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「東大までの人」とはどういう人のことなのか

 日頃愛読している東大卒の人生を考える会さんの記事で興味深いものがあった。

「東大までの人」、これはおそらく東大卒が言われると一番しんどい言葉だと思う。想像のほか、じわじわくる。理由は良くわからない。引退した野球選手を見て「野球までの人」という人はあまりいないからだ。一つは学歴がキャリアにとっての手段に過ぎないからかもしれない。このあたりの事情の考察も色々考えられるが、後の機会に譲るものとする。

 しかし、「東大までの人」とは多用される割には難しい概念である。一体どのような人間を指すのかは釈然としない。東大卒の就職先をとりあえずはいくつかに分類してみたいと思う。

①いかにも東大卒の進路(官僚・学者・外銀など)
②早慶旧帝がメインで、東大卒も一定数存在する業界(JTCなど)
③東大卒があまり多くない業界(準大手・中小企業など)
④自由業(起業家・作家・YouTuberなど)

 このうち、①が東大までの人と言われることは少ない。東大以外からも入ることは可能だが、東大であるに越したことはない。ある意味東大卒の典型的なエリートコースと言えるだろう。ある意味最も東大への依存度が高い進路とも言えるが、王道であるためか、否定されることはまず無い。出世できなかったとしても、在籍しているだけでエリート扱いである。

 真逆である④はどうか。東大卒であっても完全な自由業の世界に飛び込む人間はいる。完全にコースは外れていることになる。ただし、彼らもまた「東大までの人」とは言われない。むしろ英雄扱いである。自由業の場合は意外に東大卒の肩書は使いやすいのだが、それでも自由業で成功する人間は超人であることは間違いなく、尊敬の対象となる。

 となると、「東大までの人」が好発するのは②と③ということになる。②の場合はだいたいパターンが決まっている。①や④になれるほど優秀ではないが、民間企業にもそこまで適性のない東大卒が入社後に早慶やMARCHの出身者に逆転されてしまうケースである。②の場合は東大卒がエリートとしての格をキープするにはある程度出世する必要があるが、能力が高くない場合はタダの人となってしまう。かといってエリサラではあるので、レールから降りることもできず、過酷である。

 ③の場合、いくつかのパターンがある。1つ目はベンチャー企業のように明確なビジョンがある場合。これは東大までの人と言われることは皆無である。このルートを選ぶ人間はそれなりの野心があったり、エンジニア等のスキルがあることが多い点も関係している。2つ目は里帰りして地銀に就職したり、ワークライフバランスを重視して大学職員等になる場合。これはなんとも微妙だ。一切周囲に流されない独自路線の持ち主と東大で何らかの挫折をした人とある。ただ、このパターンはどこかの時点で東大卒エリートコースの執着から自分を切り離していることが多く、東大までの人の像からはズレている。3つ目は就職活動に失敗するか、短期離職等によって不本意就職するパターンだ。これは典型的な「東大までの人」である。

 これらに当てはまらないパターンも多数存在しており、一つ一つ検討していくとキリがない。ただし、なんとなくの概略は見えてくる。東大卒エリートの人間も、外の世界にチャレンジした人間も、「東大からの人」という扱いを受ける。「東大までの人」とは意外に主観的な要因が大きく、それは以下の3つの条件を満たしている人間のことだと思われる。

・東大に入らないと難しい就職先(官僚や学者など)ではない。
・職業的に成功(出世する・儲ける)していない。
・本人が東大卒エリートへの願望から逃れられていない。

 就職活動は大学のように偏差値で序列化されていないので、成功不成功を分けるのは本人の満足度となる。希望の業界で働くことができ、それなりに能力を発揮できている人間は「東大までの人」と言われることはないだろう。満足感が低くても、東大に入らないと難しい就職先であれば一応は社会的にはエリートとして扱われるので「東大までの人」とは食い違う。

 こうして並べてみると、意外にも「東大までの人」は加点法競争の敗者ということになる。東大卒は通常は減点法競争にこだわるのだが、この点においては加点法なのだ。東大卒エリート(官僚・学者など)になるか、別の方向で大成功するか(起業・自由業など)、本人の満足度が高いキャリア(ホワイト企業・クリエイターなど)を形成できれば「東大までの人」にはならない。なにかの点で突き抜けていれば問題ないということになる。「東大までの人」は東大合格の「貯金」のようなもので生きているケースが多く、過去の栄光にすがる老人のようになっている。過去の栄光が悪いとは思わないが(引退したアスリートに五輪までの人と言えるだろうか?)、その状態になるには幾分か若すぎるのである。

 以前にJTC余生論争があったが、これはまさに「東大までの人」の感覚かもしれない。JTCの社会的威信は強いが、東大には劣るので、薄っすらと下方就職の要素が出てくる。東大の肩書は就活では強いので、やる気のない人間でも大企業に入れてしまう。日系金融に勤めている筆者の友人曰く、MARCH関関同立の出身者が一番ガッツがあるという。MARCH関関同立の場合はそれなりに優秀で上昇志向のある人でないと入れないからだ。一方の東大卒は大学院等で挫折した人間が多く、「滑り止め」感覚で入社していることが多いらしい。こうした人々は東大の威光の「貯金」でなんとか滑り止まっているわけである。

 これらの事情を考えると、やはり「東大までの人」になりやすい形質を持つ人間は医学部に行ったほうが良いのかもしれない。医学部に入れば中退しないかぎり医者にはなれるので、「医学部までの人」と言われることはない。同様に弁護士も「司法試験までの人」と言われることはないだろう。東大の特徴は過半数の人間が東大よりも社会的威信の低いキャリアを歩むことであり、何もしなければ下り坂の人生になってしまうのだ。

 なお、この傾向が最も激しいのは東大理三である。東大理三出身の有名人を調べてみれば分かるが、注目される点が受験ばかりだ。理三合格に匹敵するレベルの職業的成功は非常に難しい。「神の手」の福島孝徳やメドレー創業者の豊田剛一郎辺りであれば「理三からの人」と言えるかもしれない。新潟県知事の米山隆一やベストセラー作家の和田秀樹も該当するかもしれないが、両者は受験の話が心の底から大好きである。

 筆者はそんな「東大までの人」の1人である。理由は色々考えられるが、簡単に言えばキャリア選択に失敗したことが挙げられる。筆者は頭は良かったのかもしれないが、サラリーマンにとことん向かず、仕事内容に興味もなかった。ぶっちゃけ勉強もあんまりできないと思う。何年かけても公認会計士とか税理士には受からないと思う。「新卒一括採用からはみ出たら人生が崩壊する」という恐怖から、一切リスクを取らなかった。エリサラのコースから脱落しないことしか念頭になかった。結局、学歴競争に匹敵する意欲が仕事に向くことはなかったのだろう。サラリーマンとして優秀な人物はまんべんなく70%のやる気を見せる人物なのだろうが、筆者は一点集中型なので、この点でも向いていない。出世にも興味がなかった。同級生が大学教授・官僚・裁判官などになっていく中で、民間企業の出世競争は大幅な格落ちとしか思えなかったからだ。かといって医者や弁護士のようにスキルを研鑽して独立開業できるわけでもない。YouTuberや作家だったら自己実現できるだろうが、食っていけない。筆者にとって入社時点で既にキャリアとは定年退職までの我慢ゲーでしかなかった。人と関わりを持つのは好きだったが、仕事自体はどうでも良かった。

 転職サイトに登録してみたこともあるが、新聞の販売子会社とか、新興保険会社の営業職くらいしか紹介されなかった。市場価値には相応なのだろうが、どうにも自分の居場所では無い気がした。超進学校に受かったり、科学五輪の日本代表になったり、東大を卒業したりという過去は何だったのだろうと思ってしまう。学力的に並んでいた同級生が医者・弁護士・官僚・学者・外コンなどで活躍している中で、トタン工場の外回り営業を頑張る気にはなれそうにない。理想が高すぎるとか、仕事を選り好みしているといった批判はあるかもしれないが、やっぱり抵抗感は強い。

 学力的に到底東大に届かなかった同級生が医者や弁護士として活躍していたり、早慶旧帝に届かなかった同級生が大手企業に進んでいたりもする。彼らは早期に挫折を経験することで、もっと真剣に自分の進路を考えていたのだろう。筆者は東大に進んだことであまりにも嬉しくなってしまい、キャリア形成において押し流されてしまった。人と比較してはいけないというし、向き不向きは誰にだってあるだろう。むしろ、心理的に苦しいのは自分が潜在能力を活かせず、不発に終わってしまったという事実である。もっと頑張っていれば、もっと勇気を出していれば、もっと慎重に選択していれば、彼らのように輝くことができたかもしれないのだ。

 もう悔やんでも遅い。筆者にとっては結婚して子供を育てて幸せな家庭を築くことの方が楽しみである。家族に囲まれ、毎日美味しいご飯を食べる。これ以上の幸せがあるだろうか。分不相応なキャリアを追い求めるより、こっちの方がよほど勝率が高いだろう。「東大までの人」がつかめる最大限の幸せは家庭なのである。

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