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野球選手の性について「考えたコト」

むしかえすとか、そういう悪意は本当に、辞めようとおもう。

私は伝える事に専念しない自分をあんまし好きになれない爲。

専念しない姿は何についても情けないな、とは、思う。

(自分のそういう姿もひいきするという事はない)

中田翔も含めた、坂本勇人と、山川穂高のあと、新しい一件、ちゃんと扱うつもりは持っている、認識は確定したらに、したいとおもう。
ちょっと新しい件は、意味も捉えかねた。
公平に扱えるか、扱わないか、そういう所は明瞭に、しようと想う。
当事者意識を持つ際も、ひとはひと、という、面はまた一面在る。
一応中田翔と坂本勇人は、理解出来た。山川穂高は、理解しようとしている。
人を理解すること自体は渋ってはいけないなと、、思う。「日経新聞」より主観は入ると想うから、自分の立場はある程度いっておく。性的にアナーキーという事自体は、理解出来る。とはいえワタシの場合は、思春期特有に持った考えやその端緒はとても沈思黙考した。
そういう所はないのか。
伝わってこない。

個人的な【迷惑】はあまりないとしたい、中、ここは伝えてもらわないとわかんない。

衝動というのは本来、複雑な要素をもっている。

複雑な要素を持っていて、解明されている部分もある。
つまり全てのいいわけには出来なくて。

童貞の絶望みたいな事は、大江健三郎さんなりには二作かいた。
自分はそう認識している。

それ以上ふみ込みたくない所はあって当然かもしれない。

清原和博も、正直には成れたのかなと、モラルというより尋ねたくは成った。

伊集院静は、野球を絶対視するのは、ホントに、警戒しているらしい。なんかこういう場合はちょっと「そっち」を、聴きたくなる。
わたしも、やっちゃいたし、やめる理由も分からないといけないと思う。
ゆえに。

人間力とはとにかく、関係無いと。
深い相関関係ナシと。

それなら、やはり、野球、個人成績いくつ高く、したからと言って、知人女性に、性的な困り事の部分を、押しつけてはいけないし。
議員の答弁とは違って「本当に」忘れているなら、単に自分のために、病気は気にしたら(?)とおもう。

そういうところは、問われない所をきちっとするか、先に、有るから単に、それこそ、アスリート的責任感の部分と、想う。

(授業は寝ちゃいけない。眼くらい、、おこしてろって)

共同幻想論は、真面目に読み解いても、洗脳はされない。そういう影響は。ー

共同幻想と、個人的幻想と、対幻想、最後のかな、これを抑えてるかな。
主観は大事に出来る。公共性は大事に出来る。
異性の尊重そこ、という事はな、、?

うまく行かなかった時は、反動形成ということか??
順当なやりかたは、逆張りして、見捨てているのか。

そういう所を深める日は創ってみるか!

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。