東洋の終点 庭と禅の文化

人間はめちゃくちゃな存在というフツウさを、抱えている。程々に変ならふつうという事を意味する。ちょいわるなら平凡に分類される…。変てこりんなら奇妙さの平均。滑稽にするなら吉本新喜劇の真ん中くらい。そう成れるとも限らない。それゆえ変なのは通常運転として続く。まさに奇妙奇天烈として、異議あるまいと断案出来る。ここには愚劣さ愚かさも見える。それをなおさない点もフツウと言える。賢く成らないのもまた、フツウと、言える。変なままなのも、日常と、言える。さらに変に成るなら加速度の問題と言える。すなわち変人Aを更年期と、し、反抗を展開しゆくと、する。この加速度Xは、大きいと損を増やす。かといって飽きもしない。愚痴は止まりもしない。その愚痴は加速度と比例し、負の側面としての相乗効果から、更年期を悪化させる。変人Aは生来の変さからそれを始めたかも知れない。とはいえ歯車は吟味するなら、いまや下り坂にある…。過去の自分を憎み「若さ」へとやつあたりするその小さき後ろ姿。
先輩の背中は素晴らしい。
それを素晴らしいと言わないなら何をされようか。
妄想を生きる者には風情は溢れている。
そこにもまた秘する風情はあったろうに。草はない庭。毛はない頭。そこに風情もない日には寒風は占有する。それもまた風情。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。