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災害時のあかりのはなし #4

2016/08/16 @気仙沼 Mさん

お話を聞いた前日は地域の夏祭りの日でした。地域のみなさんの手で夏祭りを再開したいとご準備を進められて、石巻に収蔵頂いていたあかりカフェのキットを地域の方々で運搬、設営してお使いいただきました。その夏まつり主催の気仙沼”小泉Coolなおやじの会”のおひとり、Mさんにお祭り翌日にお話を伺いました。

2012年7月の山田大名でのあかりカフェ(初めての開催)に、娘と参加してたんですよ。
私は地域の消防団に所属しています。東日本大震災発災時は会社にいましたが、消防団の任務ということで会社から水門の閉門に駆けつけました。そのまま津波ぎりぎりまで待機していました。
しかしその後、消防団本部から、逃げろというアナウンスがあり、私は避難したのですが、、、アナウンスしていたご本人ともう一人、消防団に加入したばかりの新しい団員が亡くなってしまいました。
自宅は被災してしまい、避難所で暮らしていました。避難所には体育館で4ヶ月、その後津谷川小学校で2ヶ月避難生活を送りました。その後、山田大名の仮設住宅に移り、そこで4年過ごしました。現在は家を建てて暮らし始めています。      
身を寄せた体育館には初期的に600人あまりが避難していました。私たち家族が小学校で避難生活をしているときは、1教室が1家族で暮らせる状況になっていました。家から学校に通うというメリハリを子供達につけさせたかったため避難先を登校先とは異なる小学校へと変えました。       体育館では天井を照らすように照明を調整し、夜中は薄明るい状態を作るようにしていました。懐中電灯は数個でしたが、消防団員には支給されていました。
仮設住居に移ってからは、(本来はやってはいけないが)備え付けの部屋の電球を取り、調光調色可能なものに付け替えて使っていました。仕事でUVの光に触れることが多いこともあり、ただ明るく眩しいのが嫌だったのです。仕事の外ではぎらつくLEDより柔らかなあたたかな光を欲する気持ちがありました。仮設住宅では、子供達もイライラしていたので明るさを変えて雰囲気を良くしたかった思いもありました。
仮設住宅を出るときは備え付けられていた照明に戻し、新しい家では明るさを変えられる照明を使用しています。
消防団員だからでしょうか。日ごろから地震は防災意識が強かったと思います。家族で避難所の位置を決めていたり、枕元に靴を常備していました。階段にLEDのあかりもつけていました。
災害用には、目印になるような、明るく点けたままにできるものがあればよいと思います。道しるべとなるものと自分の身の安全を守ることができる光が大切だと思います。          
被災者ではなく、被災経験者と思われたいという気持ちがあります。

あの地震の直後に水門を閉めに持ち場につかなければいけなかった人たちがいたということを初めてお話を聞いて認識しました。その危険な任務により宮城県内でも11名もの消防団員の方が犠牲となってしまったとのこと(今年度より災害時の水門閉鎖の自動化が運用される(*1))。地域のために身を挺した人が被った事態をお聞きして愕然たる思いでした。

Mさんは日常的に光の状況にとても気を配って暮らされているご様子で、光の扱いを生業とする私たちにとっても驚くような工夫を避難先や仮設の住まいでされていました。翻っていうと、このような工夫として施された手当が、避難所や仮設住宅の初期設定として提供されると理想的なのかもしれません。

今回のお話からわかったこと

‐ 避難先、仮設住宅での日々において、ただ明るく眩しいのは嫌と感じ、明るさを変えて雰囲気を良くしたかったと思った方がおられる

- 目印になるような、明るく点けたままにできるものがあるとよい

- 道しるべとなるものと自分の身の安全を守ることができる光


Mさん、どうもありがとうございました。

*1 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201806/20180620_11027.html

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