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面接で言うべきことは嘘でも本音でもなく、「ナラティブ」である

 新卒就活の際に一部の人間が引っかかるポイントがある。それは「面接で嘘を言うべきか、それとも本音で話すべきか」というものだ。自分をよく見せようとアピールすれば、それは「本当の自分」を偽っているのではないか、そうした疑念に駆られるようだ。一方で本音をべらべら話せばそれは面接での失点に繋がる。ピュアな人間は心にも無いことを面接で話し、内定していく人間に嫌悪感を覚えたりもする。 

 こんな記事があった。

 筆者が考えていることと結構一致していて、驚嘆した。いくつか考えが違う点はあるが、概ね一緒だ。記事の中では「体」と表現されているが、筆者は「ナラティブ」と読んでいる。

 就活で求められているのは本音ではないが、嘘でもない。本音か嘘かの二項対立が間違っている。実際に求められているのは「ナラティブ」である。これは就活だけでなく、組織社会・集団生活を送るうえでは必要不可欠である。

 ナラティブとは何か。一言で言うと、「集団や個人が進むべき方向を示している、ある種の物語」である。組織やコミュニティを団結させるには、多かれ少なかれナラティブが必要だ。ナラティブとは集団の構成員が共有している信念の束といっても良い。

 ナラティブは「建前」とも近い概念である。「本音と建前」というと、あたかも建前が虚飾で本音が真実のように思えるが、これは間違いだ。建前と虚飾は本質的に異なる。建前は建前としての価値が存在し、両者の使い分けこそが重要なのだ。

 ナラティブは本音とは違う。従業員は本音では「早く帰りたい」とか「仕事を押し付けてサボりたい」などと考えている。しかし、みんながこういったことを堂々と行ったら会社は運営不可能だろう。表向きの建前として言及されるのはいつだって「業務効率化」とか「売上の拡大」といった項目である。大勢の個人と集団が異なるのも、このナラティブの存在が原因の一つだ。過半数の人間が内心サボりたいと思っていても、それが公の言論に反映されることはない。やはり声に出されるのは「仕事を頑張る」といった建前なのである。

 会社は営利機関なので、ナラティブが見えにくい。実際は会社よりも政党や宗教団体の方が遥かにナラティブは強烈だ。これらの団体は共通のナラティブによって団結し、強いパフォーマンスを発揮している。圧力団体が選挙に強かったり、過激派組織がめっぽう戦争に強いのも、個々人の利益や欲望を越えたナラティブが共有されているからだ。内心ダルいと思っていても、集団を束ねる物語が存在し、それに没入できるだけで集団は結束するのである。人間が抽象的な思考を好むのも、「神話」や「儀式」が集団を結束させるからではないかと思う。

 抽象的な話になってしまったが、会社も結束の強いコミュニティである以上、そのナラティブに沿った受け答えは必須である。会社のナラティブは仕事である。先程の記事の例にのっとると、強みを聞かれたとして、「政治的な批判能力に長けています」ではナラティブに即していないのでダメだ。それよりも「自己研鑽への熱意がある」とか、組織のナラティブに沿った文言でなければダメなのである。セールスマンが内心自社の商品の性能が微妙だと感じても、顧客には喜んで製品を売りつけるのと同じだ。

「体」を聞かれている以上、もちろん本音は言わなくてもいいし、何なら(明らかな問題を生まない範囲で)嘘でも構いません。「あなたの強みは何ですか?」という質問に対して「正直、本心では自己研鑽が得意とはあまり思っていないが、これから自己研鑽が得意という体でやっていきたい」の意で「自己研鑽が得意です」と答えるのは嘘ではありません。その回答は自動的に「自己研鑽が得意という体です」という意味で解釈されるからです。

 この点もまさにナラティブだろう。例えばナショナリズム論で言われている話に近い。「国民」という概念が人工的に作り上げられたことはよく知られている。それは国家の謀略によって無理やり作られたという意味ではない。国民とは同じナラティブを共有するチームとして、一緒に作り上げて行くものなのだ。国民はあたかも同じ人種・民族・言語を共有するコミュニティとして自明に存在したかのように思われるが、これも間違いである。例えばウクライナ語はその時のナラティブによってロシア語の方言だったり、独立言語だったりする。ウクライナがロシアの植民地支配に苦しんでいるというナラティブも、ウクライナとロシアが兄弟民族であるというナラティブも、どちらも等しく「物語」であり、どちらが採択されるかはその時の政治情勢による。重要なのはナラティブが解釈論の世界の話であり、真偽を判断するものではないということだ。この問題において、ウクライナ語とロシア語の言語学的関係や、ウクライナ史におけるロシアとの文化的近接性はどうでもいい話だ。ここを履き違えた学者は常に面倒な論争を繰り広げている。

 同様に、社員としてのナラティブも作り上げていくものだ。事実や状態ではなく、大事なのは理念と方向性なのだ。もちろん明確な嘘はNGだが、解釈が分かれる範囲内ならば最大限ナラティブに沿った文言を心がけるべきである。嘘にならない範囲内で自分の持っている要素をナラティブに適合させるように解釈していく。例えば学生時代に資格を沢山取ったのは本当は同級生にマウントを取るためだったかもしれないが、そういった事実はナラティブから排除される。学生時代に資格を取ったのは御社の業務に繋がるからであり、それは嘘でも本音でもないのである。会社に所属している限り、その建前は維持されるし、何一つ問題にはならない。

 他にも悪人の例が挙げられていた。

少し脱線しますが、「『体が大事』ということは理屈ではわかるがピンとは来ない」という方は裁判傍聴に行ってみるとよいと思います。大抵の裁判には裁判長の説教パートというものがあって、裁判長と被告人が「スマホを盗むと被害者が困ると思いませんでしたか?」「思いました」「もう絶対に同じことをしないと言えますか?」「言えます」というようなやり取りをします。この儀式を「本心では反省してなくても口頭なら何とでも言えるのに意味なくない?」と思うかもしれませんが、「実際には本心ではなく体を制御しようとしているのだ」と考えるとスッと腑に落ちます。「本心では反省していないが、外向きには反省した体で振る舞う前科者」と「本心では反省しているが、外向きには反省していない体で振る舞う前科者」では、社会への実害の多寡という観点からは明確に前者の方がいいのであって、外向きに反省のポーズを徹底させる口頭の詰問からはそういう圧力を肌で感じることができます。

 筆者は以前アイドルが来るという理由で東京拘置所の展示会に行ったことがあるのだが、なかなか興味深かった。この手の刑事施設には「更生」という明確なナラティブが存在するのだ。犯罪者が本心でどう考えるにせよ、そこには「更生」という建前が存在し、そこに向かって頑張ることが期待されている。内心では馬鹿げていると考えていても、刑務所ではナラティブに沿った言動・行動が求められるし、ナラティブに沿った人間は仮釈放されたり、模範囚になることができる。一定の方向性に人間を沿わせようとする力がナラティブであり、それは社会的に有用なのだ。

 これが犯罪者と思想犯の違うところなのだが、犯罪者は自分のやっていることが悪事だと分かっている。犯罪者とは本質的にフリーライダーであり、みんなが泥棒や殺人犯になったら自分にとっても住みにくい社会になると分かっているに違いない。悪人だって悪人は怖いのだ。だから住民が内心隣人の財産をパクりたいと思っていても、それが議会で可決されることはない。道徳として普遍化不可能だからだ。犯罪は常にナラティブの上では憎まれる。

 就活という話からだいぶ逸れてしまった。簡潔に言うと、就活で求められているのは、企業で働く上で求められるナラティブに沿った言動である。企業に在籍している間は常にそのナラティブに従うことが必須である。嘘はいけないが、本音も良くない。例えば医者になろうとしている人間がいるとして、内心では女子にモテたいとか大儲けしたいという願望が合ったとしても、それを口に出すものはいない。あくまで「患者を救いたい」といった職業的ナラティブが必要である。そして、その仕事をしている以上はナラティブから逸脱することは許されない。

 なお、筆者はこの記事に関しては一つだけ付け加えたいことがある。記事の中ではあたかもインテリがナラティブに懐疑的なように表現されているが、これは間違いである。インテリが行きたがる業界こそ実は最も強力なナラティブが存在する。

 例えば霞が関がそうだ。霞が関に行きたがる人間は国家のために仕えてエリートになりたいという野心家であり、そこには多かれ少なかれ理想主義が存在する。いつしか彼らは省のナラティブに自分の意見を一致させていくのである。例えば検察庁を考えてみよう。検察庁は袴田巌さんを未だに有罪だと主張している。内心では担当者は袴田さんが無罪と考えているかもしれない。しかし、犯罪者を起訴するという検察庁のナラティブでは袴田さんは有罪という建前になっており、組織はその論理で動いていく。かくして起訴が行われるのだ。他にも財務省における財政健全化とか、国交省におけるインフラの拡大とか、農水省における農業の保護とか、全てはナラティブに寄って動いている。官僚が内心でどのような政治的意見を持っているかは無関係である。

 他にもナラティブが強い業界はいくらでも存在する。医療に全く興味がないのに東大医学部に行く人間だって面接では「患者を救いたい」と言うだろうし、医者になってからもずっとそれを言い続けるだろう。本当は「受験勉強が好き」とか「学歴マウントを取りたい」といった動機であっても、それを口にすることは表向きはゼロなのだ。

 他にもNPO法人とか教育機関とか、理想主義者の行きたがる業界には強烈なナラティブが存在する。教育者は内心仕事がくだらない思っていても、教育というナラティブからは逸脱できないし、それが必要なこととも思っているだろう。政党や宗教団体の専従は言うまでもない。本心が儲け主義だったとしても、口が避けてもそんな事は言えない。理想を失った瞬間、組織は存在意義を失ってしまうからだ。

 インテリは本当にナラティブが好きだ。彼らに人生を語らせると、必ずと行っていいほど理想と挫折、そしてその乗り越え方について熱弁する。そのナラティブは自己実現かもしれないし、自己有能感かもしれないが、物語が存在することは疑いようがない。皮肉なことに、インテリが多い業界は息苦しさを感じることも多い。皆がナラティブを持っているため、集団を維持するために個人のナラティブを抑圧しなければいけないのだ。インテリが多すぎる業界は皆が思想家のようなものなので、意見対立や全体主義的傾向が激しくなるケースが多い。

 就活でナラティブ問題にモヤモヤするインテリが多いのは、実は民間企業に強いナラティブが存在しないからなのである。医者とか、官僚とか、教師とか、NPO法人の場合はわかりやすいナラティブが存在する。志願者は本心でどういう動機を持っているにせよ、そのナラティブにそった言動をすれば良い。ところが同様のナラティブを水道業者とかスーパーマーケットで見出すのは難しい。だからインテリはナラティブ問題において混乱してしまうのである。インテリにとって、新卒就活で普通の民間企業を志願する動機は給料とかブランド以外にあんまり存在しない。だから志望動機にモヤモヤしてしまうのだ。

 この議論はMBTIの話とも絡んでくる。S型とN型のナラティブには根本的な違いが存在し、その観点でナラティブを分析すると大変興味深い考察が引き出せる。ただ、今回はMBTIについては言及しない。またの機会に譲るものとする。

 


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