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原体験とまではいかなくても。

2019シーズンから本格的にサッカークラスタに舞い戻ってきた(と思っている)。その原因(といってはあれなんだけど)は奈良クラブに出会ってしまったからなんですが、遂にアウェイにまで行くほどになってきて、Jリーグ開幕から毎試合のように両親とサッカー観戦をしていた頃を思い出すことが多くなりました。そして同時に、今、彼女に対してどう向き合えばいいかなとか思う瞬間が多くあります。

私が自分の趣味に使いたい時、気をつけているのが、

・家族が私の趣味を応援できなくなるようなハマり方は避ける

ということなんですけど、ドルオタでいる自分でいる時はオタクの頻度を夫と話し合って時間を確保する(出かける日はお迎えから寝かしつけもお願いできる日を確認してからチケット抑えるとか、寝かしつけが終わってからDVD観るとか)んですけど、これは私一人が好きな趣味だからこそ為せる技でもある訳です。

私が騒いでいるうちに夫も奈良クラブが好きになったこともあり(いいぞもっとやれ)、サッカーについては私一人の趣味ではどうやらなさそうだ。これはいいぞと思いつつ、そうなると、試合の日とかは家族で観に行きましょうみたいな話になる訳です。こうなるとオタクライフの状況は変わります(ちなみにサッカーオタクって言わないのかな、TL見てる限り素質は同じだと思うんだけど呼び名がいまいちわからない)。家族で行くからには家族でその時間を楽しみたいと思うわけなので、ハードルがぐぐぐっと上がるのであります。

これはもう人それぞれだと思うんですけど、自分の趣味に付き合わせてその趣味のことを嫌いにさせてしまう自体は避けたい。好きになって欲しいとまでは思わないが、その場にいたことが嫌な思い出であって欲しくないなぁと思うんですよね。

サッカーを好きになって欲しいというよりもサッカー観戦が彼女にとって嫌な思い出にならないといいなぁとか、自分の時間を阻害されるものという認識がされなければいいなぁ、とかそういう感じなんですけども。

私が今年読んだ本の中でもベスト3に入るだろう一冊に『人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ』という本があるのですが、

この中にある、

彼らが有能さを求めてチャレンジを繰り返すのは、そうするのがただ楽しいからであるのは明らかである。子どもたちは、報酬の提供によって学習に動機づけられるのをただ受動的に待っているのではなく、むしろ学習の過程に積極的に関与している。まさに、彼らは学習に対して内発的に動機づけられているのである。

というのは、すごくヒントになっています。

まず楽しいこと。その”楽しい”の中身がなんであってもいいんですが、少なくても私たちに「させられている」ものではないこと。いや、どうしたってサッカー場につれていく、その事自体が「させられている」要素が現段階では強いがゆえに、今は他の要素でそれを上乗せしない、程度にしかなってないかもなんですけど…。

で、娘さんとも何回か一緒に観戦したサッカー観戦、先日の日曜日、初めて90分間、一緒に観戦することができました(奈良クラブのホーム戦はキッズスペースがあってほぼそこにいる)。

・ダンダンダダダン\なーらークラブ!/のチャントを覚えたのでそれを大きな声で言うのが楽しかった
・レインボーアイス(というかき氷)が美味しかった
・点が入ったので周りが喜んでたので楽しそうだった

帰りの車の中で「またいきたいなー!」と言っていた娘さん。楽しいと思う要素は様々だけど、とにかく楽しそうでよかった!

「彼女の知らない新しい場の提供をする」と「彼女の内発的動機を邪魔しない」のバランスは難しいなといつも思うのですが、サッカーが好きという価値観が出来上がってしまっている私が、サッカー観戦というものを視点を変え視野を変え、どう楽しむか、どう楽しんでもらうかを、常に考え続ける機会であるという点において、とても面白い機会をもらっているなぁと思う日々です。人生って本当、何があるかわかんないもんだなぁ。

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