変わらないはずのものも いつかは変わり果てるのなら 綺麗なところを心に仕舞う

もうずっと悲しいような気がする。ずっと、ずうっと。そのくせ、たったの一晩しか明けていない。その事実はわたしをさらに深いところまで突き落とすにじゅうぶんだった。

なんだか、晴れている空なのに水色に見えないな。34℃の気温はあたたかくもないし。泣いていた私は枯れていて、何もしてないのに思い出が押し寄せてくるし、ふたり過ごした部屋はひとりぼっちだ。

煌びやかな夏の朝に不釣り合いなわたしは、ベッドに寝そべったままひっそりと呼吸をしていた。酸素を肺におくっては鉛色の空気を吐き出す。これを淡々と永遠と繰り返している。機械みたいに。


うん。これが、失恋ってやつだ。

悲しくて悲しくて、どうにかなっちゃいそう。


「今までありがとう」と送信した言葉は、暗闇が薄れる前と変わらず既読が付いたまま。わたしたちの2年間は終わった、こんなにもあっけなく。

ただ寝そべっているだけなのに悲しみが止まらないこれは、いつまで続くものなのか。えぐられた皮膚からは血が流れるばかりで、いっこうに瘡蓋ができそうもない。はじまったばかりの痛みを前に、また笑える日はくるのだろうかと考えると、立ちくらむ程に気が遠くなった。

時間というものが、うちわで仰ぐくらいの治癒力しかないのなら、もう少しだけ見ないふりをしていれば良かったかもしれない。だって、愛し合うことはできなくても、愛することならまだできたって、思えちゃうから。

昨日からじっとりと生乾きのわたしは、夜のどこかに太陽を落としてきてしまったみたいだった。




わたしは今、まさに、正真正銘の、ひとりぼっちだ。

あれだけ憧れてはじめた一人暮らしだったのに、今となっては寂しさを押しのばすものでしかなかった。ひとりで過ごすには余りすぎる。こんなに長すぎる夜をもう一度越えなければいけないなんて、とても無理なことだった。

幸せだけが詰まっていた7畳半のこの部屋は、わたしを摩耗する檻になり果てている。ベッドに寝転がって窓の外を仰いでいると、世界から断絶されたように感じた。それに抗うように半分だけ空いていたカーテンを引くと、痛いほどの空が目の前に広がって、よけい窮屈になった。

このままでは心が干からびてしまう。わたしは枕元の携帯に手を伸ばし、母に電話をかけた。1コールで出たことに少々たじろぎつつ、いつも通りの声で「今から帰ろうかな」なんて言ってみると「はあい」と軽やかな返事が聞こえた。

電話を切った後、化粧もせずに適当な服だけ纏って、玄関を飛び出した。




実家に帰るのはひさしぶりのことだ。駅の周りはところどころ新しくなっていて、この街でさえも変わりゆくのかと思うと、なんだかちょっと寂しくなった。

玄関の扉を開けて迎え入れてくれた母は、相変わらず。髪の毛は綺麗にまとめられ、きちんと化粧もされていた。何も変わっていなかったけれど、でも、変わらないものなんてなにひとつないんだということを思い出して、また悲しい気持ちになる。

今日はもう、すべてが悲しみに変換されるみたいだ。

「おかえり」と言う母に対して、「ただいま」と返そうとしたが、危うく涙がこぼれそうになって、口角をかすかに持ち上げるのが精一杯だった。

部屋にあがり、ソファに腰掛ける。わたしが家を出たときのまま、特に模様替えもしていないのだろうリビングで、深く息を吸ってゆっくりと吐き出した。良かった、間に合った。わたしの心、今もちゃんと生きている。




しばらくして、母がホットココアを淹れてくれた。実家にいた頃は毎朝のように飲んでいたのが懐かしい。まだ沸騰でもしそうな水面にふうっと息をかけると、甘い香りが鼻をくすぐった。温度を確かめながら啜ると、さっきまで固まっていた口角がじんわりほぐれていくのが分かる。

ココア一杯分、とりとめのない会話をしていると、母の横顔がすこしだけ年齢を重ねていることに気づいた。頬のところにシミがふたつと、頭には白い毛も見える。

その途端、変わっていないと思ったこの部屋も、わたしの知っているところではないように思えた。よく見ると花瓶に生けてある花も違ければ、テレビのサイズも大きくなっている。こうなると、このココアの味さえも違うように感じてしまって。ああ、また泣きそうだ。

前にこのソファでココアを飲んだとき、あのときは、ただ毎日が楽しさだけだった。こんなに辛いことがあるなんて想像もしていなかったときの、無邪気なわたし。




でも、不思議と、戻れるなら戻りたいと願うわけではなかった。

結果的には嘘になってしまった時間だとしても、すべての時間が嘘だけでできていたなら、今きっとこんなに悲しい気持ちにはなっていない。なんでもないことで笑い合ったことも、無防備な寝顔にキスをしたことも、落ち込んでいるときに元気をもらったことも、やさしい記憶はぜんぶ、ちゃんと残っていた。

だから、もう気づいている。

こんなに悲しいのは、ほんとうに幸せだったからだって。

失ったという事実で付いた傷はひりひりと痛むけれど、それだけ本気で恋をしていたんだからしょうがない。あれだけ幸せを抱きしめていたんだから、この喪失感は簡単に埋まる訳がない。

もし、この先どんなに恋が薄れていったって、愛までさっぱりと消してしまいたいとは思わなかった。




地球に人間がいる限り、時間が止まることはないだろう。時間が進んでいくなら、人間が変わっていくのも当然で。タイムマシンでも発明されない限り、みんな「大人の階段」を登り続けていくのだから、変化というものは否が応でも成長と呼ぶしかない。それか、運命だと言うしかない。

ただ、変わらないものがなにひとつない世界でも、美しかった瞬間だけを心に残しておくことはできる。いつまでも変わらないように、大切に仕舞っておくことはできる。それが運命に対する精一杯の反抗だ。

「失恋した」と言うけれど、この恋を失うことなんてできやしないんだから、色褪せない記憶をわたしの心のなかにとどめておこうかな。そんなふうに、思った。

ふたりと呼んでいた時間が、苦しすぎる別れで上書きされてしまうのが、なによりも悲しいから。




ぼうっとそんなことを考えていたら、また瞳の奥がうるみ出した。

冷静になって前を向いたって、感情のままに嘆いたって、もう今日はだめなんだ。どんなことも悲しくって、どんなことも効いてくれない。また、泣きそうだ。

わたしはマグカップに残ったものを飲み干すふりをして上を向いた。

底に残ったココアは、甘ったるくて苦かった。











この記事が参加している募集

熟成下書き

最後まで読んでいただきありがとうございます。 スキをいただけたら嬉しいです。ツイッターで感想を教えてくれたらもっと嬉しいです。でも、私の言葉が少しでもその心に触ることができていたら一番嬉しいです。 サポートでいただいたもので、とびっきりのご褒美をあげたいと思っています。