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<MBTI>N型とS型のナラティブの違いを考察する

 今回は性格診断の域を越え、社会考察や哲学の領域の話になる。前回記事で就活で求められている項目は「ナラティブ」であると論じた。ナラティブとは組織や集団を束ねる信念の束であり、本音とも嘘とも違う。建前とか理念といった言葉が近いだろう。

 このナラティブだが、MBTIの観点で分析すると色々と興味深い考察が引き出せる。N型とS型はコミュニティに求めるものが異なっており、それは様々な場面で現れている。就活にモヤモヤするのも、S型とN型のナラティブの違いが原因の一つだ。S型とN型の違いは言語化されにくいため、世の中の多くの人間がモヤモヤとした状態で終わっている。これをきちんと言語化したい。なお、N型だからN型のナラティブに従うとか、S型のナラティブに合わせられないとか、そういう問題ではないことを注記しておく。

N型のナラティブはわかりやすい

 N型は基本的に理想主義である。その上N型の思考は普遍性が高い。したがって、N型のナラティブは非常にわかりやすい。

 その代表格が政党だろう。政党は同じ政治的考えを持つ人間の集合体であり、そこには明確なナラティブが存在する。内心では政治家は自分の権力行使や賄賂の斡旋のことを考えているかもしれないが、それが公約になることはない。あくまで政党が掲げるのは政治的理念であり、それにのっとった言説が行われる。

 他にも慈善団体もN型のナラティブが強い集団だ。「恵まれない子供に支援の手を」といった理念はわかりやすいし、共感もしやすい。これらの職員も内心で何を考えているかはわからないが、組織の信念は疑いようがなく存在するはずだ。慈善団体とは理想ありきの集団であり、N型の要素が極めて強いのである。

 N型のコミュニティは明確なナラティブが存在することが多い。そこには何かしらの物語がある。N型の人間同士がバンドを組めば、そこには「売れて有名になり、自分たちの歌声を届けたい」といった理想が存在する。古代からN型の人間はナラティブが好きだった。古代の部族は大体が神話を持っていたが、これは共通のナラティブで部族を団結させようとするものだろう。これはナショナリズムという形で現在も受け継がれている。ただし、ナショナリズムはナラティブの中ではかなりS型に寄っており、それがナショナリズムの特殊な性質につながっている。

N型の業界・S型の業界

 職場にはN型のナラティブが強い業界と、N型にとってあまりナラティブが見いだせない業界が存在する。

 例えばN型のナラティブが強い業界は研究者・官僚・医者・検事・教育・NPO・新聞記者などだ。これらの業界の志望動機はN型の人間であれば容易に想像することができる。その業界に憧れている人間は言うまでもなく、一切興味のない人間であっても、志望動機を考え出すことは簡単だ。N型にはこれらの業界に行きたくてたまらないという人間が大勢おり、毎年のように大量のN型理想主義者が押し寄せる。ベンチャー企業の中にもナラティブが強力に存在するところがある。人工知能を作って世界的イノベーションを起こしたいといったものだ。

 これらの業界の面接に行っているN型は志望動機についてモヤモヤすることは無いだろう。むしろナラティブに自分を寄せようとしているはずだ。内心ではステータスや天下りに心を惹かれていても、厚労省を受ける人間は「日本の医療問題を解決したい」といった熱いナラティブを言うだろうし、完全な嘘とも言えなくなってくる。ナラティブに従っているというのは心地が良いものだし、それが仕事上の評価にも繋がると考えれば尚更だ。程なくしてナラティブに信頼を失う人間は多いが、それでも入社時点では志が合ったことは間違いなく、失望といってもあくまで喪失すべきナラティブが存在しての話である。

 一方、N型のナラティブがあまり存在しない業界もある。メディア系を除く、いわゆる「就職人気企業」などだ。コンサル・商社・広告代理店といった業界は代表格だ。メーカーとかインフラの総合職などもナラティブがほとんど存在しない。こうした就職人気企業はもちろん、それ以外の営利企業にもそこまでN型のナラティブは存在しない。運送会社とか、タクシー会社とか、水産加工会社に燃えるような理想主義を持って入る人間はあまりいないのではないかと思う。目的は収益を挙げることで、それ以外の物語性はない。これらの業界をS型の業界と呼ぶことにしよう。

教育機関とN型・S型

 N型の業界とS型の業界の違いの一つとして教育機関との接続性がある。教育や学術といった業界は極めてN型の性質が強いので、N型の人間が好む業界に不釣り合いに比重が置かれている。教育機関がその職への後押しをしているような業界はN型の性質が強いことが多い。例えば医学部が典型例だ。医師になりたい人は医学部に行って希望通り医師になるのである。法曹三者もそうだろう。やや偏っているが、官僚も入れても良い。裁判官や官僚になるために東大法学部に行きます!という人は今も昔も大量に存在する。もちろん研究者は言うまでもない。理系の研究職志望は極めて強力なナラティブだ。芸術系の教育機関であれば、芸術家やクリエイターが該当するだろう。

 こうしたN型のナラティブを持つ職種は教育機関において好まれる傾向が強い。「将来は〇〇になりたい」と言うと「きっとなれるよ。頑張れ!」と教師が応援してくれるような業界である。医者になりたいとか、研究者になりたいとか、そういったものである。

 N型の中でもNP型の様相が濃い職業、例えば漫画家とか舞台俳優といった業界は「フォーマルさ」はないだろうが、それでも変わり種として肯定されることもある。NP型の強い業界は教育機関によってウケが分かれるかもしれない。手塚治虫のような漫画家になりたいという人がいたとして、医学部のようなJ型が強い場所では干されるだろうが、美大のようなP型が強いところでは肯定されるだろう。

 一方、S型の職種はあまり教育機関に関心を持たれない傾向がある。現業系の仕事は教育機関のカラーとは明らかに合わないだろう。専門性の高い実業高校などは別かもしれない。教育機関はブルーカラーとは元来相性が悪い。ホワイトカラーであっても、多くの民間企業は教育機関の持つナラティブとは相性が良くないだろう。コンサルにせよ、総合商社にせよ、インフラにせよ、教育機関の延長には存在しないのだ。こうした民間企業は理系であれば「文系就職」と呼ばれ、ナラティブから外れた扱いになる。文系の場合はそもそも大学教育のナラティブに参加していない。教育機関の中にはこうした進路の人間をナラティブから逸脱していると考える人間もいる。「優秀な理系人材が金融に行ってしまう」とか「東大法学部の学生が官僚にならずにコンサルに行ってしまう」といったものだ。

S型のナラティブとは何なのか?

 それではS型の集団にはナラティブは存在しないのだろうか。いや、そんなことはない。S型の環境であっても建前は存在するし、仕事モードは本音とは全く異なるだろう。S型のナラティブはN型よりも遥かにわかりにくいし、少なくとも言語化は難しい。N型のナラティブは言葉にして遠隔の人間にも伝えやすいが、S型のナラティブはその場にいないと理解しにくい。別の見方をするとS型のナラティブは「場の空気」に近いのだ。ナラティブと言って良いのかもわからないが、建前の集合体であることを考えると、やはりナラティブなのだろうと思う。

 S型のナラティブは場の空気・同調圧力・慣習・常識と言ったものだ。N型と違ってナラティブの理念や方向性は存在しない。なんとなく、やらねばならない雰囲気に思えてくるのだ。S型のナラティブはかなり感覚的である。なんとなく違和感があるとか、なんとなくダサいとか、そういったものだ。

 S型の業界はこれと言って理想がない。N型の枠組みで考えれば生活のために仕事があり、仕事をしている以上、しっかり結果を出すのは当たり前ということだろう。極めて現実的である。業界をどうしたいとか、会社がどうあるべき、といったN型が好むようなマクロ的な話は好まれない。そういった話は思想家的に見られたり、生意気に見られたりする。

 多くの民間企業はS型のナラティブしか存在しないし、N型のナラティブを持つ業界であっても、具体的な職場はS型のナラティブであることが多い。職場にいる以上、サボることは許されないし、仕事で結果を出すべきとされる。内心休みたいと思っていても、休日返上で働くことが美徳とされる。そこに何か理想像があるわけではなく、そういう空気なのだ。

N型から見たS型の業界

 こうしたS型のナラティブしか存在しない業界はN型の人間にとって志望動機が薄っぺらく感じるだろう。以前の記事で述べた就活の嘘つき大会とはそういったN型の抱えるモヤモヤを言語化したものだ。しかし、本質的にS型の業界が嘘を誘発しているわけではない。N型のナラティブを持つ業界を志願しているN型だって本心とナラティブはズレているだろう。単に業界の持つナラティブに自分の理想を合わせるのが容易だと言うだけだ。医者にせよ、官僚にせよ、志望動機はいくらでも考え出せる。ところがS型の業界である普通の民間企業はどうにもこうした志望動機が思いつかない。保険会社とか、不動産の販売会社に就職するN型のナラティブは想像しにくい。休みが多いとか、給料が高いといった項目しか動機に浮かばないのである。ただ、それを素直に言うわけには行かないので、適当な方便をでっち上げることになる。だから違和感が発生するというわけだ。

 一方、体育会系の人間はS型のナラティブに適合しやすい。場所にもよるだろうが、ハードな運動系の部活のナラティブはS型そのものである。厳しい上下関係や激しい練習に対して全力投球することが求められる。規律を重んじ、勤勉に活動することが体育会系の中心的価値観だ。根性論とか集団主義も特徴的である。興味深いのは、これらの体育会系のナラティブにN型らしい理想主義が殆ど見られないことだ。厳しい上下関係や忍耐を要する慣習に何か崇高な意義があるわけでなく、そういう慣習に染まるべきというだけだ。いちいち理由を考えていたら体育会系にはついていけないだろう。実際、体育会系の大きな特徴が「考えないで行動する」という点だ。体育会系はスポーツ自体は好きなのだろうが、プロになりたいとか、甲子園で輝きたいといった強い理想があるわけではなく、集団主義に染まりやすいと言ったほうが的確である。だから一般就職した体育会系は「プロになれなかった」という挫折感を抱える事が少なく、すんなりと企業文化に適応できるのだ。職場の同調圧力に順応し、上下関係に厳格なハードワーカーになるだろう。

 それではSの業界に進んだNの人間がどのように職業人としての自分を確立しているのか?多くはだいたい3パターンに分かれる。

 1つ目はSのナラティブに合わせているパターン。これはわかりやすい。別にN型だからといってS型のナラティブに合わせられないということはない。ちょっとモヤモヤするだけだ。体育会系に順応したN型に多い。

 2つ目はジョブ型でキャリアを考えているパターン。どの業界であろうとアイデンティティは「データサイエンティスト」とか「プログラマー」といったものになるので、「会社」のナラティブにそこまで影響されない。彼らの原動力はプロとしてのプライドだ。多くは理系である。

 3つ目は自己有能感をナラティブにしている場合だ。「優秀である自分」や「出世街道を進む自分」に関してナラティブを自己設定している。この場合、意図的に有能オーラを出そうと振る舞っているのが特徴だ。N型の人間がコンサル等に進む場合、このナラティブに依存していることが多い。

マクロスケールのナラティブ

 ナラティブが存在するのは職場だけではない。もっと大きな集団もナラティブによって結束力を保っていることが多い。例えば政党とか宗教とか国家といったものである。

 国家レベルや政治関連のナラティブはほとんどがN型だ。ナントカ主義なんてものは軒並みN型の独壇場だ。この辺りは詳しく解説するまでもない。建国の理念も多くはN型だ。日本国憲法の全文を読んだって分かる。自由と民主主義への信奉もまたN型の論理である。

 ところが、中にはS型のナラティブも存在する。例えばナショナリズムがそうだ。ナショナリズムはN型の要素も存在するが、S型の要素も多分に含まれている。ナショナリズムの桁違いの影響力は人口の大半を占めるS型に訴えかける力が強いことだ。これは政治運動の中では際立っている。

 戦時中を描いた作品を読むと分かるのだが、当時の日本人は軒並み戦争に熱中していた。その論拠は国際政治とか大日本帝国の理念といったものも含まれているのだが、それ以上に「近所の目」「地域のノリ」「男は兵隊に行くべきといったジェンダー観」といったものが色濃く存在していた。戦時体制で「天皇陛下万歳」と叫んでいる民衆は日本の政治や国際情勢に関する深い思い入れがあるわけではなさそうなのだ。彼らの殆どはS型なのだが、彼らはナショナリズムにだけは熱狂するのである。思うに、当時の日本人にとっての戦争はアルゼンチン人にとってのワールドカップに近いのだろう。

 他にも人種差別はS型の要素が強い。戦時中の日本を描いた作品には朝鮮人いじめがしばしば描かれている。これまた加害者側は日本と朝鮮の関係に関して深い思想があるわけではない。単によそ者で格下だから反感を抱いているのだ。アメリカの人種差別も似たようなものだろう。人種差別を好む人々はインテリとは対極のタイプが多い。白人至上主義団体などの政治活動家は別だろうが、巷の人種差別は長年の間に根付いた悪習といった性質が強く、その意義や根拠を誰も説明できないのだ。男尊女卑も同様だ。タリバンの性差別政策に関しても、現地の風習が由来であり、外国人には意味不明である。

 ここまで読んでおわかりの通り、S型の政治的ナラティブはインテリからの評判が極めて悪い。N型の思考回路では理解不能なので、非合理な悪弊にしか思えないのだろう。インテリは民族主義・宗教保守主義・レイシズムに本能的な嫌悪感を覚えることが多い。インテリが優しい人間だからというよりも、「なぜそうすべきなのか」を見出すことができないからだ。そもそもS型のナラティブは政治的なのかすら微妙である。

 人口比の問題でS型のナラティブはN型のナラティブよりも強力だ。だから国家を形成する上で民族主義は大きな訴求力を持った。多くの国家は多かれ少なかれナラティブの中に愛郷心や血族主義といった要素を持っている。N型のナラティブだけで建国された珍しい国家がソ連だ。この国はマルクス主義の理想を実現するために存在した。このナラティブは世界中のインテリを熱狂させたが、肝心なソ連の一般市民には届かなかったので、この国は常に不安定だった。独ソ戦の時はナショナリズムを動員せざるを得なかった。ペレストロイカでソ連のナラティブへの信頼が揺らぐと、ソ連はあっという間に崩壊した。ナラティブを失った集団は極めて脆いのだ。

 言うまでもないが、S型から見たN型の政治的ナラティブも極めて評判は悪い。職場で政治運動についてアピールしたらどんな目で見られるか想像すれば良い。

S型のナラティブの本質

 N型のナラティブは理解しやすい。それは物語であり、それは思想であり、それは未来予想図だ。N型のナラティブは目に見えない何かを想像し、それに向かって突き進むイメージである。「貧しい人を救済して困っている人のいない社会を作ろう」とか「日本中にダムを建設して洪水の無い国土を作ろう」とか「文字を読める人を皆殺しにして純朴な農民だけの社会を作ろう」といったものだ。

 一方、S型のナラティブは理解しにくい。いや、理解という表現が不適切だ。S型のナラティブには物語性が存在しない。体育会系の上下関係や田舎のジェンダーロールには何か突き進むような理想があるわけではない。S型のナラティブは「染まる」ものであり、「受け入れる」ものであり、「最初から存在する」ものだ。なにか理由があって従うものではない。例えば体育会系の「1年生は球拾いだけをする」という慣習は、ただ「慣習だから」従わないといけないのだ。体育会系に言葉で説明された理由や理念はない。「場の空気」に近いのだ。

 愛郷心といったS型の政治的ナラティブも、根本は自分の過ごしている環境を自明のものとして捉えることから始まっている。よそ者への嫌悪感とか、故郷に対する愛着もS型の要素が強い。N型に故郷の素晴らしさを聞けば色々な説明が返ってくるだろうが、S型にとっては「故郷だから」であり、それ以上の理由はない。

 S型のナラティブは職場にも存在する。S型が会社に入るのは金がもらえるからであり、会社に入るのは社会常識だからだ。そして、ここが重要なのだが、一度職場に入ればその場の慣習を受け入れるため、ナラティブに順応して熱心に働く。職場は仕事をする場であり、結果を出すことが求められる。出世競争に邁進できればなお良い。愛社精神もあるかもしれない。これは愛郷心の延長だ。S型は職場で必要とされるナラティブに沿ってものを考えるし、それ以上の意義は求めない。N型のように仕事の意味を巡って深く悩むようなことはない。両者は思考の方向性が全く異なっているのだ。

 差別偏見の類に関しては最もN型とS型のナラティブが露骨かもしれない。N型はだいたいが背景に明確なナラティブを持っている。例えば「貧乏な人は努力しなかった証」とか「〇〇民族は戦時中にこんなことをした」といったものだ。ところがS型の差別偏見の類は、単純に差別偏見であることが多い。少なくとも理由付けに重きは置かれていない。ブサイクな人間やスクールカーストが低い人間を馬鹿にする時に理由を考えないのと同じだ。

 政治と比べると宗教はN型のナラティブとS型のナラティブの両方を持ち合わせているようだ。宗教の教義や弱者保護の理想に関して興味を持つのはN型だろう。大人になってから宗教に興味を持つのもN型だ。しかし、S型にとっての宗教は幼い頃からの習慣である。一日五回祈るのは当たり前だから、一日五回祈るのだ。日本人には馴染みがないが、宗教に熱心な地域ではS型の敬虔な宗教信者を多数見ることができる。彼らに理由を聞いてもあまり明確な理由は帰ってこない。

 というわけで、N型のナラティブ=物語、S型のナラティブ=場の空気、という整理が一番簡潔だろう。

ナラティブの存在しないサラリーマン

 最後に、「サラリーマン」という職業について考えてみよう。サラリーマンという職業は若干ネガティブな要素がつきまとう。サラリーマン川柳は皮肉が効いているし、「脱サラ」という言葉はサラリーマンが抜け出すべき何かのような扱いだ。サラリーマンという職業はそんなに悪いものなのだろうか?

 これはサラリーマンの具体的な職業というより、切り取り方の問題だ。同じ総合商社の人間であっても、自分の職業名を「商社マン」とするか「サラリーマン」とするかは文脈によるだろう。サラリーマンという言葉は「下っ端」とか「窓際」といった概念に近い。

 サラリーマンには職業的なナラティブが全く存在しない。N型のナラティブはもちろん、S型のナラティブすら存在しない。だからサラリーマンに関する職業的なプライドや理想は描きようがない。「サラリーマン」という概念から派生するものは多かれ少なかれ愚痴かアイロニーを含んでおり、公の言論で「サラリーマンの仕事をしています」という人はいない。メガバンクに勤めている人間にメディアがインタビューしたとして、「金融機関の人間」としての話は聞けても「サラリーマン」としての話はまず聞けないだろう。

職場のナラティブはS型

 今回も長くなってしまった。そこまで明記しなかったが、職場というものは基本的にS型のナラティブを持つ場所である。N型のナラティブを持たない業界はもちろん、N型のナラティブを持つ業界であっても、具体的な職場のナラティブはS型である。職場のナラティブでは仕事に熱心に打ち込むことが要求されるし、休みを返上することや残業することにも方向性が存在する。内心ではサボりたいと思っていても、それを口に出すことはタブーである。そこに明確な物語性はない。

 したがって、S型の人間は職場に適応しやすい。体育会系はS型の素養が強いため、就活で重宝されるわけである。上下関係に厳格で、愛社精神が強く、熱心に働く人々だ。N型の人間にとっては彼らの原動力は不思議だろう。インタビューしても「仕事だから」とか「金を稼ぐから」といったものになる。

 一方でN型のナラティブはあまり相性が良くない。日常業務にN型の理想主義を持ち込む余地はあまりない。それにN型の理想はバラバラなので、職場の統一的なナラティブとは相容れない。職場は個々人の自己実現を後押しする場所ではない。職場で求められるのは場の空気に従って結果を出すことである。

 ただ、職場にN型のナラティブが弱いことは救いでもある。N型のナラティブが強烈な宗教団体や政治組織は特定のナラティブを受け入れることを必要とされるので、思想を押し付けられている気分になるのだ。実際、N型のナラティブが強すぎる集団は内紛が多い。極左組織の激しい内ゲバを考えれば分かりやすい。ここまで極端でなくてもアカデミアや芸術家の集団は仲間割れと相互批判ばかりだ。これらは個々人の理想が全部異なることに由来する。S型の「上司の悪口」とは全く性質が違うのだ。究極的にはN型の価値観とは「大勢の個人」であり、集団には向かないと言えるだろう。

まとめ

 今回はN型のナラティブとS型のナラティブについて解説した。他にも語りたいことは山ほどあるが、長くなりすぎるのでこの辺りで打ち止めにする。

 N型のナラティブは理想や物語を伴っている。過去の出来事をナラティブに沿って解釈し、未来への希望を打ち立てるのがN型である。意味や理由も必ず存在する。例えば都会の政治団体はN型のナラティブがかなり濃いだろう。

 一方、S型のナラティブは理想や物語がない。そこにあるのは慣習や同調圧力である。意味や理由を考えている人間はほとんどいない。現在志向が極めて強いので、過去から未来への連続性も意識されることはない。N型のナラティブではその場限りのものであっても、一時的に過去から未来への流れが作り出されるのだが、S型のナラティブはそのようなものが最初から存在しないと考えて良い。

 S型のナラティブは言語化に不向きだ。想像によって作られたものではないからである。N型のナラティブは文字媒体に起こして読者が想像で共鳴することができる。S型はその場にいないと飲み込むのが難しい。しかし、一度その環境に入っていくと、S型のナラティブは極めて強力である。最初の動機はN型のものであっても、実際に日常生活を共にするとやはり日頃から頭に上るのはS型のナラティブだ。

 N型とS型の違いには他にも無数の論点があり、到底語り尽くせない。残りはまたの機会に記したいと思う。

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