消費される恋愛、消費されるわたし

「恋バナしよ〜〜!」
気付いた時からずっとこの言葉が苦手。
高校の時付き合っていた彼のこと、「どこが好きなの?」とか「将来有望だね」とか、「どこまでいった?」、これがいちばん苦手。
もちろん人として好きだったし、一緒にいたいから彼氏と彼女という関係性を望んだ。少なくとも私はそうだった。なのに周りは"恋愛しているふたり"として見てきた。高校生だった私は明確に違和感を覚えていた。

   大学生になった今もそう。大勢の集まりでなされる恋愛話は娯楽的。誰かの話でひとしきり盛り上がったあとは何もなかったみたいに無視して別の話をする。その辺に生えてる花と同じ。一瞬だけ気を取られて、そのまま忘れられていく。
多分、その場にいる人は実際その人の恋愛話に興味があるわけじゃない。ただ"恋愛の話をしている"その空気を共有して周りの人と笑いたいだけ。

   大抵大学生で話題にあがるような恋愛話は、誰と誰が付き合ったとかそうじゃないとか、そんなもの。その大半が一年の間に別れて、また他で付き合って。彼ら彼女ら、恋愛ってものを″したい″らしい。恋愛ってしたくてするものなの?
欲求のままにすぐに入れ替わるような恋愛なんて、そんなの消費物じゃないか。

   そんな話に混ぜられて話を振られて、そうしてなにか引きずり出そうとされる私も、なんだか消費されている。
結局恋愛至上主義がマジョリティなこの大学生社会において私は消費される運命から逃げられないのかもしれない。


   もっとやわらかな世界に生きたい。余分な意味を含まない「好き」の言葉をもっと大切にしたい。きれいなものからできていたい。読書家な友人と、それから毎日生きにくさを感じている人たちがもっとやさしい世界に生きてほしい。

   マイノリティであることは理解しても、マジョリティの中で生きることは、やっぱりまだ難しい。

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