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就職活動の賢い指針は「牛後鶏口」である

 鶏口牛後という言葉がある。大きな集団の後ろの方についていくよりも小さな集団のトップになれという格言だ。ステータスの高い集団に埋没するよりもステータスの低い集団でトップを取るべきとも言い換えられる。
 こうしたマインドには一定の理がある。自分がトップに立って活躍するのは気持ちのいいものだ。大企業のサラリーマンよりも自営業やベンチャーを好む人間がいるのもその一例だろう。またアスリートのように、トップの中のトップの人間には大変な名誉が与えられる。しかし、この方針は社会人の賢い生き方とは真逆なのではないかと思われる。

 「就職偏差値」という言葉が示すように、就職先には暗黙の「格」がある。一番手の会社は知名度もステータスも高く、給料が良い。メガバンクと地銀とか、総合商社と専門商社をイメージすればいいだろう。一番手の会社は高学歴かつ選ばれた人間しか入ることができない狭き門である。

 一流の会社と二番手以下の会社の違いはどこにあるだろうか。一流企業は入るのがかなり難しい。したがって新卒でないと入社は厳しいことが多い。より上の会社にステップアップすることが不可能なので、出世=内部での昇格ということになり、激しい内部競争があるのが特徴である。また、一番手企業というステータスがあるので優秀な社員を集めやすく、その働き方は給料以上にハードだ。
 これらの要因により、一流の会社はレールが厳格に敷かれているのが特徴だ。新卒で入社し、激しい内部競争を数十年かけて行うのである。外部からの転職者はお呼びでないし、外に出ていく人間は給料とステータスを大幅に下げることになる。独特のキツさと閉塞感があるのが一流企業の特徴である。何であれ、「一流」であり続けることはそれ自体がしんどいのだ。金メダリストが精神を病みやすいのと同じである。

 一方で二番手以下の会社は異なる。一番手と違って新卒だけで優秀な人材を集めることができないので、プロパーにはこだわらない。一番手の会社にステップアップする人もいれば同じ二番手以下の会社から移動してくる人もいるし、一番手の会社から流れてくる人もいる。目が外に向いているので内部競争は緩い。また、会社のステータスが高くなく、純粋に給料だけが目的で働いている人が多いので、給料に見合ってない過大な要求は少ない。
 総じて二番手以下の企業は風通しが良くノンビリとした風土である。

 さて、給与水準やステータスは業界によって異なる。金融や総合商社は高く、飲食や小売は低い。こうした違いはどのように影響があるだろう。

 ある人がステータスの高い業界の三流企業とステータスの低い業界の一流企業で迷っているとしよう。両者のステータスと給料どちらも同じと仮定する。
 鶏口牛後の考え方に則るならばステータスの低い業界の一流企業の入るべきである。その業界のトップを狙えるからだ。しかし、QOLという観点ではこれはあまり賢くない。

 ステータスの高い業界の三流企業は競争も緩いし給料も仕事相応だ。万が一会社が合わなくても同じ業界の三流企業に移る事もできる。トップになれない分、のんびり暮らすことができるのである。

 しかしステータスの低い業界の一流企業はそうは行かない。給料以上に仕事内容がきついし、少しでもレールを外れたら給料とステータスは大きく下がってしまう。「一流」というのは非常に不安定な立場で、一度でも転んでしまうと這い上がれなくなる危険性があるのだ。だから一流企業の人間は内向き志向になるし、レールから外れることを恐れるようになる。会社にしがみつく人生だ。

 これと似たような現象が「東大より国立医学部」である。東大はその業界のトップの大学なので、名誉欲しさに受験者が殺到する。したがって受験難易度の割に得られるリターンが少なく、「コスパが悪い」。地方の国立医学部は上に旧帝大医学部があり、学歴的な意味ではダサいかもしれないが、それでも医師という最高の身分を手に入れられる。
 東大から一流企業に行けば確かに医師と同様の給料とステータスは得られるかもしれない。しかし、サラリーマンの弱みは一流企業でないと稼げないことだ。少しでもレールを外れて「一流」でなくなったら、無名大学卒の三流サラリーマンと同じ立ち位置になってしまう。これではわざわざ医学部を捨てて東大に行った意味がない。鶏口」の生き方は常に転落のリスクを抱えてしまう。

 一方で医師はこんなことにはならない。医師免許がある時点で最低保証があるからである。もちろん、医師も一流であろうとするなら一流企業のサラリーマンよりはるかに過酷な努力をしなければならない。しかし、エリートコースを降り、三流の医者として一流企業のサラリーマンと同様のステータスと給料を享受することももできるのである。「牛後」の生き方は余裕があって自由気ままといえる。東大生の半分以上は「東大までの人」だが、医学部は一部の脱落者を除いて「医学部までの人」は存在しないと見てよいだろう。

 要するに、一流のサラリーマンよりも三流の医者の方が賢い生き方なのだ。同じ給料とステータスでも三流の医者はノンビリ暮らせるし、転職もしやすい。一流のサラリーマンは常に給料以上の結果を要求されるし、レールから外れることができない。仮にレールから外れると医師よりも遥かにステータスも給料も低い人生を歩むことになるだろう。
 東大から医学部に入り直す人間が一定数存在するのはこれが理由だ。レールから外れた人間は三流の医者になることができても、一流のサラリーマンなることはできない。一流のサラリーマンは出遅れずに新卒で入社し、何十年も厳しい競争に耐え続けなくてはならない。そうしてようやく三流の医者と同じ給料とステータスに到達するのである。

 同様の構図は企業間の比較にも使える。三流企業であってもエース社員であれば一流企業と同様のステータスと給料が手に入るかもしれない。しかし、エースというのは過酷だ。常に給料以上の成果を出さなければならないし、体を壊したらおしまいだ。そのことを考えると、同じ給料だったら三流企業のエース社員よりも一流企業のダメ社員の方が遥かに気楽に暮らせるのだ。「寄らば大樹の陰」とは言ったものだ。

 このように考えると、社会人として賢く生きる秘訣は「牛後鶏口」だ。
 低賃金業界の一流企業より高賃金業界の三流企業の方が良い。同じ業界なら、三流企業のエース社員よりも一流企業のダメ社員の方が良い。
一流の人間は何の保証もない中で下の突き上げに耐えなければならないし、孤独な戦いを突き進まねばならない。常に転落のリスクと隣合わせだ。一方で三流の場合は人生に余裕があるし、戦うことよりも人生を豊かにすることを考える。
 もちろん後から頑張って上を目指すことだってできる。一流が超一流になるのはほとんど不可能だが、三流が二流になるのは容易だからだ。「自分はMARCHだから総合商社に入っても出世できないし・・・」などと臆してはいけないのだ。一流企業の三流社員は少し頑張れば一流企業の二流社員に昇格し、三流企業の一流社員の届かない領域に到達する。

 賢く生きるには「勉強ができるなら医学部」であり、それがダメなら少しでもランクの高い企業に入るべきだ。なんともつまらない指針だが、多くの人が選ぶルートにはやっぱり合理性がある。奇妙なことだが、東大は「あえて医学部に行かなかった」人の行く大学であり、実はレールから外れた生き方なのかもしれない。

 この国で最強の職業は「バイト医」と「大企業の社内ニート」である。両者はステータスの高い集団の最底辺だ。彼らはぼんやりと日々過ごしているだけで三流企業のエース社員と同等のステータスと給料を得ている。職場では多少居心地が悪いかもしれないが、外に出れば「医師です!」「ナントカ商事です!」と言えばモテモテである。三流の引け目があるのでいばる訳にはいかないが、そこがまた謙虚に見られるかもしれない。
 三流企業のエース社員はこうは行かない。合コンに行っても黙っていれば三流企業の扱いを受けるし、エース社員であることをアピールしても自慢に思われるだろう。仮に一流社員であることを納得させられたとしても、上司に嫌われたり病気になったりしたら即転落である。長期的な安定性を考えると将来有望な男とは思われないのではなかろうか。

  もちろんその業界の第一人者になるというのは名誉あることだ。しかし、残念ながら世の中の殆どの人間は家のローンと子供の教育費のために働くただの凡人だ。だからこそ、社会を支えるのは一流の人材に任せ、自身はコスパの良い選択を選ぶべきなのだ。大事なのは「一番」にならないことであり、出世しなくても社会的地位を担保できるようにすることだ。

 余談だが、筆者は発展途上国に旅行した際にも似たような構図を感じ取った。最貧国のエリート層は日本の庶民と同様の暮らしをしている。しかし、やっぱり日本の庶民の方が良いと思う。最貧国のエリート層は大勢の国民の上に立って気分は良いかもしれないが、常に政治家に賄賂を送ったり、強盗の襲撃を防いだり、内戦に勝利したりしなければならない。敗北すれば庶民に転落し、飢餓に苦しむことになる。
 その点日本の庶民は犯罪でもしない限り安泰だ。ぼんやり暮らしても安全と公共サービスが保証されるし、どんなに落ちぶれてもアフリカの庶民と同じ生活水準には落ちないからだ。やっぱり鶏口よりも牛後の方が圧倒的に気楽なのである。


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