ミクロ型エリートとマクロ型エリートの違い

「エリート」この言葉はなかなか難しい。一流大学を卒業してその中でも上位を走っている人々である。必ずしも高い給料をもらっているわけではないし、レールの上を走っているので、何かと制約の多い人生だ。競争も激しいし、人並み以上の努力と素質が求められる。

 ところで、エリートと言っても実は二種類の方向性がある。このことは世間では意識されていないようだ。エリートにはその種類によってミクロ型とマクロ型が存在する。今回の記事ではどちらが良いのかを考察したい。

ミクロ型エリートとマクロ型エリートの違い

 東大法学部では法曹と官僚が二大進路である。花形の進路が2つ存在している学科は珍しい。しかも両者の性質は全く異なる。法曹は小さなパイの大きな取り分、官僚は大きなパイの小さな取り分に例えられ、同じエリートでも、全く違う生き方なのだ。

 弁護士も典型例ではあるが、ミクロ型エリートの性質が最もわかりやすいのは医師だろう。医師の扱う案件のスケールは非常に小さい。そこら辺の老人の肺炎とか、熱を出した子供に風邪薬を出したりとか、普通の市民的生活に関わる仕事である。その反面、業務の裁量権は大きいし、「先生」と呼ばれたりもする。医師の強さは以前の記事でも何度も触れている。本人の労働者としての価値があまり組織に依存していないので、どこに言っても医師は医師だ。給料も高い。その分仕事はハードかもしれないが、エリートとはそういうものだ。医師や弁護士は社会的地位が組織というよりも個人に帰属するのが特徴である。したがって、ジョブ型雇用との関係が深い。

 一方、マクロ型エリートとは何か。典型例は官僚である。大企業のエリサラも該当するだろう。扱っている組織に規模感が大きいのが特徴で、首都の中枢部で権力を振るっている。彼らの目標は「偉い人」になることだ。大組織の幹部として出世していくのである。組織のステータスが大きければ大きいほど良いし、その中でヒエラルキーの上位に登っていくのが目的である。彼らに職業名を聞くと、「事務職」「管理職」というよりも「経産省」とか「三菱商事」といった名前が返ってくるだろう。ただし、彼らは組織人なので、裁量権は乏しい。組織に属している範囲内でれば地位を享受できるが、組織から離れると「タダの人」になってしまう。これらの性質はメンバーショップ型雇用との関係が深い。

 大企業の内部にミクロ型エリートとマクロ型エリートが混在していることもある。例えば生命保険会社がそうだ。アクチュアリーは最難関資格と言われるし、保険医として医師が雇われていることも普通だ。社内弁護士もいる。彼らは資格保持者として様々なプレミアを持っている。典型的なミクロ型エリートだ。給料は普通の社員よりも高いし、全国転勤で苦労することもない。しかし、彼らは社内での出世度としては微妙である。プレミアを持っているからと言って見合った社内での権力があるわけではない。むしろ、それらに無縁なことのほうが普通だろう。彼らは自分のことをアクチュアリー・医師・弁護士として定義していることが多く、一般的なプロパー社員とは別である。ヨソから雇った便利屋とも言えるし、一般社員とは違った特殊人材とも言える。

個別の事例

 いわゆるエリサラは基本的にマクロ型エリートである。これは日本がメンバーシップ型の雇用形態を取っており、霞が関に由来する一斉競争の出世競争が行われている方だ。このあたりの話はさんざん言われているとおりだ。日本のサラリーマンは仕事名ではなく、会社名がアイデンティティである。サラリーマンの待遇は企業規模によって決まってしまう事が多い。大規模な組織にいることと高い見返りをもらうことに必然性はないが、マクロ型エリートにとっては規模感こそが大事なので、規模の大きい組織に入ることは重要である。

 最近はジョブ型の生き方が流行っているので、ミクロ型エリートを志す人間は多いかもしれない。ただし、これには注意が必要だ。医師・弁護士は完全に一般の労働市場から隔離されているので、会社員というよりは医師・弁護士の内部のヒエラルキーの方が重要だ。一方で普通のジョブ型雇用の場合は彼らの地位を保障する制度を欠いていることが多く、単なるノンプロパーの便利屋として扱われることも多い。医師・弁護士は業界内部で自治制度が完成しているので、外部から文系総合職がやってきて指図してくることはないが、普通のジョブ型専門職の場合は大企業の文系総合職のヒエラルキーに巻き込まれる事が多く、その中では下位に位置付けられてしまう。ミクロ型エリートに必要な条件は転職・独立の容易さと文系総合職にどこまで頭を下げないといけないかによって規定されるだろう。エンジニアや金融専門職はミクロ型エリートの特性を持つが、その立場はやや不安定と言っても良いだろう。

 ミクロ型エリートの性質が強いが、マクロ型エリートの性質も持つ曖昧な存在が学者だ。確かに大学で細分化された専門分野を講義する仕事はミクロ的なのだが、時に学者は国の会議に呼ばれるなど重要な地位に付くこともあり、しばしばマクロ型エリートとしての性質を持つこともある。学者の場合は後述する自由業という性質も持つため、分類が難しい。

 東大医学部、というより東大理三はトップエリートの養成機関としては微妙と言われる。受験の時に最高峰であることは間違いないが、その後はマクロ型としてもミクロ型としてもうまく当てはまらない。確かに医療界でマクロ型エリートになるには東大医学部は有利なのだが、あくまで一つの業界の筆頭に過ぎず、政官財を独占する東大法学部には及ばない。ミクロ型エリートとして考えても、他の国立医学部と比較して際立った優位はなく、法曹界における東大法学部ほどの独占状態にはなっていない。

 なお、社会的成功者とエリートは全く別物だ。起業家や芸能人は完全にエリートのレールから外れており、エリートではない。山田洋次や林修が成功者であることは間違いないが、両者ともに東大法学部のエリートコースから完全に逸脱したマージナルな存在であり、非エリート的な成功者と言うべきだろう。有名人の多くは学者を除けばエリートではないことが多い。エリートは制約が多いので、自由業の人間の方が目立ってしまうのだ。言い換えるとエリートになることだけが成功者の道ではないとも言える。

マクロ型エリートの不人気

 従来は日本の典型的なエリート像は東大法学部から官僚になることだ。一昔前の東大法学部最強論はマクロ型エリートを多数排出しているからだ。事務次官の多くが東大法学部であることは言うまでもないだろう。国会議員の輩出数が突出して多いのも東大法学部である。都道府県知事や最高裁判事も同様だ。大企業の社長も東大法学部は東大経済学部と並んで多い。日本の政官財の半分を東大法学部が占拠していた時期があったのだ。

 ここまで極端でなくても、日本の高学歴にとってマクロ型エリートは憧れの的だった。多くの高学歴の人間にとって大企業に入って出世競争をし、社長を目指すことが花形だった。日本型の大企業の場合、エリートの入口が広いので、尚更新卒で大企業に入ることは重要になった。いわゆるメンバーショップ型雇用である。

 ところが、最近はどうにもこのマクロ型エリートが人気がない。官僚の不人気は何年も前から囁かれている。JTCの総合職も官僚に準ずる立場なので、同様にそこまで花形の進路では無くなった。むしろ今の若者世代はジョブ型でキャリアを考えている人間が多い。コンサルとか、エンジニアといった形で自分を定義している。もはや彼らのアイデンティティにとって属する組織は重要ではなくなった。職業観が官僚よりも医師や弁護士に近くなっているのだろう。組織の中で出世して国家や社会を動かすという将来像を掲げている人間はめっきり少なくなった。

 こうした動向を反映して東大法学部の人気は低迷を続けている。代わって注目され始めたのはミクロ型のエリートだ。例えば医学部がそうだ。医師は官僚に変わりうる強力なエリート集団だからである。灘やラ・サールといった地方の進学校は昔よりも医学部志向が強くなり、東大文一に進む人間は少なくなっている。逆に東大理三への注目度は以前より上昇したのではないかと思われる。優秀な人間が医学部に進むことを懸念する風潮は、一つは秀才はマクロ型エリートとして国家や社会を回してもらいたいという観念があるのだろう。

 最近は東大理一が人気らしい。理一は中間的な存在なので、ミクロともマクロとも言えない。おそらく、理一の進路が魅力的になり始めたというよりも、文一の魅力が低下したことが原因の一つなのではないかと思う。賢い人間は普通は理系に進む。以前の文一はそれでも優秀な人間を惹きつける力があったが、現在は半減している。理一の人間はコンサル等に進むのが花形らしいが、理系に入って文系就職していることになる。AIなど魅力的な業界はあるが、どうにも令和のエリートコースは迷走している印象を受ける。

ミクロ型とマクロ型、どちらが良いのか

 さて、このミクロ型のエリートとマクロ型のエリート、どちらが良いのだろうか。もちろん人によるだろう。むしろ個人的な向き不向きの方が大きいのではないかと思う。

 マクロ型エリートに辛いところは組織内のヒエラルキーに日常生活や人生が拘束されてしまうことだ。個人として何かを表現するのは不可能に近い。また、個人としてはあまり価値を発揮できないのも弱みだ。家族に医師がいて助かるという話は聞くが、家族に官僚がいて助かるという話は聞かない(中国は違うかもしれないが)。最近はコンプラ等が強化されたこともあり、マクロ型エリートはますます魅力を失っている。大組織の幹部になったとしても調整業務やマニュアル仕事の連続で、面白くないと考える人が増えている。

 ミクロ型エリートは確かにやっていることのスケールは矮小なのだが、裁量が広範にあり、自分の仕事の意味も理解し易いことから、最近は幸福度が高そうに見える。そう見えるだけかもしれないが、世相は確実にミクロ型エリートの方向に動いている。近年のジョブ型の進展はまさにミクロ型を志向する人間が多くなった証拠だろう。

 ミクロ型エリートの優位は日本の人口動態からも説明できる。マクロ型エリートは多くの部下を従えることが重要なので、人口ピラミッドが山型だった時代には生きやすかった。ところが現在は人口ピラミッドが逆三角形になっているので、マクロ型エリートになってもほとんどの人間は出世できないで終わってしまう。組織内のヒエラルキーで年功序列要素が不可分な以上、シニアの働き方としてはどうしてもパイが少なくなってしまうのだ。マクロ型エリートで高齢になってからも活躍できるのは国会議員やオーナー社長のような一握りのトップ層だけであり、普通のサラリーマンは60代でエリートとしての地位と肩書を喪失することになる。

 一方でミクロ型エリートは年齢に比較的寛容なところがあるので、長く活動することができる。70歳80歳になっても活躍している医師や弁護士は大量に存在する。独立開業が容易なことや、組織内でのヒエラルキーにそこまで依存していなことが理由だろう。ミクロ型エリートの場合は「逆ピラミッド型社会」でもうまく生きていくことが可能である。

 というわけで、今後の日本はますますミクロ型エリートへの志向が強まっていくのではないかと思う。これは様々なキャリア論にも反映されている。今流行っているのは「コンサル」や「エンジニア」であり、「三菱地所」や「ソニー」ではない。マクロ型エリートが完全に没落するわけではないだろうが、彼らはミクロ型エリートとしての側面を兼ね備えるようになるかもしれない。例えば官公庁の役職を外部から招聘された弁護士が務めるようなあり方も増えていくはずだ。集団主義的なキャリアから個人主義的なキャリアへの移行は既に始まっており、それは日本社会の大きな変化を反映しているのだろう。


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