弱者家族とヤンキー家族


最初に言ひ訳。
わたしは、記事を引用して自分の見解を書くことが多い。
人の提灯で明かりをとるシリーズ、と自称してます。
わたしは他の人の記事を読む時は、適当にスキを付けず、わりあひきちんと読むはうです。
きちんと読めさうな記事しか読まないし、そんな記事を書く人の記事をよく読みます。
さうして読むと、内容に感心すると共に、あれこれ自分の思ひや感じるところも出てきます。それが読むことの楽しみだと思ってます。
それで、たいてい、コメントしたいことが浮かぶのですが、それが長かったり、もとの記事の内容から生まれた別の見方であったりするときは、引用して自分の記事にします。
これは、そんな記事の一つです。



弱者家族 ヤンキー家族
この用語は、引用させていただいたこうき@サブミッシブさまの記事にある、こうきさまのオリジナル用語です。
上手い分類だと感心しました。

対人関係においても、ざっくり大きく2つに分けると、
弱者ヤンキー
になると思ひます。これは、わかりやすく言ひ換へると、
のび太(及びスネ夫)とジャイアン
となります。
ジャイアンは自己中心的で横暴ですが、そのことによってのび太たちはジャイアンを尊敬し服従してゐます。
もしジャイアンがのび太やスネ夫それぞれの思ひや事情に配慮する人間になれば、のび太たちは次第にジャイアンに不満を感じ始めると思ひます。
かうなるのは、自分に対して配慮する、気配りのある人間と接すると、私たちは、その人の配慮や気配りではなく、それらの不備や不足に目がいくやうになるからです。

与へられるやうになると、与へられるものに対する感謝はあるとしても、長く苦しんでゐた不足を補ってもらった初回だけで、その後も与へられることが続くと、与へられるものに対する吟味が始まり、批判が起こり、やがては、毎回、与へられるごとに不満を感じるやうになります。
これは、成長経済に入ってから今に至る、日本と日本人の日常だと思ひます。
自分たちが享受してゐるものではなく足りないものごとしか感得できず、かつて王侯貴族すら夢にも見なかった便利で贅沢な暮らしを(生活保護を受けてゐる人ですら、昔の王様が持ってゐなかったスマホ、オーディオ、テレビ、エアコン、水道、電気、ガス調理器など、魔法としか思へないものに囲まれて暮らしてる)しながら、生きづらさは増大してゐます。

ジャイアンに対しては、「下手な歌を聴かせるのをやめて欲しい」とか「なにかといふとすぐに殴るのはやめて欲しい」とかいった、こちらかの要望は何も待てません。
だから、ジャイアンに対する不満はまったく感じないし。不満を感じないから、怒りもない。
さうなると見えてくるのは、「ああ見えて優しいところもある」「いつも仲間を大切にしてる」といったふうな、ジャイアンの良いところ、美点だけになります。

日本では、政治家が「国民のみなさま」などと言って、国民に対してかゆいところに手が届くかのごとく全ての生きづらさに配慮するのが政治であるかのやうな態度を取って票を入れさせようとするため、政治や政治家に対しては不満しか感じられなくなってゐます。
そのため、政治や政治家に不満を感じてゐる日本人は、ジャイアン的な政治家の登場を求めてゐます。故石原慎太郎氏やアメリカのトランプ元大統領のやうなオヤビン的な政治家が出てくれば、不満より感謝したいことが多くなるからです。

相手には相手の都合があるに違ひないと思って、配慮したり気配りしたり忖度したりする人は、のび太であり弱者です。
自分を軸として世界を回し他人を動かせる人が、ジャイアンでありヤンキーです。

この二分は極端な分け方で、実際は、弱者とヤンキーの極点の間は無数のスペクトラムやグラデーションがあるのだと思ひます。
それにしても典型的なのび太、典型的なジャイアンも存在するのは確かです。

家族全体として、のび太的だったりジャイアン的だったりすることもある。
引用させていただいた、こうき@サブミッシブさまの記事にあるとほり、
ヤンキー家族、弱者家族
と分類できる家族は確かに存在してゐるやうにわたしには思へます。

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