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なぜ働くの?なぜ産みたいの?_vol.1

中村あやと申します。遅まきながら、noteデビューしました。
まずは、改めて自己紹介。
私がキャリアシフトした訳やいまの仕事をはじめた理由、現在取り組んでいることについてお話します。


■「卵子の在庫数」を知ったとき、私は・・・


ネット情報が氾濫し拡散する時代。
snsでは他人のリア充投稿に一喜一憂。
私も例にもれず様々な情報や噂に大きな不安をかかえた張本人でした。

学生時代から目標を設定してはストイックに突き進んでいくタイプでした。
ダイエット、受験、就活、恋愛、婚活・・・段階的にコミットしていき、夢を叶えてきました。なのに・・・。結婚すると、妻とは、母とは、女とは こうあるべき・・・。周りの声、友人の声、親の声、ご近所の声、ネットの情報、それらに振り回されてしまいました。

子はかすがい
未だそう言われることの多い、日本。

子供が持てなかった私は、まさか自分が「孤独感」を抱え続けるとは予想もしませんでした。

産みたいのに産めない〜卵子老化の衝撃〜」という特集番組が2012年2月にNHKで初めて放送されました。この内容には日本中の女性たちが衝撃を受けたと思います。私もその一人でした。急いでクリニックを予約し、卵巣年齢検査AMH検査)と呼ばれる検査と不妊基礎検査を受けに行ったのです。

先生:「卵子の在庫数がね・・・産むのは急いだ方がいい。」
 :「ざ、在庫数??」
先生:「パートナーがお忙しいならすぐお願いしてください。
    体外受精をおすすめします。」

 初めての病院で、突然切り出されました。「タイムリミット」の不安があった自分には切実でした。帰り道、不安な気持ちでいっぱいいっぱいになり、1駅電車を乗り過ごし、頭の中は真っ白に。渋谷駅で電車をおり、スクランブル交差点で涙が溢れてきました。

「お母さん、どうしよ・・・」

学校で性教育の時間はありましたが、それより大切な「未来の人生計画」については親にも、学校にも、誰にも教えてもらっていませんでした。
卵子の在庫数」など初めて聴く言葉でした。しまいには周りのせいにしている自分がいました。

そんな時、パートナーの仕事は忙しく、ゆっくりと話あう時間はとれませんでした。ある日、勇気を振り絞って、「私は、産みたい」と懇願しました。おそらく尋常じゃない剣幕で訴えました。・・・気付いたら、土下座して泣いていました。
〝男の子のママになりたい〟そんなごく普通の夢がありました。
途方にくれました。完全に1人ぼっちでした。

・・・気づいたら、3年が経過。
いつかパートナーの仕事が落ち着いたら・・・と願っているうちに、
妊活話〟を切り出すのは余計話づらくなっていったのです。

私の中にも「母性」がある・・・湧き上がる衝動のようなものに気づいた時、どうすることも止められませんでした。数ヶ月前の自分には、「離婚」など〝よそ事〟でした。予想だにしなかったからです。

その頃、ドラマ「セックスアンドザシティー(SATC)」に勇気をもらいました。”DINKS”主義を貫く主人公キャリー、LGBTカップルの結婚式、シングルで生きる選択をするサマンサ、夫が男性不妊だったシャーロットは、体外受精のことを理解してもらえず離婚。再婚したパートナーと不妊治療をしますが、結果実らず、養子縁組で子供を迎え入れるのです。


ドラマの中のNYの男女は、様々な「選択肢」を受け入れ、自由に生きて輝いていました。人目を気にせず人生を自分で選択していたのです。
不妊治療、卵子提供、精子提供、代理出産、養子縁組、LGBT夫婦、事実婚カップル、欧米では「家族のかたち」は様々です。

私が医療者でないのに「生殖」に興味を持ったのは、そのような自身の経験と日本の古い価値観に疑問があったからでした。男女の性についての知識と、ART体外受精治療)の知識までを有する不妊カウンセラーという仕事は日本ではまだマイナーです。医療者ではない自分が0から目指すのは難しい目標ではありましたが、決意はなぜか固かったのを覚えています。
過去の私のように、女性が1人ぼっちで悩んでしまわないようにサポートしたい。そんなことを胸に誓いました。


■ なぜ、働くのか?

一見関係のないようで、「働き方」と「」は本質的な部分でリンクしています。
過去の話に戻りますが、広告会社で深夜まで働いていた時代には「働き方」については繰り返し考えさせられました。20代からの約10年は恐ろしく働きました。「なぜ、働くのか?」ということについては、私なりに繰り返し自分に問いかけてきた想いがあります。

それはパートナーも同じでした。
実は彼は救命救急のギネ産婦人科医)でした。つきあっている頃から、お互いにこの問いについてよく語ったように思います。同志のような存在でした。

大学病院の産科医の労働時間は、一般人の想像をはるかに超えるものでした。絶滅危惧種と言われる科の勤務形態は過酷です。若い医師は他病院でのバイトをかけもちしていることも多く、連続72時間勤務も日常にありました。広告会社はブラックだと批判されることがありましたが、医局の労働時間は企業と単純に比較しても〝どうかしてるレベル〟だと家族の立場で感じました。正直、救急医療の現場は「命をかけた仕事」だと私は感じていました。

3.11震災があった時、都内の産科ドクター達は大学も人手不足で当直が多い中、不眠不休で被災地へお母さんと赤ちゃんを助けに行っていました。
仕事ではなく、志事
彼やその周りの医師たちの「ミッション」には頭が下がりました。

だからこそ、私は「自分はこうしたい」はなかなか言いだせませんでした。
志を応援したい気持ち、相手を好きな気持ち、心の奥底の不安と本音・・・
正直な所、どう表現していいのかわからない感情になることがありました。

好きな仕事なのに、熱い想いで頑張っているのに。
仲間同士、お酒を飲むことがよくありました。広告会社の友人たちと大学病院の医師の友人たちは何故か不思議と通じあうものがありました。
「いやー、そっちも働いてますね」が合言葉でした。
個人の力ではなかなか変わらない、変えられないことが多すぎました。
でも、それぞれ皆、問題意識は持っていたように思います。でも当時、それらを声にする、声を届けるというのがすごく難しいと感じていました。


続く→





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Aya.N

働き方・キャリア・健康医療・生殖・産科婦人科領域について発信してます。 学会認定不妊カウンセラー・コーチ・ヨガセラピスト https://ameblo.jp/chaai-haat/
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