まらなかったのだけど、取り敢えず私達がこういう話を書くならあれとかこれとかの作品を読んだり観たりすると参考になりますよ、と作品を幾つか挙げたところで、彼女が 「私、他の作品とかから影響を受けたくないんです」 と言い放って唖然としたのを私は今でも覚えている。  うん、実在するんです。本当に……  他の作品から影響を受けたくない、だから他の作品を積極的に読んだり観たりしません、というスタン

          影響を受けたくないんです

          印象派的な

           印象派的な小説は可能だろうか。  印象派という言葉もまた、例えば純文学とかロックンロールとかと同様になんだかふんわりした理念になっちゃってる気もするけれど、印象派には筆触分割(色彩分割)というわりと明確な技法的特徴が存在する。絵具は異なる色を混ぜれば混ぜるほどに段々暗い色合いになってしまう。しかしアトリエではなく戸外での制作を重視した印象派の画家達は、その明るい色彩を表現するために、絵具を直接混ぜずに隣り合わせてキャンバスに配置していくことで視覚的に色を混ぜ合わせるという

          印象派的な

          粗筋が書けない

           自分の作品の粗筋が書けない。  サークルの宣伝が下手なのは自覚してるのだけど、その一因になってるのがこれである。粗筋が説明出来ないから宣伝文句が変な方向に走って自滅する。そのうえ、説明出来ない部分を理念的な言葉で補ったりするのは欺瞞なんじゃないか、というスタンスなので差し障りない綺麗事も吐けない。ブース設営のセンスもないし、常駐してるのはいつも退屈そうな顔をした無駄に背が高い猫背が一人、もしかしてなんか得体の知れないサークルと思われて怖がられてんじゃないか? とすら考えて

          粗筋が書けない

          『ユリシーズ』のコミカライズ

           私がまだ地元にいた頃にはもうあったから十五年は前だろうか、イースト・プレスの『まんがで読破』シリーズというのが結構流行っていた記憶がある。漫画で気軽に名作の粗筋を読んで教養を身に付けよう! みたいなムーブメントの走りの一つなんじゃなかったかな。一応それなりに大きな書店に行けば現在でも手に入らなくはない。  ところで私がこのシリーズに懐疑的だったのは、コミカライズを担当した漫画家のクレジットが表紙の何処にも書かれていなかったからだ。例えば中公文庫には『マンガ日本の古典』とい

          『ユリシーズ』のコミカライズ