恥ずかしい

今朝。海岸にあるMacに向って歩いていた。途中で幼稚園のバスが止まっていた。横を通ると女の子がギャン泣いてお母さんにしがみついている。
お母さんが抱きかかえて離そうとすると、尚更、大きな泣き声になってしがみつく。

若い先生がバスから降りてきて、ハイハイ、分かりましたよ。でな感じで彼女を抱き上げた。するとその女の子は両足で母親の足を挟んで離さない。すげぇ、根性してる。

幼稚園の先生も思わぬ抵抗に戸惑っていた。するとバスの中から男の子がすっと降りてきた。明るい青い帽子を被っていて格好良い奴だ。お友達なのだろう。彼女に何か声をかけた。

泣いていた女の子はその男の子に気を取られた瞬間に、先生はスッと母親から彼女の足を切り離して、はい、行ってきます。と何事もないようにバスの中に消えていった。

横にいたママ友が「今日はどうしたのかしらね〜」と、母親に話しかけている。母親は少し娘が駄々をこねたので、笑い顔に赤みがさしていた。はい、今日のお仕事ひとつ完了ってな感じでママ友と別れた。

女の子は、「子どもには子どもの事情があるじゃい」.「今日だけ絶対に幼稚園に行かないぞ」と命をかけていたのに、あっという間に終わりになりました。


私は瞳を見つめた。

彼女の瞳を覗けこんだのだ。彼女が自分の人生を語る時に、退屈そうな表情で退屈そうに話すからだ。

「恥ずかしい」

とハンカチで顔を隠した。そして、ハンカチを下げながら目だけを出して、私を見た。

「恥ずかしい」

 と言ってまた顔を隠した。何回もするので、その度にまた彼女の瞳を覗き込む。

彼女の生立ちはこうだ。
私の父親はある日、私の母親を突然、家に連れてきた。その時にすでに奥さんがいたので彼女は出ていった。
私が生まれて1歳半か二歳になった時にある中の父親は蒸発した。
母親は目が見えないので、親戚が養護施設に預けた。
学校に行って施設に戻るという生活をした。大人になって必要な資格を取って今のあたしがいる。
この時に退屈な人生を語るような目をしていたのだ。

「恥ずかしい」

と言いながらハンカチの裾から私を覗き見る瞳は、赤ちゃんが自分でお母さんに「イナイ、イナイ、ばぁー」をしているようだ。

彼女の顔は明るくなり肌に赤身を帯びている。

コンタクト

コンタクトという概念がゲシュタルト療法にある。人と人が接触するという意味である。日本人は、相手を見ないで話すことが多いが、欧米文化からすると、目を逸らして話すのは嘘をついていることになる。

彼女場合は母親が目が見えないので、赤ちゃんの彼女を抱きあけても、瞳を覗きこむことがなかったかもしれない。しかし、大人たちはそれぞれの立場でコンタクトをしてくれたのだろう。彼女が社会的に立派な働きができるいることが証である。

四十歳半ばを過ぎて生活が安定した時に、彼女は「退屈」な何かを感じ始めたのかもしれない。

カール・ユングは、安心とか信頼、愛情は、「無数の経験」を通して意味を理解していくのだと書いている。
幼稚園の女の子が不機嫌な気持ちを伝えることが出来るのは、絆の現れなのかもしれない。

ローラ・パールズはコンタクトという概念を創り出したが、「恥ずかしい」と感じるのは、新しい環境に接した時に感じるものである。また、十分にサポートがないが、新しい環境接した軽い興奮であるといった。


https://gestalt-momotake.com/




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