哀しみを拒むと鬱になる

『宇宙は美に満ちてゐる』といふわたしの記事に、
まりりんさん

あやのんさん
がコメントしてくれました。
それらを読んで、いつも感じてたことが言葉になったので、コメントへのお返事ではなく、
哀しみ、鬱、そして、情緒と身体性
といふテーマで記事にすることにしました。

先づは、お二人のコメント。

まりりん~毎日は可愛らしい可笑しみに満ちている~

2024年5月12日

ほんとに友達のアイさんの踊りは美しくて、私は観ていると切なくなります。


根底には哀しみがあるのかなあと思う。アイさんは、保護犬を育てたり、弱い人にすごく優しいのです。

やはり情緒は哀しみから生まれるのかもしれませんね。

生きているものの哀しみを感じる心、、高木先生の情緒は失われかけている日本人の情緒なのかしら、、

私はなんだか生物的な女性より、精神的な男性のほうが情緒が深い気がします🍀

あやのん

2024年5月12日

出た!無構えの名人(⋈◍>◡<◍)。✧♡

いま、泣き虫の高木先生に、そうやってすぐ泣くの、やまとごころ、なんちゃう?
とコメントしようと思っていたら、名人がまさに「もののあわれ」を持ってきた気がした( ´艸`)やまとごころも、もののあわれも私はちゃんとわかってないけど、きっと高木先生が、解説して下さると信じてる💖


わたしは、解説なんて出来ませんが、思ふところはあります。
或る古い精神分析理論(クライン派といふイカレた精神分析家集団を創り出した、イカレたメラニー・クラインのイカレた理論🤭)では、自我の発達段階では、心は必ず二つに分裂する、といふ考へがありました。

心が二つに分裂するのは、乳幼児にとって、母親の乳房が二種類あるからです。

よい乳房(お乳を与へてくれる母親=愛してくれる母親)→乳幼児のよい心(母親が好きな私=私自身が好きな私)

わるい乳房(お乳を与へてくれない母親=愛してくれない母親)→乳幼児のわるい心(母親を嫌ふ私=私自身を嫌ふ私)

母親はいつもお乳を与へてくれるわけではない、つまり、完全に乳幼児を愛せるわけではない
どんなに愛情深い母親であっても、乳幼児にとっては、母親は、不完全なのです。つまり、

良い面
悪い面を待ってゐる。

けれども、乳幼児は、母親から完全に愛されてる、と思ひたい。それは、
完全に愛されてる=絶対安全である
といふことだからです。
母親が不完全であること、つまり、わるい乳房を持つことを認めると、乳幼児は
生きることとは不安だと気づき、
鬱状態になります

鬱とは、
生きることに必ずついてまはる不安に、追ひ詰められて身動き出来なくなった状態
のことなのです。

鬱にならないために、乳幼児は、母親の悪い面を否定して存在しないものとする。
けれども、さうすると、乳幼児の心の半分も、乳幼児本人から存在を否定される。
つまり、心が分裂します。
それでも、分裂させてしまふと、乳幼児は、ひたすら明るいばかり、元気なだけの自分となります。

かういふ自分こそが、人間本来の姿だとするのが、アメリカンな文化です。
何かといふと、歌ひながら、踊り出す。
その踊りも、舞ひは含まず、ひたすら上下に飛び跳ね、痙攣するやうに動き回るだけの、ダンスです。
例として動画を貼ります。

この動画では日本の魂をこめました、と言ってゐますが、そんなものは微塵もありません。
この踊りには日本人のココロとかたましいは全く無いと思ひます。完全にアメリカ化した日本人の踊りです。だから西洋人(ユーラシア大陸で、民主化した国や民族はみんな、同時に、アメリカ化してゐる)は大喜びします。
これこそ、大和魂。安全で、害のない、エキゾチックジャパン。
I love you all.
西洋人は、かういふアメリカ化した日本人を愛してくれるのです。


アメリカ人(及びアメリカ化した人)たちが、かういふ踊りで何をしてゐるかといふと、
躁状態になることで鬱を抑圧すること、イカレたクラインの作った用語としては、
躁的防衛
です。

乳幼児が分裂した心を統合して、正常に発達してゆく自我を獲得するには、躁状態による防衛をやめて、
不完全な母親を受け入れる
必要があります。 

その時、心は統合されると共に、悲しみを知ります。
悲哀としての悲しみですから、
哀しみ
といふ言葉のはうが、この統合された心が浸される感情の実感に近いかもしれません。

哀しみを知って、心を哀しみを抱けるだけの器にしてゆくことが、自我の発達である
と、イカレた(しつこい🤭)女性精神分析家のクラインは考へました。

>根底には哀しみがあるのかなあと思う。

まさに、旧来の日本人の情緒は、根底に哀しみがありました。
憂ひ、愁ひ、がありました。

>やはり情緒は哀しみから生まれるのかもしれませんね

なんとはなしに心から湧いて出る、物悲しさ、寂しさ、物思ひ。そして、感傷的な気分に浸ること。

>そうやってすぐ泣くの、やまとごころ、なんちゃう?

さういふことは、日本人には、普通のことでした。

成長経済を選んで、毎年の昇給といふニンジンを目の前にぶら下げられてから、やみくもに働くために、スポーツするために、セックスするために、スクリーンするために、もう感傷にふける時間は無くなりました。

アメリカ人のやうに、明るく元気に自己主張して、いつも何かの楽器を鳴らして、いつも誰かの歌を聴いて、何かといふとケタケタ笑ひながら、踊り狂ふ。
さうしてアメリカ化が板について来ると、日本でも、アメリカ同様、鬱病が流行り始めました。

あの笑顔のままの、痙攣的なダンスに象徴される躁的防衛を続ければ、いづれはだれでも、鬱病になります。
鬱を患ったことが無い、といふ人は、今の日本には、ゐないと思ひます。

それは、哀しみを無いものにする、一年中真昼のようなアメリカンな文化をひたすら受け入れてきたからです。


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