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"デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム"をみて

お茶会で大髙ユキちゃんに映画"デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム"の素晴らしさを教えていただき、さっそく夫婦で見に行ってみた。

まず思ったのは、どの言葉も彼自身から出てきてるということ。僕は今まで生きてきて長らく借物の言葉を吐き、借物の生き方をしてきた。だから、自分が話してるようで、実は親の意見が勝手に口から出てることもある。人と話していて似たことを感じることもある。その人の実体が体から抜け出していて、別の誰かが代わる代わる入って話してるように感じることもある。

すごく不思議だけど、日常的に起こりすぎて気にも留めない現象。自分が誰か?何者か?何のために生きてるのか?という問いに答えて、自分を生きる。そんなことを忘れてしまう癖は、庶民の家庭に生まれた僕には根強い。映画の中で彼は、中間階層にいることを忌避していた。それは自分の人生を放棄して、周りの人達と大体同じように合わせていくこと。すごく悪くも無いし、だからと言って良い人生だとも言えない。そんな生き方。

だけど、生き方は生まれによって決まらない。映画の中では、ある程度は家庭の影響で性格は決まるけど変えられる、という様なことをデビッドボウイは言っていた。また、インタビュアーから、本当の自分を曝け出さないということは今のあなたも本物では無いのですか?と聞かれて、その答えも面白かった。色んなパーソナリティー/性格を表現して楽しんでいると語ったのだ。つまり、性格は変えられるということ。(ただし翻訳の中で性格ではなく個性と訳されていた。)性格が変われば人生観も変わる。見える景色も変わる。

移り変わる無常の中で、本当の自分が何なのかを探していく訳だけど、ここにもトリックがあった。定まった本当の自分があると決めつけてしまうこと。そういう決められたゴールはない。だから、無限に自分を見つけて発見できる。もし決められたゴールがあれば、それを見つけたら人生は終わりになってしまう。僕たちの生きる世界はそうなってなくて、始まりもなく終わりもない永遠の中にいられることには、神かあるいはそう呼ばれる存在やエネルギーに感謝しかない。

じゃあ決められた自分がいないのに、なぜ自分を知ろうと思うのか。決まらないから放っておけばいいじゃ無いかとも思う。それを彼は映画の中で、場所を探しているのだと言っていた。自分の場所が分からなければ、帰るところがなくて迷子になる。進む先も決まらずに方向性を失って混沌としてくる。映画の中で彼は混沌というキーワードをよく出していた。混沌と隣り合わせで僕たちは生きている。だからこそ、方向性を求める。

混沌に飲まれて自分を見失うと、なぜ生きてるのか分からなくなる。人生は暗くなっていく。なぜ生きてるのかを心の底から理解すれば、光が差し込んで人生は明るくなる。自分を無視すれば辛くなるし、自分を知れば喜びが生まれる。その自分とは一体誰なのか?それを彼はアートを使って表現したのだろう。僕たち自身は大切にして気にかけてあげるべき最優先事項に違いない。

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