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【自己紹介】年商1億円を達成して分かったお金よりも大切なこと②〜立身出世編〜

前回はこちら。


父親の会社の倒産がキッカケとなり極貧地獄を味わい、その苦境を乗り越えるべく、大学生活色々な経験をしていった。

そして大学3年生になり、自分の進路を考えた。どの業界に身を置くか。

「お金を稼ぐなら金融業界が一番手っ取り早い。大富豪、大企業のお金を運用して、その手数料を%で貰えば、額が大きい分稼げる。」

「IT業界では在庫を持たないビジネスであれば、コストがかからず効率が良い。」

「伸びる業界に身を置くことが成功する秘訣だ。」

という本もあり、金融業界、IT業界にも興味を持ち、会社説明会にも行ってみた。
どの業界であれば、1億稼ぐことができるのか。

しかし、全くトキメキがなかった。

何故か。
規模が大きく本当に人の役に立っているのかが見えなかったからだ。

言うなれば、仕事の手触り感。
自分が何かをして、目の前の誰かを喜ばせる。

色々な経験を経て、感じた自分の好きなことは、それだった。

特に、「目の前の人を喜ばせたい!」強く感じた経験は大学2年生から卒業まで経験した、塾講師の経験が自分の中では大きかった。

何十人という受験生を担当させてもらったが一番記憶に残っているのは、数学が苦手な中学2年生のMちゃんだ。

定期テストでは平均が60点のところ、毎回40点ちょっと。

勉強はしているが、点数が取れず数学が楽しくない。
ただ、自分には夢があって、良い高校、良い大学に行きたい。だから今数学の点数を伸ばしたい。

でもできない。という状態だった。


中学数学の場合は基本的には1年生からの積み重ねで、中3の問題が解けるようにできている。
だから、どこかで躓いた経験があると、テスト範囲の勉強をしても点数は取れない。

そこで色々な問題を解くなかで、どこが原因なのかを探っていった。
最初はやる気の無いMちゃん。

難しい内容はやらず、できるところだけ。まずは自信を付ける。
そして、少しでもできたらたっぷり褒める!

「意外と自分もできるかもしれない。」という気持ちが何より大切だった。


そして、一歩ずつ難易度を上げていく。
すると中学1年生の内容で一部曖昧な箇所があることが判明。
ここまで来たら、あとはその箇所を丁寧に理解する。

するとあら不思議、今までできなかった問題が解けるように。
Mちゃんも徐々に数学が「きらい」から、「きらいじゃないかも」になっていった。

そして、高校入試の内申点にも関わる運命の期末テスト。
テストが終わり、採点が終わって、テスト返却。

教室にそのテストの答案を持ってきてくれたMちゃん。
出会うや否や、答案を「勝訴!」ばりに広げてくれた。

なんと結果は、80点!(平均点は65点くらいだった)

「先生のおかげです!ありがとうございます!」
と宝石のようにキラキラした表情で、
Mちゃんは言った。

「人が嬉しい時の表情って、
こんなにステキな表情をするんだ!」

と感じた一瞬だった。

そのことが自分の胸を熱くさせた。

そこから講師という仕事に没頭した。

今で言えば、やりがい搾取というかもしれないが、当時は毎日楽しくて大学そっちのけで、徹夜でカリキュラム作成や、試験の研究するくらい没頭した。

生徒全員の受験会場に行って、門前激励をするなど、冬の風物詩のワンシーンを作っていた。

そんな塾講師の経験から

「何かを伝え、目の前の人を喜ばせる仕事」
をしたいと思った。

勿論そのまま塾講師になるという選択もあったし、実際に社員にならないかという話もあった。

ただ、正直大学受験さえ上手くいけば人生バラ色になるか。
と言われればそんなことはない。

もっと大切なものがあるんじゃないかと思ったし、父親の会社の倒産という実体験からも、「ビジネスやお金での成功」を追い求めていた。

そして、万人にとってもお金やビジネスでの成功の方が、幸せになる道筋なのではないかと思った。

そうして大学3年生の時に進路を
『ビジネスでの成功』✖️『目の前の人を喜ばせる』
という軸で考えた。

その結果、ビジネス教育業界、コンサル系、新規事業を起こす会社に興味を持った。

ビジネス系の研修講師、日系コンサル、リクルート系に絞って、選考を進め、幸いいくつかの企業に内定を貰った。

そして、当時の塾講師時代の恩師とも言える、人に相談をした。この方には大変お世話になったが、そのエピソードはまた今度。

結論としては、

「君はコンサルのような頭の使い方をしてもいいし、
リクルートのような新しい事業を起こすようなことも
きっとできるだろう。

ただ、圧倒的に教育の仕事が君には向いてる。

と背中を押してもらった。

第三者の視点から自分では気がつけないアドバイスを貰ったのは、非常に有り難かった。

自分自身もビジネス系の研修講師か、コンサルで悩んだが、自分が得意なことをしよう!と思って、前者への就職を決めた。


大学を卒業し4月。
同世代よりも2年遅れて、改めて社会人となった。

本当にまぁ色々あった。
一言で言えば、社会の厳しさを知った。

あの時に戻りたいかと言われれば、絶対に戻りたくないが、
最高の体験ができたと思っている。

最初はセールス部門に配属された。

とにかくこの部門は会社の中でも強烈だった。
(会社の名誉のために言うと、その当時は多かれ少なかれどの会社も同じで厳しかった。今はクリーンになってるそうなのでご安心を。)

上からは、
「新卒は何のスキルも無いただの生ける肉の塊だ。早く人間になれ!」
という、具体的に何から手をつけたらいいか分からないアドバイスを頂いたり。

僕がテキストに留めたホッチキスが若干ズレてしまったことに、上司が激昂し、「ホッチキスを留めるという細かい仕事がどのようにビジネスの成果に通ずるのか。」(通称 ホッチキス理論)という、アドバイスを2時間頂いたこともあった。


これくらいは全然可愛い方で、一番辛かったのは「営業研究」という名の半沢直樹もビックリの詰められようだった。

当然営業の成果が出ない日は、具体的な話から心構え、ひいては今までの人生について、アドバイスを頂けるのだが、シチュエーションが辛かった。

部内全員から見えるオフィスの真ん中に一人立たされ、少ないときで1時間、長い時で3時間程度、「君はいかに人として未熟か」をぐうの音も出ないくらい上司から聞かされるのだ。

当時純粋だった僕は、成果の出ない悔しさと恥ずかしさ、そして足の疲労で床に突っ伏し、手で床を叩き号泣したこともあった。

それでも、営業研究は続く。

そのリアクションに対して追い討ちをかけるように、
「もっと冷静にポーカーフェイスを保て!」とアドバイスをされ、

それを意識すると、
「ちゃんと聞いているのか!?感情をもっと出せ!」と言われ、

感情を露わにすると、
「それでも社会人か!!」と、

「私と仕事どっちが大事なの論争」もビックリの無理ゲーだ。
最早何を研究しているのか分からない。


たまにこういうことがあったのではなく、This is 日常だった。笑

自分の得意と好きを見極めて入った業界であり、会社だった。
「できるでしょ!」という色々なことを成し遂げていた自負や自信もあった。


しかし、そんなプライドは木っ端微塵に、グチャグチャになった。
「自分ってなんてダメなんだろう。」と痛感した。

その当時のマネジメントは、「会社色に染め上げる!」というスローガンの名の下、徹底的に今までの考えを否定し、平にしてから「強い社会人としての考え方」を教えるというものだった。

これが本当に辛かった。毎日泣いていた。
目真っ赤にしてお客様へ営業していた。

ただ自分は「これが社会だ。お客様の幸せのために頑張ろう!」と
毎日切り替えて、辛さに絶え、営業研究を乗り越え、8時から23時まで、休日も返上で仕事をしていた。


そんな毎日を過ごし、時が流れ、今までの涙が報われる日が来る。

新卒で社内売上記録を樹立し、有り難いことに全社員の中で年間MVPを受賞した。

ハイアットホテルで行われた全社総会で、スポットライトを浴びてMVPのスピーチもさせて貰った。

壇上では、今まで父親の会社の倒産から、アイドル図鑑を作っていたこと、ニコ生で出会ったインフルエンサーに二股されていたこと、新宿歌舞伎町のHなイベントにスカウトされたこと、富士山で遭難してお漏らししたこと、そして上司からの手厳しい叱責のこと。

辛い思い出も、努力した思い出も走馬灯のようにフラッシュバックした。

「俺は頑張ったんだ。」
と一つの満足感に浸った。

今までの苦労を"倍返し"できたのではないかと思う。

ここからの社会人生活については長くなってしまうのでその後を事実ベースで伝えると、

東海地方の新しい事業所の立ち上げメンバーに抜擢。

部内平均成約率30%のところ、成約率75%を達成。

営業と兼任で講師にも選ばれ、上場企業での企業研修を担当。

採用活動を担当し、映像コンテンツや教材の作成。

トップセールスとなり、マネージャーへ昇格。

部下を全員トップセールスにする。

プライベートなことで言えば、年上の女社長と出会い、長くお付き合いすることになった。

勿論、最初から上手くいったのではない。

オフィスのど真ん中で泣き伏せていたただのプライドグチャグチャの肉の塊が、お客様や上司に恵まれ、数多の失敗の上で達成できた。

激しいマネジメントの成果なのかと言われれば、疑問が残る。
多くの人間が退職し、たまたま諦めの悪く残っただけかもしれない。

仕事で失敗をして、絶望の淵に立たされトータル167回は会社を辞めようと真剣に考えた。

その都度、自分の中でできることは全部やってから辞めようと思い、たくさん努力をした。

誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰社した。

週100時間働くことを目標にした。

仕事のノートは30冊を超えた。

東海地方の70の市と区を観光して周り、どこに住んでいる方とでも共通の地元の話をできるようにした。

読書やボイトレ、エステやオーダーメイドのスーツ、セミナーも含めて自己投資に1,000万以上費やした。

自分の営業や研修トークを動画で撮影し、何度も何度も最適な言い回しや雰囲気をトレーニングした。

本当にできることは、考えうる限りなんでもやった。

ただこの努力によって一番得られた嬉しかったことは、結果が出て昇進したことではない。


名古屋から本社に戻るとなった最後の出社日のことだ。

今まで担当したお客様が100人近く集まって、終業後のセミナールームを貸し切って、2時間にも渡るサプライズお別れ会をしてくれた。

全員社会人で立場がある方にも関わらず、僕だけのために時間を作って、集まってくれた。わざわざオーストラリアから参加してくれた方もいた。

オリジナルの竜馬をネタにした漫才や、本社でお世話になった人からのビデオレターというコンテンツを用意してくれた。

そして100人近くの人が、一人一人が思い思いに、感謝のコトバと、自分と出会ったことでいかに人生が変わったのかを熱く語ってくれた。

20代の若い女の子もいれば、既婚者男性で40代の管理職の方まで、幅広く愛して頂いた。

多くのプレゼントと愛を貰った。

そのサプライズお別れ会で2時間ずっーと、

「こんなのズルいよ」と

僕は感謝のあまり号泣していた。

その涙は、
オフィスの中で怒られていた時に
流した涙とは、違う味がした。

たかが一人の人間が、異動するにあたって、こんなにも社内社外問わず、多くの人が感謝や愛を表現してくれる、そんなの聞いたことない。

うちの会社にそういう文化は全く無いし、完全に皆さんの中からの自発的なものだった。



そこで初めて、今までやっていたことが、本当の意味で報われた気がした。

これらの体験で唯一自分の中で誇れることは、入社前から思っていた、
「ビジネスでの成功」と「お客様の幸せ」という気持ちを誰よりも持ち続けられたことだ。


ここまでで良い感じの雰囲気で「人とのつながり。」的な感じで、タイトルを回収しそうな雰囲気だが、結論はちょっとだけ先だ。

何故なら、この時には年商としては1億には未だ届かないレベルだったからだ。


そして最も恐ろしいことに、
本社に戻りマネージャーに昇進した時の
手取り月収はなんと16万だった。笑

単位は、ドルでも、ユーロでもなく、もちろん円だった。笑
思わず7度見した。

この色々達成したこと、頑張ったことをたくさん挙げたのは、このことをどうしても強調したかったからだ。笑

16万円!
こんだけ努力をして、色々成し遂げたとしても、ビックリ手取りだった。

誰だよ!
「本当に自分が得意なこと、好きなことを見つけ、それを仕事にすることが成功への近道だ。」とか言ったやつ!

このままではマズい。
1億を稼ぐにはどうしたらいいのか?
そして次なる選択をするも、それは「終わりの始まり」だった。


前回はこちら。

次回、年商1億円を達成して分かったお金よりも大切なこと③〜終わりの始まり編〜!


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それでは、出会えたことに感謝。

良き日をお過ごしください。

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