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手助けのお作法

先日、町内会長さんがやってきて、あるご家庭への協力を依頼されました。

そのお宅はお母さんと、19歳、17歳のお嬢さんの3人家族。
でもお母さんがご病気で亡くなって、今いま食べるものにも困っている
お家で何か提供できるものがあれば協力してほしい
調理はできる子たちなので、何でも大丈夫だから、とのことでした。

早速、台所を漁り
日持ちする乾麺や、冷凍の鶏肉や塩鮭、
畑で採れたジャガイモや人参などを袋に詰め
若いお嬢さんだから、お菓子や生理用品もいるよね、と
ドラッグストアで少しばかり買い足して持っていきました。

町内会長さんのお宅にはたくさんの食品が集まっており、
みんな呼びかけにすぐに応えてくれたんだな、良かったなと
少しホッとして帰ってきました。

こういう風に
困っている人に何かを差し出す時、
私は自分が嫌な人間にならないように、
気を付けてすぐに忘れることにしています。

うっかりすると、
「してあげた」ことを反芻して、気持ち良くなってしまうからです。
「してあげた」自分に酔っちゃってそれを放置しておくと、
お礼をされないことに腹が立ったり
相手のことを詮索してみたり
あげくに「いや、そんなに困ってないんじゃないの?」
などと意地悪く眺めてしまう。

無意識に相手が下であると思って、いやな優越感を抱いてしまうんですね。

こういう場面に遭遇するといつも思い出すのが
「ザリガニの鳴くところ」著:ディーリア・オーエンズ
という本です。
6歳の時に両親に捨てられたカイアという少女が、
ノースカロライナ州の湿地帯でたった一人で生きていく話なのですが、
お金もない、食べるものない中、湿地で獲った貝を
小さな雑貨屋で買い取ってもらい、
何とかその日の糧を得るというシーンがあります。

その雑貨屋をやっているジャンピンは
カイアの獲ってきた貝は売り物にならないとわかりつつ
カイアにある提案をします。

自分の知り合いで、あなたの貝を欲しいというお客がいる。
あなたの貝と、生活に必要な雑貨(洋服やろうそくなど)を
交換させてもらえないか、と。

この品物はジャンピンが熱心に通う教会で、
信者たちに呼びかけて集めたものなのだけど、
このくだりを読んで私は頭をガーンと殴られたような衝撃を受けたのでした。

ジャンピンは教会で集めた品物を、
ただただカイアにあげることもできたのに、そうはせず
労働の対価として交換することを提案しました。
相手のプライドを傷つけず、みじめな気分にさせないように
でも、必要な手助けができるように心遣いをしたのです。

人に何か手助けをするということはこういうことなんだなと
感動しつつ、自分はこんな風にはしてこなかったな・・・と
少しばかり恥ずかしくなったのでした。

誰かに何かをしてあげる、
というのはその人のために、ということももちろんありますが、
少なからず、そうしている自分が気持ちいい
という部分が自分の中に見え隠れしてしまうものです。


そしてそれは無意識に
相手を見下す気持ちにつながるような気がします。

だから、何かを差し出した時は
すぐにそれを忘れねば!と。
それが手助けのお作法だと胸に刻んでいるのです。

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