「noteをはじめた主婦が紡いだ言葉たち」

【ここに書く理由】
私は小さい頃から、人に気を遣いやすい。
その為、初めてお会いする方や、そうした方と
お話しした日は、どっと疲れが出てしまう。
気を遣わないようにと思っても、たぶん、無意識に気を遣ってしまっているのだと思う。
こればかりは、もって生まれた気質なのかもしれないとも思う。
そんな私がnoteの中で、文章を書く理由は、たぶん
書いている時だけは、気を遣うことなく、心の中の思いを吐き出せるから、書いているのだと思う。
思ったこと、感じたことを鳥が羽ばたくように、noteの中で羽ばたかせる。
私にとって、この場所は、自分を表現出来る場であり、とても心地のよい場所だ。
日々、私はnoteの街の皆さんの書いた文章に感動し、涙している。
また、読ませていただいた素敵な文章や言葉は私の中で、大切なものになっていると感じている。
気持ちが落ち込んだ時にも、皆さんはとてもお優しく、皆さんからいただくコメントは、いつも、私の心の絆創膏になっている。
私の言葉も誰かの心の絆創膏になれたらいいなと思う。

【幸せについて】
人は大なり小なり様々な人生を経て、
今を生きている。
若い頃、私は今ほど、幸せについて考えた事があっただろうか?
noteに文章を書くようになって、前よりもっと色々な事を感じるようになった。

幸せというのは「常にあるもの」
ではなくて「自分で見つけるもの」

これは、私の大好きな樹木希林さんの言葉。
本当にそうだなぁと思う。
心の持ち方次第で、もしかしたら、目の前の状況を変えられるのかもしれない。

私の幸せは平凡な毎日を送れること
健康で居られること
家族が元気なこと
ごはんが食べられること
暖かいお布団で寝られること
お風呂に入れること
noteが書けること

たぶん、見つけたら、もっともっとあるはず。
私はこんな平凡な毎日がとても尊いなと思う。
それから、noteで皆さんの投稿を読ませていただいている時間は至福の時。
noteを知らなければ、私の人生、損をするところだった。
皆さんの書く素敵な文章に触れ、時にコメントを書かせていただき、やり取りをさせていただく。
その時間は、私にとって、この上ない幸せな時間。これからも、この幸せを続けていけたらいいなと思う。

【主人のこと】
お酒も沢山飲むし、煙草も吸うし、とても短気。
けれど、とても優しい人。
迷っている時、一歩踏み出せない時、思ったようにやってみたらいいよと背中を押してくれる人。
noteという自由に書き込める場がある事を教えてくれて、noteを始めるきっかけをくれた人。
私の文章を読む度に、私らしくてまっすぐな文章だねと言ってくれる。
優しい世界で俺は好きと言ってくれる。
自分らしい文章を書けるのはあなたの存在も大きいです。ありがとうね。

【言葉】
小学生の時、友達のお父さんが病気で亡くなった。そのお葬式の日、彼女は
「お父さん、何で亡くなったの?」
と、その友達に聞いた。
小学校四年生くらいの時だったと思う。
その時、私は、彼女の事を凄く嫌だなと思ったのを覚えている。 
彼女は頭が良くて中学校は受験をして私立へ行った。けれど、彼女には思いやりに欠ける所があった。思いやり以前に、相手の気持ちを考えない子だった。だから、私を含め、まわりの友達も彼女が発した言葉によって、傷つけられた。
言葉は時に、刃物になると思う。
言葉には重みがあって、何気ない言葉でも平気で人を傷つける。
逆にどん底にいる人を、その人に向けて掛けた言葉によって救い出す事も出来る。
きっと、言葉には見えない力があるのだと思う。
傷つける言葉を人に投げ掛ける事は、自分にとっても気持ちのいいものではない。
私は救い出せるような言葉を掛けていきたい。
言葉によって、救われる事を願いながら。

【感謝を込めて】
私達がここへ越してきたのは13年前。
賃貸物件だけれど、大家さんのご親族がお住まいだったようで、他の部屋とは作りが違う。
庭もあり、花壇もある。
私達の部屋は階段がついていて、1.2階でお借りしている。
お隣りのお部屋は石沢さんというおじいちゃんがお一人で暮らしていた。
越してきた際、自由に利用する事が出来る花壇の土を『耕しておいたから』と言ってくださり、
『ここは土がいいから、野菜でも作ってみたら?』
とアドバイスをくださった。
そこからだ、我が家の野菜作りがスタートしたのは。石沢さんは山形のご出身だった。娘さんが同じ市内にお住まいで、息子さんが、たまにいらっしゃっていた。奥様はかなり前にご病気で他界されていた。笑顔の素敵な方だった。膝が悪く杖をつきながらも、山形から送ってきたからと、いつも笑顔でサクランボや色々な物を持って来てくださる方だった。あれはコロナが流行りだした三年前、越してきた当時はふっくらとして丸顔だったお顔がかなり痩せられたなと思っていた。
そうこうしているうちに、おじいちゃんを見かけなくなった。
おじいちゃんはここにはお住まいではないようだったけれど、息子さんは、週1ペースくらいでお部屋に来ていた。
主人も子供も私も家族全員がおじいちゃんの事を心配していた。
息子さんに訊ねてみたかったけれど、夜にいらっしゃる事が多く、時間帯が合わずに、おじいちゃんの事を聞けずじまいだった。
けれど、今日の朝方、ゴミ出しの際、息子さんと一緒になった。
ここで、聞かなければ後悔する、だから聞いてみようと思い『隣りの部屋に住んでいる者ですが、越してきた頃から、おじいちゃんに大変お世話になりまして、おじいちゃんはどちらかでお元気にされていますか?』とお伺いしてみた。
すると、『父は亡くなっておりまして』とのお返事だった。
悲しかったけれど、もしかしたら?とは思っていたので、その言葉を静かに受け入れながら部屋へと戻った。戻ってから、主人と子供に報告をした。
「おじいちゃんの事がやっと分かったよ、お亡くなりになっているって」
主人も子供もそうだったのかと悲しそうだった。
主人に『お墓やお仏壇に手は合わせられないけれど、心の中でありがとうございましたと思えば、おじいちゃんにきっと届くよね?』と聞いた。
返ってきたのは、『大丈夫、届くよ、おじいちゃんに』だった。
心のどこかで、お元気でご健在であってほしいと願っていた。
いつかまた、お会いしたいと思っていた。
もうお会いして、お礼を言う事は叶わないけれど、これからも私達家族は花壇の土を耕す度におじいちゃんの事を思い出すのだと思う。
石沢のおじいちゃんに感謝を込めて‥‥‥

私は人との出会いには必ず意味があると思っています。石沢さんにお会いできたのも何かのご縁だし、意味がある事だったのだろうと思います。
ここに今日おじいちゃんの事を投稿しようと思ったのは、まさか聞くことは叶わないだろうと思っていたその後をまさに今朝、聞く事が出来たからです。
人との出会いは素敵な事だなと感じています。
このご縁に感謝して、今日もまた、そんな素敵な出会いに出会えますように。

【人によって傷つけられても、人によって癒やされる】
世の中には、時に、何もされていないのに暴力を振るってしまったり、物を壊してしまったりする人がいるけれど、色んな辛い事を抱えて生きてきて、体も心もブレーキが効かなくなって、感情もコントロール出来なくなって、そんな事をしてしまうのかなと思う。本当は暴力なんて振るいたくないのに。
この世に生まれてから生きていく中で、
親からの愛情をもらい、他者からの愛情を受け、安定した生活を送れる事が、いかに、大切な事か考えさせられる。愛情をもらえなかったり、人に傷つけられたりした人は、受け入れる事、受け入れられる事にも躊躇してしまう時がある。
人から優しくされたりした事のある人は、人と安定した関係を築く事が出来るけれど、
人から優しくされた事のない人は、
優しくされた経験がないから、人と安定した関係を築く事が出来ない。
人は、人によって傷つけられたとしても、人によって癒やされる。
人間は一人では生きられない。
生きるとは、人と関わり合う事だから。

【太陽と月】
私の中で、母は太陽、父は月のような存在だ。
母は太陽のように明るく笑っていてくれたし、
父は月のように静かに見守ってくれていた。
父親と母親は月と太陽くらいが丁度いい。
私も子供にとって、太陽みたいなお母さんでいたいな。

【しあわせについて】
幸せのものさしは人それぞれ違う
私は日常の当たり前なことこそが幸せなことなんだと思ってる
もしかしたら、明日は来ないかもしれない
だから、今を大事に大切に生きなきゃと思う
幸せは気持ちひとつ
心が弱っていると目の前の幸せに気づきにくい
心が元気だと小さな幸せに気づくことが出来る
小さな幸せに気づける自分でいたいなと思う

【体形】
ちなみに主人はとても小柄な人です。
若い時、「俺は胃下垂だから太れないんだ」と言っていた懐かしき日。
ご両親も痩せているし、太れないんだ。
じゃあ、年を取ってもこの人はスリムなままかな?
なんて思っていた昔。
今はお腹がたぬきさん。
「あれ?あれはウソだったの??」
いえ、30歳を越えると代謝が悪くなって、太ってくるんですよね。
私はというと、小さい頃から、標準体重より軽め。結婚当時は身長160センチ、体重は40キロ代の前半でした。
だから、着られたマーメイドラインのウエディングドレス。
今は、出産をし、30代を越えたあたりから、代謝は悪くなり、今では標準体重に。
いえ、食べ過ぎるとそれ以上になります。
食べたら食べただけ、身になる体質に早変わり。
しかも色が白めなので、人よりシミが多い。
母にはあなたは顔色が良くないから、お化粧はしておきなさいねとずっと言われてきました。
シミは必ずカバー力のあるコンシーラーで消してからお化粧をはじめます。
子供から、何でお母さんは若い時から、日焼け対策をしっかりして、シミ予防しなかったの?と怒られます。それを聞いていた主人が
「シミなんかあったっていいんだよ」と一言。
その言葉は、年を取って、もう君なんかどうでもいいんだよという言い方ではなく、どこかそんな君もいいんじゃないかなぁ?と言ってくれたように聞こえました。
シミ対策、しっかり出来ていたらこんなにシミはひどくなかったかもしれません。
けれど、子育てに精一杯で、子供を公園へ児童館へと自転車の後ろへ乗せ、走りまわっていたあの頃はとにかく気をつける余裕すらなかったんです。
でも、そんな自分の事はほめてあげたいと思っています。
主人はそんな事も全部引っくるめて、そんな風に言ってくれたのかな?と勝手に思っています。
私は主人に対して、たぬきさんになったお腹も愛おしいなって思うよと言ってあげたいです。
照れ臭くて言えないので、投稿すると必ず読んでくれる主人に向けて書きました。
あなたのお腹は今まで頑張って働いてきた証だねって。だから、私はとても愛おしいよと言ってあげたいです。
人生を頑張ってきた先にあるその身体を私は愛おしいと思っています。

【最高の人生】
夫とは二十代の頃から付き合って、結婚をして、気づけば随分長く一緒に居るんだなぁと思います。
長い時間の中には色々あって、それはどこのご夫婦もそうかと思いますが、二人にしか分からない、色々な事があって、乗り越えて今があるのかなと思います。
私は若い頃から自分は結婚出来るのだろうか?と思ってきました。
とても神経質ですし、こんな自分を受け入れて結婚してくれる人なんて現れるのだろうか?と思ってきました。ですが、有り難いことにこんな私でも結婚してくれる人が居てくれて、今までずっと守って助けてきてくれました。それが今の夫です。
私にnoteを教えてくれた人でもあります。
そして、投稿すると必ず読んでくれる読者の一人でもあります。
感想をくれる人でもあります。
夫婦とはいえ、ずっと持ち続けていたい事があります。
それは、相手を尊重するということ。
ずっと敬意を持っていたいということです。
私の中で中心軸というか大切にしたいことです。
夫婦は所詮、他人ですが、
折角、縁あって、同じ船に同乗しているので、
この先、何年一緒に居られるのか分かりませんが、
中心軸を大切にしていきながら生きて、
最後にやっぱりこの人で良かった、一緒に居られて幸せだったなと思えたら最高の人生だなと思います。

【おばあちゃんのおにぎり】
主人のおばあちゃんは優しくて笑顔が可愛くて、猫に好かれる人だった。
長野の冬は寒いから来なくていい。
『元気でいるんだよ』といつもみんなの心配をしてくれる人だった。
お料理が上手で、私が主人と子供と帰省すると、『つむぎちゃん好きでしょ?沢山食べなさいね』と、煮物やお漬物を目の前いっぱいに出してくれた。
『帰りは高速のパーキングで食べなさい』って、いつもおにぎりを持たせてくれた。
おばあちゃんのおにぎりは誰にも真似できない、
とても美味しいおにぎりだった。
フライパンで塩を焼き、その焼塩をおにぎりに使っていた。
梅干しや昆布など中身を入れなくても海苔とご飯と塩だけで、十分美味しいおにぎりだった。
おばあちゃんの人柄を映し出すようなおにぎりだった。また、おばあちゃんのおにぎりが食べたいねと家族と話した。けれど、おばあちゃんはもういない。おじいちゃんのいる天国へ行ってしまったから。おばあちゃんを思い出す時、いつもおにぎりを思い出す。何年経っても色褪せない思い出だ。

【気づいたこと】
ありがとうとごめんなさいは早いうちに伝えたほうがいいと思う。
隠し事はそのうち嘘になって、大切な人を傷つけたり、二度と戻れないこともある。
我慢のし過ぎは苦しくなるだけ。
しあわせは心が弱ると見えなくなる。
覚えることも大切、けれど、忘れることで救われる時もある。
「大丈夫」は魔法の言葉
昔、『言葉は心を形に表したもの』と聞いたことがあります。
言葉には重みがあると思っています。
酷い言葉を掛けられると心の中は重たくなる。
素敵な言葉を掛けられたら、心がフワッと軽くなって嬉しくなる。
今日もたくさんの言葉たちを思い浮かべながら書いています。

【猫のもみちゃん】
今、もみちゃんには何が見えていますか?
虹の橋を渡って、無事にお空へ行けましたか?
もしかしたら、もう生まれ変わっているのかな?
もみちゃんに会いたいです。

もみちゃんに初めて会ったのは、4年半前くらい。
庭に痩せた地域猫がやって来ました。
何かあげてみようかと、かつお節をお皿に入れ、庭に置き、様子をみました。
すると、美味しそうにかつお節を食べました。
その日から、毎日もみちゃんは庭に現れるようになりました。
実家で猫を飼っていた主人が、
「今度、猫エサを買ってきてあげてみよう」
と言い出し、早速、買ってきた猫エサをお皿に出し、庭へ置きました。
すると、とても美味しそうに食べました。
その日から、もみちゃんは毎日、庭に来るようになりました。
餌も毎日、出すようになりました。
主人が、「こんなに毎日来るようなら、うちをあてにして来るのだろうから、餌をあげ続けよう」
と言いました。
もみちゃんは去勢手術のされている猫で、切られている耳(さくら耳)の方をネットで調べたところ、メス猫ということが分かりました。
そして、名前もつけました。
名前は子供がもみじがいいと言い、私達家族は
「もみちゃん」と呼ぶようになりました。
もみちゃんは茶と黒のキジネコで、手足が短く小さめで、顔の怖い猫でした。
そして、餌をあげ続けていた数日後、子供と私は衝撃的な場面を目撃する事になりました。
庭にいたもみちゃんが、痙攣を起こしました。
横に寝っ転がりながら、ガタガタと震え、それも激しく、おしっこを漏らしながら、なおもガタガタと震えています。
子供と私はその衝撃的な光景に、どうすることも出来ずに、二人で泣いてしまいました。
何とかしようにも、何も出来ない。
おそらく、もみちゃんは痙攣をもって生まれてきた猫なんだろうと思います。
私は猫が苦手でした。触ることも出来ません。
痙攣を起こした直後、もみちゃんは相当の体力を消耗するようで、しばらく動けないようでした。
ただ、動けるようになると、痙攣の消耗を餌を食べることで打ち消すかのように、いつもの倍くらい餌を食べました。
それだけ、痙攣というのはダメージと消耗があるのだろうと思います。
もみちゃんはとても怖い顔をしています。
けれどそれは、痙攣のせいなのではと思います。
痙攣を起こすから、険しい顔になってしまったのだろうと思います。
ネットで猫の痙攣について調べました。
すると、栄養状態が良くなると、痙攣の回数も減る場合があると書いてありました。
うちは主人と子供は猫好きです。
ですが、住まいが賃貸の為、飼うことが出来ません。家族と話しをしました。
その結果、もみちゃんがうちに居付いてくれている間は、飼うことは出来ないけれど、餌は切らさずにあげ続けようという事になりました。
ご近所のやはり地域猫ちゃんに餌を出しているお宅へ、もみちゃんのことを聞いてみると、どのお宅もそういう猫は来ないとのこと。
だとすると、もみちゃんはうち以外には行っていない。とても用心深い猫ちゃんなので、それも納得出来るなと思いました。
ならば、なおさら、餌を切らす訳にはいきません。
それから4年半近く餌をあげ続けました。
うちはよくキャンプへ行くので、家を空ける時には多めにお皿に出すようにしました。
お天気の良い日は玄関前で日向ぼっこをしながら、お昼寝をするもみちゃんを良く見かけました。
この4年半の間には、用心深いもみちゃんが、唯一心を許した、トラちゃん(子供が命名)と昼間、一緒に居るところも良く目撃しました。
もみちゃんが大好きで追いかける猫、ゆりちゃん(子供が命名)から逃げるもみちゃんを目撃したり、時には酷い痙攣をまたも、目撃したり。
とても用心深いねこちゃんでしたが、餌を出す私には少しだけ心を開いてくれたのか、まばたきやサイレントミャーをしてくれる日もありました。
私が買い物から帰ると、道の方を向いて帰りを待っていてくれる日もありました。
もみちゃんの痙攣は日に日に回数が減り、月に数回目撃していた痙攣は月に一回くらいになっていきました。
それは私達家族にとって、とても嬉しい事でした。
酷い時には道の真ん中で痙攣を起こし、動けなくなっていたもみちゃんを主人と子供が偶然発見し、抱いて家の前の安全な所へ移動させた事もありました。
そんなもみちゃんも4年後くらいには、だいぶ毛並みも荒れ、元々、若い猫ちゃんではなかったので、更に歳を取ったように見えました。
そして4年半くらい経った頃、毎日、庭に居たもみちゃんの姿が見えなくなりました。
猫は亡くなる時、人間から見えない所で死んでいくと聞いた事がありました。
それから、私は、また会えるんじゃないか、今日は会えるんじゃないかと、毎日毎日、もみちゃんの姿を探しました。
けれど、一週間経っても、三週間経っても、一ヶ月経っても、半年経っても、もみちゃんは現れませんでした。
いつか、亡くなる事は心のどこかで分かってはいました。けれど、私の中では、ずっと庭に居てくれる存在のような気がしていました。
悲しいけれど、もみちゃんが居なくなったこと、虹の橋を渡っていったことを受け入れなければいけない時なのかもしれません。
ご近所の方が言って下さいました。
もみちゃんは、つむぎさん御一家がいたから、きっと、4年以上も生きられたのよ、と。
それは何よりにも代え難い言葉でした。
もしも、もみちゃんに言葉をかけるとしたら
「本当に良く頑張ったね」です。
しんどかったよね、けど、4年半本当に良く頑張った。
私達家族はもみちゃんに出会えて本当に幸せだったよ。猫の苦手な私がもみちゃんにだけは心を開く事が出来た。もみちゃんへの餌やりは痙攣を軽くしてあげたいという気持ちと、使命感みたいなものをもってやってきました。けれど、それが結果に繋がって、もみちゃんの痙攣の回数を減らす事が出来た。
それが何より嬉しかったよ。
もみちゃんに会えなくなってしまったのはとても寂しいことだけど、もう、痙攣に苦しまなくて良くなったのだとしたら、私達家族は本当に嬉しいです。もみちゃん、うちの庭に来てくれてありがとう。
もみちゃんに会えてしあわせでした。
もみちゃんのことはずっとずっと忘れないよ。
ありがとう、もみちゃん。

【人生観が変わったとき】
私の人生観が変わったのは、21歳の時。
股関節に持病がある私は21歳の時に一ヶ月寝たきりになる手術を経験した。
子供の出産の時より痛かった。
たぶん、人生で一番痛い思いをしたと思う。
生きられる事は当たり前じゃないと思ったのは、この時の入院がきっかけだ。
都内の大学病院には大変な病気の方ばかり入院していた。生きたくても生きられない人を見た。
病気の人は色んな事を我慢して生きている。

その時、思った。
生きられる事ってすごいこと。
感謝して生きなきゃいけないなぁと。

それからだと思う。
小さなことにも感謝出来るようになった。
小さな事にも有り難いと思える気持ちが芽生えた。痛かったけれど、あの手術は私にとって、とても大きなものだった。
こんなふうに生きられるようになる為に、なくてはならない手術だったんだろうとさえ思う。

今を噛みしめて生きていきたいと思う。

【考え方次第】
前に働いた会社に、
物の言い方がとてもキツい方がいた。
ツンツントゲトゲした物の言い方をされる方だった。
決して悪い人ではなかったけれど、
周りの人を不快な気持ちにしてしまう。
その職場に私と近い年代の方が居た。
その人に●●さんて、キツイ言い方されますけど、大丈夫ですか?と聞いた。
すると、大丈夫です。
私、もっとキツイ人とお仕事した事がありますからとの事だった。
ツンツントゲトゲした人に出会った時、
私はこの人はこういう人なんだ。
色んな人がいるものだなぁ。
聞き流そう。
という風に考えるようにしている。
すると、意外と大丈夫になる。
ガツン!と言われた直後はへこむけれど、
自分の中に浸透させずに、聞き流せれば、
大丈夫になるものだ。

今まで色んな方に出会ってきた。
いい人にも、あまり良くない人にも。
歳を重ねて生きていると、
若い頃は狭いグラウンドでしか物を考えられなかったけれど、
広いグラウンドで物を考えられるようになってきた。
その方が、確実に楽だなぁと思うのです。

【お弁当】
私の考えるお弁当は
お弁当=愛情
だと思っています。
唐揚げを漬け込んで揚げるとき、
卵焼きを焼くとき、 
おにぎりを握るとき、
食べてくれるひとを思いながら作っています。
食べたとき、美味しいといいなぁ、なんて考えながら。
何かで、お父さんが息子さんの為に作ったお弁当を
「ラブレター」と言っていて、
素敵だなぁと感動してしまいました。
ラブレターは手紙だけじゃないんですね
大切なひとへ贈るものは
みんなラブレターになるんですね

【無駄なことなんて一つもない】
若い頃には、あまり、感じなかった、考えなかったことですが、歳を重ねて思うことは、
今まで出会ってきた人も、失敗したことも、経験も、たとえ、先に繋がらなかったことだったとしても、どれも無駄なことなんて一つもなかったんだと思っています。
むしろ、過去があったから、今がある
今に繋がっているとさえ思います。
私がいつも思うことは、
人との出会いは本当に素敵なことだなと思っています。
noteを始めて私の投稿にいつもスキをつけてくださる方々、有り難くって本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
また、素敵な投稿を沢山見せていただく度に日々、
noteに出会えて本当によかったと思います。
そんな素敵な投稿を目にする度にこんなにステキな記事が読めて幸せだなぁと思うのです。
今日もどんなステキな記事に出会えるのか楽しみです。これからも、noteと共に日々過ごしていきたいなと思います。

【ありがとう】
ありがとうって、素敵な言葉だなぁと思っています。人と人とが繋がり合うときに使われる、感謝を表すときに使われる最高の言葉だなと思っています。
私は生きているうちに、あと、何回、ありがとうって言えるだろうと考えています。
もし、亡くなる時に話せるとしたら、
家族に「ありがとう」と言って、旅立ちたいと思っています。
とてもあたたかくて良い言葉。

【言葉で抱きしめる】
noteで、コメントを書かせていただいた時、
私は今まで、沢山頑張ってきたその方に
「抱きしめてあげたいです」と送りました。
けれど、当然、抱きしめてあげる事など、出来ません。
その方から、コメントに返信をいただきました。
そこには、「言葉で抱きしめてくださっている」と返信をくださいました。
感動して泣いてしまいました。
私の書いた言葉が、その方を抱きしめられたのだろうか?
そんな素敵なことを言われた事は今までありませんでした。
この時こそ、今までnoteをやってきて良かったと思ったことはありませんでした。
言葉ってすごいですね。
目には見えない力があるんですね。
改めて、言葉って素敵だなぁと思いました。

【お母さん、ありがとう】
母は6人兄弟の末っ子です。
兄が3人、姉が2人います。

一人っ子の私からすると、母は母親であり、友達のような存在でした。

そして、とても我慢強い人でした。

父は長男でしたので、舅と姑のいる家に嫁いできました。

私が小さい頃は、祖父母とあまり仲が良くなく、2対1で、母は負けてしまうので、良く私を連れて実家に帰っていました。

一度、離婚になりそうな時もありました。

ストレスで体調を崩した時期もありました。

けれど、母は頑張って離婚をしませんでした。
めいっぱい踏ん張ったんです。

いつか私に言った言葉があります。
ここまで、頑張ってきたのに、離婚したら、あなたにこの土地と家を残してあげられないと。

母は一人娘の私の為にも頑張ってくれたんだと思います。

ずっと、間近で大変だった時、苦しかった時を見てきたから、分かります。

母は頑張った。本当に良く頑張りました。

歳の後半は色々な病気にかかり、その度に、つらい治療も頑張ってきました。

いつもしてもらうばっかりで、私もいい歳になったのに、何もお返しが出来ていません。

ずっと私のことを守ってきてくれたお母さん、
これから先は、私がお母さんのことを守るから
安心してね。
ありがとう、お母さん。

【お誕生日】
お誕生日って、ケーキを買って、
一つ歳を重ねたお祝いをするけれど、
お誕生日って、もう一つ。
親に感謝する日でもあるんじゃないかって思うんです。
自分が生きているのって産んでくれた親がいるから。
毎年お祝いしてもらえるのも、育ててくれた親がいるから。
だから、自分のお祝いもするけれど、
親に感謝する日でもあると思うんです。
ありがとうって。

【やさしさ】
優しさには
声を掛けて、話し掛けるやさしさと
言葉は発さずとも、静かに寄り添い、
そばにいてあげるやさしさがあると思う

どちらもとってもあたたかいやさしさ

両親からもらったやさしさは一生の宝物

友達からもらったやさしさは私に前に進む
ちからを与えてくれた

どのやさしさも、湯たんぽみたいに
とってもあったかかったなぁ。

【生みの親より育ての親】
私が考えることですが、

捨てられたのに、
生みの親に憎しみを感じないのは、
育ての親から溢れんばかりの愛情を
もらいながら育ったから。

生みの親がいるのに、
育ての親とずっと一緒にいたいと思うのは
たくさんの愛情を注いでもらって、育ててもらったから。

不思議ですね。
血が繋がってる、繋がってない
なんて関係ない。

大切なのは
どれだけ愛しているかということ。
どれだけ愛されてきたかということ。

【歳を重ねるということ】
若い頃は50歳という年齢は随分と大人なひと
というイメージでした。

あと、数年でその年齢になる私はというと、
昔思い描いた50歳ではない気がします。
そんなに成長していないような気がするからです。良いのか悪いのか……

ただ、この歳で、noteをはじめて感じたことは、
もう少し若い年齢だったら、その年代の文章は書けたのかもしれませんが、
今の年齢になったからこそ、書けた記事がたくさんあった気がします。

歳を重ねたら、今まで以上に両親への感謝が芽生えたり、親になってから出てきた感情とか、家族への想いとか。
視野や感じる心も豊かになっている気がします。

歳を重ねるのも悪くはないのかもしれません。
もう少し長生きできたら、どんなおばあちゃんになるのかなぁなんて考える今日この頃です。

【弱み】
人に弱みを見せられる人は
本当に強いひとなんだと思う

人に弱みを見せられない人は
本当は弱いひとなんだと思う

私は弱みを見せてもらいたいと思う
私も弱みを見せられるようになりたいと思う

【放っておけない】
かなり昔、いつも行くドラッグストアまで自転車を走らせていた所、道の端に猫が横たわっていました。
「あっ、猫だ!」と思いながら、通り過ぎました。
ちなみに、私は猫が苦手で触れません。
抱き上げることも出来ません。
けれど、とても気になって、振り返りました。
先程、猫の横を通り過ぎた時、私と逆方向へ自転車を走らせる大学生くらいの青年二人とすれ違いました。
彼らも猫の存在に気づいていたようでした。
けれど、通り過ぎて行きました。
私が、猫が気になって振り返った時、彼らはそこから50メートルくらい先で、自転車を止め、猫の方を見ながら、何やら話していました。
数分そこで話していたと思います。
けれど、次の瞬間、二人は自転車で猫の所まで戻って来ました。
そして、自転車を降り、二人は猫の様子をしゃがんで見はじめました。
一人の青年が、猫を抱き抱えました。
もしかしたら、少し息をしていたのかもしれません。または、息をしていなかったけれど、そのままにはしておけなかったのかもしれません。
二人はまた何か相談をし、ゆっくり自転車を走らせながら、猫を連れて行きました。
私はその光景を見たあと、涙が溢れました。
私はその時、何も出来ずに猫に申し訳ないと思っていました。

猫を連れて帰ったのは、今どきの青年でした。
あの時の心優しい青年二人の記憶は時間が経った今でも、私の中に生き続けています。
きっと、一生忘れないと思います。
あの時、とても素敵な二人が居たことを。

【愛してる】
私が生きているうちで、一番嬉しかったことは
あなたが産まれてきてくれたこと。
不器用で、何の取り柄もなくて、何も誇れることもないお母さんだけど、あなたのことを心から愛しています。
あなたが産まれて、自分の命より大切な命が出来たことを心から嬉しく思っています。
あなたが産まれてもうだいぶ年月が経ったけれど、
産まれた時に嬉しかったこの気持ちはずっと変わらないのだろうと思います。

【寄り添う心】
優しい人は時に苦しくなってしまうことがある。
それは、人の痛みを感じ取ることが出来るから。
その人の辿ってきた人生を、苦しかった今までを
心で共有しようとするから。
私はどちらかというと、こういうタイプの人間だ。
記事を読んでは泣いてしまう。
エッセイを読んでは泣いてしまう。
映画を観ては泣く。
ドラマを観ては泣く。
心が、気持ちが入り込んでしまうから。
私は目には見えない痛みを感じ取りたいと思う。
共感をして、泣いてばかりの自分だけど、
最近、そんな自分も好きだなと思う。
少なくとも、人の気持ちが分からなかったり、
寄り添えない人間でなくて良かったと思う。
これからも、こんな自分を好きでいたいと思う。

ずっと、やさしい気持ちを持ち続けていられますように……

【あなたに伝えたかったこと】
二十代の頃、私には気に入って通っている美容院が都内にあった。
そこは、外観が美容室っぽくなく、壁に木材が使われていたので、カフェのような美容院だった。
案の定、中で髪を切ってもらっていると、良く、カップルがカフェと間違えて入って来ていた。
美容院も気に入っていたのだけれど、そこへ通う理由が他にあった。
それは、気の合う美容師さんが居たから。
私と歳の近い女性のスタイリストさんのМさんが居たから。
Мさんのカット技術を私は気に入っていたし、好きだった。けれど、何より彼女自身が好きだった。
いつも自然体だったし、私が恋愛のこと、家族のこと、今思っていることなどを話しても、静かに聞いてくれる人だった。
変に同調するわけでもなく、良く話しを聞いてくれて、彼女なりの言葉を返してくれる人だった。
いつも話していて心地が良かった。
ずっと話していたいと思った。
そんな彼女から私の自宅に一枚の葉書が届いた。

●●●のお客様へ
この度、私の父が病気療養をする事になり、
娘として、側で寄り添っていたく、実家の宮崎へ帰る事になりました、というものだった。
もう切って貰えないのだろうか?とショックだった。
と同時に、彼女らしいなと思った。
お父さんの側に居て付き添いたい。
彼女らしいなと思った。
お客様への一文はМさんが担当する顧客の皆さんへ送ったものだったのだろう。
その一文は印刷だった。
けれど、その下には、彼女の直筆で、私へのメッセージが書かれていた。

つむぎさん、あなたのことは大好きな女性です。
急に帰る事になりましたが、またいつか東京で美容師としてやる夢は諦めていません。
その日まで、●●●をよろしくお願い致します。
と書かれていた。

今、随分と月日が経ってしまったけれど、
私もあなたに伝えたかったことがあります。
私もあなたの事が一人の女性として、大好きでした。あなたに髪を切ってもらえた時間、話せた時間は私の宝物でした。
今でもどこかで、お元気にされているといいなと思っています。
お互い随分と歳を重ねましたね。
もうお会いする事はないかもしれませんが、
あなたにいただいたお葉書の返信をお伝えしたかったので、ここに書かせてもらいました。
どうかお元気でいてください。
つむぎより

【人生を変えてくれた人】
私の人生には人生を変えてくれた人が三人います。

一人目は学生時代の今は亡き恩師です。
自分を出せなかった私に「つむぎさん、もっと自分を出していいのよ」と教えてくれた人です。
そのいただいた言葉をきっかけに、私は変わることが出来ました。
先生には感謝しかありません。
私の人生をいい方向へ変えてくださった方でした。
先生、ありがとうございました。

二人目は主人。私にnoteを教えてくれて、充実した実りある毎日と文章を書く楽しさ、言葉の大切さを気づかせてくれた人です。
私の書いたものを彼は、優しい世界で好きと言ってくれます。
私が書き迷っている時には、自分らしく自由に書いたらいいよといつも背中を押してくれました。
あなたに教えてもらったnoteは、今は私の生きがいになっています。ありがとうね。

三人目は子供です。
私の人生はあなたが私を選んでお母さんにしてくれた時から変わりました。
あなたが産まれて、自分より大切な命が出来た喜びを教えてもらいました。あなたを育ててきた今までは、一緒に成長させてもらえた貴重な時間だったと思っています。
あなたのお母さんになれて、私は本当に幸せです。
ありがとう。

【ごめんね】
私は19歳の時に、アルバイト先で、3つ年上のようちゃんと友達になった。
彼女はお芝居をやっていた。
クールだけど、情に厚くて、ガッハッハと豪快に笑う人だった。
家に遊びに行くと、いつも美味しいものを作ってくれた。
色々上手くいかなくて相談事をした時には、一緒に泣いてくれたよね。
私は生まれて初めてだった、親以外で一緒に泣いてくれた人が居たことが。
そんな優しいあなたが私は大好きでした。
私が結婚をして出産をして、会いたかったけれど、なかなか会えなくなってしまって。
そして、疎遠になってしまった。
はっきりしているあなたの事だから、もう友達ではないと思わせてしまったのかもしれない。
少し前に送ったラインのメッセージが既読になる事はなくて、ラインからもあなたの宛先は削除されていた。
ずっと連絡出来ずに疎遠になってしまった事を後悔しています。
一方的だけど、ごめんね。
私はようちゃん、あなたの事はずっと忘れません。
あなたとの思い出は沢山あるし、何より、私の人生になくてはならない人でした。
あなたと出会えて、幸せでした。ありがとう。
あなたが、若き日に、私にすすめてくれた映画
「ジョゼと虎と魚たち」観ました。
切ないけれど、すごくいい映画だったよ。

【距離感】
家族の距離感について、考えてみた。

夫婦の距離感
付かず離れずがいいように思う。
夫婦を長く続けていると、お互いを尊重し、感謝し、困った時は力になる。必要以上に干渉しないがいいように思う。

親子の距離感
遠目で見守る、そして困った時には頼ってもらいたいし、力になってやりたいと思う。永遠に君の味方でありたいと思う。

雑誌の中で、大塚寧々さんが人付き合いの距離感についてお話しをされていたが、
「鏡を想像してもらうのが分かりやすいと思いますが、近すぎても遠すぎても見たいものが見られないですよね。適度な距離感が相手にとっても自分にとっても心地良いと思うんです。」とのこと。

改めて、距離感について考えてみた。
適度な距離感、程よい距離感がいいように思う。
近すぎても遠すぎても、良くないんだなぁ。

【自分の歩幅で】
私は生きていく上で、大切にしたいことがあります。
それは、自分の歩幅で生きていくこと

人と比べて焦って、自分の歩幅よりずっと大きな歩幅で進んだこともありました。
けれど、それではいつか無理が来る。

人それぞれの歩幅ってあると思います。

大きな歩幅の人も居れば
小さな歩幅の人も居る
早い歩幅の人も居れば
ゆっくりな歩幅の人も居る

大切なことは比べないこと
自分の歩幅で進むことが大切なんじゃないかなと思います。

私はマイペースなので、ゆっくりと。

歳を重ねたら、余計なものが取れてきて、
自分の歩幅が分かるようになってきました。
歳を重ねるのもわるくない。

これからもゆっくりゆっくり進んでいけたらいいなと思います。

【人生一度きり】
人が生まれてから、死ぬまで、その人の人生は一度きり。
誰の人生でもなく、自分だけの人生。
つまずく事があったって、生きていたら、何度でもやり直せる。
悩んで、もがいて、苦しんで、それも人生の中の一部分。
笑って、食べて、飲んで、楽しい時間も人生の中の嬉しくて楽しいひととき。

私は、好きなことを見つけて、それが出来る事が最高に幸せ。

毎日色んなことがあって、
気持ち良く終われる日もあれば、
何だか疲れてしまって、何も考えられない日もある。
心の中が重たくて、沈んでしまった心を浮き上がらせる事が出来るのだろうか?と思う日もある。
心は浮き沈みが激しいけれど、
大丈夫
絶対に沈みっぱなしなんて事はない。
いつかは大丈夫になれる日が必ずやってくる。

一度きりの人生、自分だけの人生。
色々あって、それでいい!!

【心の握手】
いつも、心の握手は強すぎない方がいいなと思っています。
強すぎると相手の手が痛くなってしまうから。
痛くなり過ぎた手で、もう一度握手をする事は難しいから。
緩く握っていれば、一度離れてしまっても、もう一度握り返す事が出来る。

人間関係は強すぎず、弱すぎず、程々がいいように思います。
片方が強すぎても上手くはいかない。
片方が緩すぎても上手くはいかない。

相手の気持ちを考えつつ、心で丁度いい握手が出来たらいいなと思います。

【大切なこと】
親になって感じたことです。
子供は親が笑って生きていたら、子供も笑って生きられる。
笑っているって、自分も人も幸せになる気がします。
それから、子供には愛されたという実感を持たせてあげたいと思っています。
親でも、まわりの人でも、自分は誰かから愛されたという実感があれば、何があっても、最後はそこから抜け出すことが出来るはずと思っているからです。

両親から愛情いっぱいに育ててもらったように、
私も子供には生きている限り、愛情をいっぱいに育ててあげたいなと思っています。
それは親が子供にしてあげられる贈り物だと思うからです。

【謙虚】
私は(謙虚)という言葉が好きです。

高い地位であっても、奢り高ぶらずに謙虚さを忘れない振る舞いをされる方はいつも素敵だなと思います。

逆におごり高ぶった態度を人に取る方は苦手です。

私の母方の祖母は私が二十代の頃に亡くなりましたが、とても謙虚な人でした。
困っている人にも優しく出来る人でした。
そういう人でしたから、祖母の葬儀の時には、多くの方が列を成して、お焼香に来て下さいました。
その時、私は、そこに祖母の人生を見たような気がしました。
見返りなどを求めずに、人に対して施しをして、
どんな人にでも平等に優しかった人です。

私もそんな人でありたいなと思います。
謙虚さを忘れないということは
祖母を想い続けることでもあります。
忘れないということでもあります。

謙虚でいること。
私の人生の道しるべです。

【親だけど】
最近、少し肩の力が抜けた言葉がありました。
『親だからってずっと正しくいられる訳じゃないし。』
映画を観ていて、発せられた言葉です。
親だって人間です。
間違うこともあります。
完璧な親なんか居ないと思っています。
いいえ、むしろ、完璧じゃなくていいと思っています。
子育てに正解はないと思っています。
それは、一人一人の子は違うので、はじめから正解はないと思っています。
その子に合わせた育て方があるからです。
親になって随分、月日が経ちますが、ずっと勉強です。
私も一緒に成長させてもらってきました。
間違っていたこともあったと思います。
上手く出来なかったことも沢山あります。
不器用な子育てでしたが、この子の為にという気持ちだけはいつも頭にあったような気がします。
親だって人間です。
間違ったっていい。
一番大切なことは、愛情いっぱいに育ててあげることだと思います。

【大切な三人】
母方の大好きだった祖母が亡くなったのは、私が二十代の時。
生まれて初めて、人の死を経験した時だった。
こんなにも悲しいものなのかと思った。
祖母が亡くなったと連絡があって、父の車で親子三人、母の実家へと向かった。
母の実家に着いて、玄関を入って部屋に入る手前で母はショックのあまり倒れそうになった。そんな母を私は抱き抱えた。
和室に寝かされていて、白い布を顔に掛けられた祖母の頬に手を触れた時のあの冷たさはきっと一生忘れないのだろうと思った。
母はその後、一年間おかしかった。
無気力であまり笑わなかった。
数年後、母方の祖父が救急車で運ばれて病院にいると伯父から連絡があり、病院へ駆けつけた。
祖父は酸素マスクを付けて寝かされていた。
娘である母が病室へ入ると、身を乗り出し頭を上げ、何か伝えようとしていた。
けれど、何を伝えたかったのか聞き取ることは出来なかった。
その夜だった。
長男の伯父一人が付き添いで病院へ残り、祖父の最期を見送った。
その伯父が癌で長くないかもしれないと連絡が入った。まだ七十代前半だった。
色んな病気に罹り、その度に治療を頑張ってきた人だった。私はその時、子供がお腹に居て、身重の体だった。そんな体だったからだろうか、お見舞いへ行くと「早く帰れ」と急かされた。
けどね、伯父さん、あなたと一緒に居られる時間があと少ししかないの。だから、帰りたくないよ。
もっともっと一緒に居たい。
子供好きな伯父に産まれてくる子をどうしても会わせたいのに。それは、叶うかなぁ。
その年の夏、伯父は静かに旅立った。
そして、その年の冬、子供が産まれた。
私の願いは叶わなかった。
伯父に子供を会わせられないまま、伯父は逝ってしまった。
私は母方の祖父母、伯父が大好きだった。
三人共、本当に大好きな人だった。
小さい頃から、すごく可愛がってもらって、
私の中の一部は三人に可愛がってもらった愛情からも出来ていたと思う。
だから、私は、今まで何かある度に一人でお墓へお墓参りに行った。
そこで一人泣いてきた。
そして、お墓をあとにする時、いつもまた来るねと行って帰っていた。
最近、お墓参りへ行けていないなと思う。
また、三人に会いに行こうと思う。

【反面教師】
人にひどいことをされても、
されたことを人には絶対にやってはいけない。
これは反面教師です。

私が心の中に留めておかなければといつも、
思っている事です。

やられたから、やり返すは一番嫌だなと思います。

やられたら、やり返すは、必ず自分にも返ってきます。
いつもそう思っています。
だから、私はやりたくありません。

それから、これは、反面教師の反対とも言いましょうか。

いつものスーパーへ買い物へ行き、その日、沢山買い物をした私は長財布をいつものバッグへ入れたつもりでしました。が、荷物が多かったこともあり、入れたつもりの財布がバッグへは入らずに外に落ちていた事に気が付かずに家に帰ってしまったようでした。かなりの時間が経ってから、財布が無いことに気づき、血の気が引きました。
それはお金も銀行のキャッシュカードも免許証も保険証も全て入ってしまっていたからです。
急いで、いつものスーパーへ電話をかけました。
すると、私の長財布はサービスカウンターに届けられていました。
その後、取りに行き中身を確認すると、入っていた時のまま、届けられていました。
その時思いました。
拾ってくれた方にお礼もお返しも出来ないけれど、
他の人へこの気持ちをお返ししようと。
そして、年末間際、銀行へお金を下ろしに行くと、前の男性が銀行のキャッシュカードを取り忘れ、帰ってしまったのです。
時間外だった為、銀行の窓口は閉まっていました。
その為、私は急いで備え付けの電話へ掛け、銀行の方へお忘れものがある事を伝えました。
すると、午後三時を少し過ぎたあたりでしたので、すぐに銀行の方が出てきて下さって、他の人の手に渡る事なくお渡しが出来ました。
そして偶然にも同日に、駅からの帰り道、前を歩く若者がジッパー付きの透明な入れ物に通帳とお金、キャッシュカード一式が入った物を道へボトりと落としました。
私はびっくりして、前を歩いて行ってしまいそうなその若者に声を掛け、渡しました。
その時思いました。
スーパーでお財布を拾っていただいたお礼が少し出来たかな?と。

反面教師はいつも私の心の中にあります。
悪い反面教師はしない。
良い反面教師は大いにやっていこうと思ったのでした。

【全部認めてあげる】
昔から自己肯定感はあまり高い方ではありませんでした。
器用にこなせないし、色々出来ないし、運動神経もゼロ。
でも、歳を重ねるうちに、そんな自分も全部引っくるめて自分だなって思うようになりました。
できない自分も
弱い自分も全部自分
だから、全部の自分を認めてあげようって思いました。
そしたら、気が楽になったというか、肩の力が抜けた気がしました。
私は、一人っ子なので、あまり、人と比べることはしませんでしたが、人と比べるのも、もうやめにしようって思いました。
比べても、その人みたいに出来る訳でもないし、
比べるだけ損だなって思いました。
それよりも、出来る部分に目を向けた方がいいのかな?と思えてきました。
そうしたら、いつしか人と自分を全く比べなくなりました。
人生はポジティブに考えた方が得をするのかもしれません。
無い物ねだりをついしてしまいがちですが、無いものをねだるより、あるものを大事にした方が幸せになれるのかなって思いました。

【強者と弱者】
学校でも社会でも
強い人間と弱い人間がいます。
学校でも社会でも何があっても動じずに
普通に登校出来たり、通勤出来たりする人はいいんです。
でも、中には気持ちが繊細で
様々な事に気持ちがついていかずに、心のバランスを崩して、行きたいのに行けなくなってしまう人もいると思います。
その時に、強者と弱者の間に優しい世界が生まれたらいいなと思うのです。
たとえば、学校で最後まで授業が受けられずに早退をする生徒さんが居たとして、
そこで、「お前、ずるして帰るんだろう」と言うのか、
何も詮索せずに、「またな」と言葉を掛けるのか。
社会で言えば、
「また、早退ですか」と嫌味を言うのか、
多くを詮索するのではなく「気を付けて」と見送るのか。
私は後者の詮索せずに、静かに寄り添う方を選びたいなと思います。
弱い人は負けている訳でもなんでもありません。
心が繊細だから。
強者が考えられない事まで考えられるし、気がつける。
だから、疲れてしまうんです。
私はそれはとても尊いことだと思っています。
そういう人は弱者の気持ちが分かる人達だからです。
私はそちら側の人で有りたいし、強くなくていいと思っています。
社会がもっと、弱者にとって優しい世界になったらいいなと思っています。

【大人の修学旅行】
今日、起きてきた主人が
「おはよう、あのさ、今月末、二泊三日でメンズ七人で伊勢神宮に行ってくるね」との事。
「いつものメンバー?」
「そう、いつものメンバー」
主人は伊勢神宮が大好きな人。
ちなみに私が好きなのは明治神宮。
主人は数回自身でも出向き、家族旅行でも一度行っている。
「多分さ、伊勢神宮行けるのって、今回が人生最後になるんじゃないかなって思うんだ」
別に主人に病気がある訳ではありません。
あまり歳を取ると行けない場所なのかな?と思う事と、このメンバーで行けるのがという意味でもあるのだと思う。
「まぁ、大人の修学旅行的なね、伊勢神宮近くの写真館で七人で記念撮影もしてもらって来ようとも思ってるんだ」
「わぁ〜、いいね。素敵だね!写真館かぁ」
私が返す。
いつものメンバーというのは、昔働いていた会社の仲の良いメンバーの事で、皆さん、私達の結婚式へも出席して下さったメンバーだ。
新潟でお米農家をやっているお友達の田んぼでは、皆さん泥だらけになりながら、田植えのお手伝いもしたメンバーだ。
時にバーベキューに出掛けたり、飲みに集まったり。
私はこのメンバーの話しを聞く時、目が細くなってニタニタしてしまう。
とても素敵な人達だからだ!
今回の大人の修学旅行もすごくいいと思った。
今は皆さん別々の会社で働いている。
けれど、当時のまま、ずっと仲良しで、変わらない仲間なのだ。
そんな関係が私は何だかとっても羨ましい。
何だかとってもいいなと思う。
いつまでも写真館で撮る写真のように色褪せない関係で居てほしいなと思う。

【心の絆創膏】
私はおっちょこちょいなので、手に絆創膏を貼るような怪我を良くする。
数日前も指を怪我して止血をしたあと、大量の絆創膏のお世話になった。
ふと思った。
見えない傷に貼れる絆創膏はあるのだろうか?
あった、言葉だ。
私は言葉の力をずっと信じている。
傷ついた心に貼ってあげられるものがあるとするならば、それは言葉の贈り物だと思っている。
人は言葉によって救われるということを、私はずっと信じている。
私は言葉によって、人を救い出したい。
だから、書いている。
私の書いた言葉で、誰かの心が救えたらいいなとずっと思っている。だから、私は書く。

私は心が弱ってしまって、なかなか前に進み出せない人がいたら、言ってあげたいと思う。
ゆっくりでいいと思います。
出来ないことばかり数えないで。
出来ていることもある。
食べたいものもある。
読みたい本もある。
観てみたい映画もある。
そんなやってみたいことがあるなんて素敵なこと。
すぐに全部出来なくてもいいと思う。
ゆっくりでいい。
自分のペースでいい。
結果的にやりたいことが一つでも出来たら、自分を褒めてあげてほしい。
一日一日一生懸命生きている自分を褒めてあげてほしい。
だから、私はいつも言葉で寄り添っていきたいと思っている。

【着飾らない】
私は自分を精一杯良く見せたくて、着飾る人は好きではありません。
着飾らない方がよっぽど素敵だなと思います。

父方の祖母はどちらかというと、
体裁を気にし、人の上辺だけを見る人でした。
それが私は嫌でした。

母方の祖母は
裕福であったのに、着飾らずにそんなに良い服は着ない人でした。
自分にはお金を掛けない人でした。
けれど、人には施しをする人でした。
私は祖母に、色々な大切さを教えてもらった気がします。
人を大事にすること。
謙虚でいること。
上からものを見ないこと。
どんな人にも平等に接すること。

大好きな人でした。
とっても素敵な人でした。
優しいおばあちゃんでした。
病気になっても最後まで頑張った人でした。
私の憧れの人です。

私も着飾る人生より着飾らない人生の方が好きです。そんな風に生きたいです。

おばあちゃんが見せてくれた風景を
私も子供に見せられたらいいなと思います。

【一番大切にしたいこと】
もうすぐ、3.11ですね。
先日、テレビを見ていたら、
「あの日、行ってきます。」
と、いつものように出て行った家族がもうその日に亡くなってしまった、とお話しをされていました。
だから、
「どんな時も、やりたいと思ったことはやる
今を大切にしたいんです」とお話しをされていました。
それが、とても印象的で、私の中に残りました。

昨日、主人の実家へ行き、お義母さんとお話しをしていた所、親戚の息子さんが、仕事中の事故で、首から下が動かなくなってしまったお話しを聞きました。つい、数ヶ月前に起きた事故だったそうです。
年齢は主人と同い年、50歳手前の方です。
奥さまとお子さんがいらっしゃるご家庭。
ただ、お話しを聞いて悲しいと思ったのは、
奥さまのその後の行動でした。
かけていた保険を自分の物にし、ご主人のご両親にも会わせないばかりか、寝たきりのその人にご両親の良くない事を吹き込む。
人はそんな風になれるのでしょうか?
お義母さんのお話しでは、そういう人だから、自分では面倒は見ないで、施設などへ入れてしまうんじゃないかしら?とのこと。
長年連れ添って来た人なのに、お金のことばかりに気持ちがいってしまう。
もしもそんな現実があったのなら、
そんなの悲し過ぎます。
家族の為に一生懸命働いてきて、事故に遭って、体が不自由になってしまった。
私だったら、少しでも良くなるように手伝っていきたいと思います。
一緒に頑張っていきたいと思います。
お金よりも大事なことが目の前にある。
そんな風に思いたいです。

世の中には色々な人がいます。
目の前の状況によって、人が変わってしまう場合があります。
でも、私は忘れたくありません。
一番大切にしたいことは何なのか?ということを。

【涙】
私は、よく、夫に
「感受性が豊かなんだね。」と言われます。
それは、私がしょっちゅう、涙を流しているからです。
映画を観ながら泣いている。
記事を読みながら、泣いている。
テレビを見ながら泣いている。
自分で物語を書いて、それを読み返して泣いている。
嬉しいときにも泣いている。
あれ?
涙って、悲しいときだけじゃないんですよね。
嬉しいときにも涙は出る。 
悲しいときだけじゃない、幸せなときにも涙は出るんです。
私が一番嬉しかった涙は、私に悲しいことがあって、友達が一緒に泣いてくれた涙です。
あのときの涙は一生忘れられない涙です。

今日は、3月11日です。
あの日、どれだけの事が起こっていたのだろうかと考えると涙が出ます。
14時46分になったら、黙祷をしたいと思っています。

【尊敬と感謝と】
昔の記事にも書いた事がありましたが、
うちの庭に首輪に鈴を3つ付けた猫ちゃんが居座るようになった時、猫ちゃんにお詳しいご近所さんにご相談をしました。
それ以降、LINEなどでもやり取りをさせていただいたり、ご近所の皆さんでお作りになる、お味噌作りにも参加をさせていただいたりしています。

母よりお若いその方は、本当にお茶目なおばさまで、六十代の方には珍しいくらいに、かわいらしいLINEスタンプをお使いになり、いつも楽しいお返事をくださいます。

私の母よりお若い方なのですが、お母さんのような存在であり、人生の先輩であり、いつも私に明るく前向きな言葉を掛けてくださる方です。
私はその方のことが大好きです。

そして、私の書くnoteの読者さんであり、感想をくださる方です。
私に夢があり、今、それに向けて動いている事をお話しした時にも、温かい言葉をくださいました。

「記事を読み、つむぎさんとつむぎさんを取り巻く人達の事を知るにつけ、あぁ、この方と出会えて良かったなぁ、もっと知りたいなぁ、力になりたいなぁ、と心から思います。
つむぎさんの夢が一つ一つ叶う事を心から願っています。これからつむぎさんの書いたものが、色々な人の心に届く事を祈っています」
と、言葉をくださいました。

とても有り難く、涙が溢れました。

私もお知り合いになれて、本当に良かったと思っています。
猫ちゃんの繋いでくれた御縁に感謝です。
こんなに素敵な人生の先輩が身近に居てくださって、私は幸せ者です。
尊敬と感謝を込めて・・・  つむぎ

【悲しい刃物】
言葉は人を生かすことも殺すこともできる。

言葉の重みを感じていたい。

相手に向けた

「死ね」

机に書かれた

「死ね」

どれだけの重みがその言葉にはあるか、
おぼえておかなければいけないと思う。

その言葉は悲しい刃物になって、
相手を殺してしまうことがある。

だから、忘れたらいけないと思う。
言葉には見えない力があるということ。
発し方次第で、
その人の心を殺してしまうということ。

世の中から、悲しい刃物が減ってほしいと願っている。

【唯一無二の存在】
私にとって唯一無二の存在は夫である。
夫とは、八年付き合って結婚をした。
とても短気な所はあったけど、それを上回る位、優しい部分を持った人だった。
そこに惹かれた。
それから、私をとても大切にしてくれる人だった。
子供が出来て、家族が増えると、家族もみんな大切にしてくれた。
それは、夫の両親や私の両親に対してもだ。
それから、私達は似ている所もある。
それは、日々感謝を忘れないこと。
ご飯が食べられて幸せだね。
あったかいお布団で寝られて幸せだね。
家族全員元気で幸せだね。
変わらない日常を送ることが出来て幸せだね。

彼のそんな風に幸せを感じられる所もいいなと思う。

先日、悩んでいた事があった。
悩んだ末に、ようやく夫に話しをした。
すると、
「一人でしんどかったね。もっと早く話してくれたら良かったのに」と言ってもらった。
嬉しかった。
そんな事を言ってもらえて。

この時、思った。
結婚したのがこの人で良かった。
本当に良かった。
ちゃんと、話しを聞いてくれて、私の気持ちを考えてくれて、そして、言葉をくれる。

いつしか、夫は、私にとって、唯一無二の存在になっていた。

【東京タワー】
映画「東京タワー」の初めの方のシーンに、
オカンとボクが病室から東京タワーを眺めるシーンがある。
26年前、二十代前半だった私も病室から、
東京タワーを見ていた。
股関節の手術をして一ヶ月寝たきりのベッドの上で、私は鏡に反射させた東京タワーを見ていた。
何故、鏡に反射させて見たかというと、体を起こしてはいけなかったので、枕の上に頭を乗せ、体を起こさぬまま、反射させて見ていたからだ。
あの頃をとても懐かしく思う。
それと同時に私はあの頃、素直じゃなかったなと思う。
両親に対して。
二十代の前半で股関節に痛みが出て、母とデパートへ買い物に出掛けても、座り込んでしまい、長く歩けなくなってしまった。
夜、寝る時には痛みで、股関節を保冷剤で冷やしながら寝たりした。
検査をすると元々の持病だったようで、その後に手術をしていただく事になる。
父は都内での仕事を終えると、私の入院していた港区の病院まで、良く洗濯物を取りに来てくれた。
それなのに、私はとても素っ気なかった。
疲れている仕事のあと、通うのは、大変だったと思う。
母は自宅から電車を乗り継いで、毎日のように通って来てくれた。
父にもだけれど、これには感謝しても感謝してもしきれない。本当に大変だったと思う。
若かった私は、母にも素っ気ない態度だった。
それどころか、母が悪い訳でもないのに、足の事で母に言わなくて言い事まで言ってしまった。
今考えれば、可哀想だったし、申し訳なかったと思う。
手術も成功して、痛みも取れて、杖も使わなくていい生活になれたのは、言うまでもなく、父と母のお陰だ。
だから、東京タワーを見る度に、何だか私は申し訳なくなってしまうのだ。
昔の幼かった自分を反省すべく、父と母の偉大さを感じるのだ。

【お互いを思いやる】
今日、ふと、25年前にお会いしたご家族のことをここに書きたいと思いました。

私は26年前、20代の前半に股関節の病気で、手術を受けました。
術名は骨切り回転術という手術でした。
この手術は、自分の骨を切って回転する手術です。
その際、体内の骨をボルトで固定しました。
ですが、このボルトは一生、体内に置いておく事は出来ない為、1年後にまた、手術をして取り除くことになっていました。

それから、1年後。
私はまた入院をして手術をしました。
1年前の手術は、丸2ヶ月間の入院で、
丸1ヶ月間は動いてはいけない為、寝たきりでした。
そんな状況でしたので、両親が一人部屋は寂しいだろうからと、二人部屋に入院をさせてくれました。
1年後の手術は、ボルトを抜くだけの簡単なものだった為、入院期間も短く、私は大部屋に入院をしました。
そこで、私は素敵なご家族に出会いました。

お隣りのベッドに入院をされていたのは、30代か40代の女性で、皮膚科の患者さんでした。
手術の為に、地方から東京に来られていて、
それ以前にも、数回手術を経験されていた方でした。
顔に出来物ができるご病気でした。
目の下にできた出来物は一目で分かる程のものでした。
手術で取り除いても取り除いても、またできてしまう。そんなご病気をお持ちでした。
麻酔が体に合わずに、手術で麻酔をかける度に、気持ちが悪くなって戻してしまう体質もお持ちでした。

神は乗り越えられない試練は与えない

といいますが、
20歳そこそこの小娘である私でさえも、その時、思ったのです。
この方にこんな試練を与えないでいただきたかったと。どうしてこのような試練を与えてしまったのかと。
治らない病気がどんなものなのかということを考えさせられました。

その方は控えめで、いつも優しくて、いつも人に気を使って、そして病気の影に隠れるように生きておられていた。
それが、とても切なかった。
ご両親はもうご高齢でした。
弟さんがお一人いて、その奥さまも介護のお仕事をされている優しい方で、いつもお義姉さんのことを心配されていました。
弟さんはどうしてもお姉さんのご病気を治してあげたかったのだと思います。
手術が終わると、
「姉さん、次は〜医大に行こう」と言います。
終わったばかりなのにです。
お姉さんの顔にできてしまう、出来物を何とかして治してあげたかったのだと思います。
弟さんは、いつも一生懸命で、全力で動いていらっしゃいました。全てはお姉さんの為に。

大部屋というのは、全て聞こえてきてしまうんです。見えなくていい部分まで見えてしまう。
拒食症かと思っていたその女性は、潰瘍性大腸炎の難病をお持ちでした。
早く仕事復帰がしたいのに、出来なくて、病室で泣いていらっしゃいました。
そんな場面にも出くわしてしまうんです。
母の入院手術の際、お若いお嬢さんが入院されていました。体のあちこちに転移をされている癌でした。命に限りがあるのだということも感じ取れてしまうのです。

弟さんはお仕事をお持ちでしたが、その合間にお姉さんの為に奮闘されていました。
皮膚科の名医がいる病院をいつも探していらっしゃいました。お姉さんのご病気を治してあげたい一心で。
弟さんの奥さまもそれに寄り添って、いつも応援されていました。

そんな時、お姉さんは弟さんに優しく言います。
「大変だから、私ならもう大丈夫だから」と。

すると、弟さんは言います。
「姉さん、〜医大の◯◯先生のところへ行ってみよう」と。

病気との戦いは終わりません。
お姉さんは弟さんを思いやり、弟さんはお姉さん
を思いやる。

カーテン越しに、そんな会話が聞こえる度に、涙が溢れ落ちそうになりました。
神様はこのご家族に試練を与え過ぎているのではないかと。

25年経って、急に思い出したのです。
あの時、相手の事を一番に考え、思いやれるご家族がいたことを。
ずっとずっと、忘れられないなと思いました。

【きっと、大丈夫】
昔、子供に
「お母さんになんか、分かりっこない!!」
と、言われた事があります。

親だからって、子供の気持ちを100%理解してあげる事はできないのかもしれません。

けどね、優、
あなたの気持ちは100%全部は理解出来ないかもしれないけど、
お母さんは、いつも、あなたの気持ちに寄り添いたいとは思ってるんだ。

お父さんとね、話しをしたら、二人とも、おんなじ事、考えてたよ。

「優なら、きっと何があっても大丈夫」
「優なりの人生を応援してあげよう」
「安心して、見守ってあげよう」

ってね。
お父さんもお母さんもいつも味方だよ。
あなただったら、何があっても大丈夫だって信じてるから。

【心を無くさない】
忙しいとは、心を亡くすと書くと聞くことがあります。
こころをなくすとは、さみしくて悲しいものだなと思います。
忙しいだけでなく、色々な日々の出来事により、
こころをなくしてしまうこともあります。
こころをなくしてしまうと、大切なことに気づくことが出来ません。
見落としがちになります。
感謝することも忘れてしまいます。
豊かな考えが出来なくなり、狭い視野でしかものを見ることができない状態になってしまいます。
とても悲しいことだなと思います。
なるべく、こころはなくしたくありません。
けれど、生きていると色々なことがあって、
こころをなくしてしまう場面もあります。
でも、私は、思います。
一時的になくしてしまっても、
また、大切なことを感じられるこころを取り戻したいと。
なくしっぱなしにならないように。

【存在価値】
私は自己肯定感も低く、あまり自分自身に存在価値を見つけることが出来ませんでした。
でも、今なら、こんな私でも、多少なりとも存在価値があるのではと思えるようになりました。
それは、noteに出会ったからです。
言葉を発信していく中で、
コメントで、
優しい文章に癒やされました。 
つむぎさんの言葉から、気づきがありました。
という言葉をいただく度に、
こんな私にも、存在価値があるのかもしれないと思えるようになったんです。
人は人に必要とされることにより、存在価値を実感することが出来るのかもしれません。

それから、親になって思ったことがあります。
それは、
生きていてくれるだけで、充分だと思えるようになったんです。
健康で生きていてくれるだけで充分。
上を見たらキリがない。
だから、私は上は見ません。
下も見ません。
見るのは、水平な今の位置です。
今は、そんな風に思っています。

【反抗期!】
私は反抗期があまりありませんでした。
両親に暴言を吐くこともなく、
ものすごく反抗することもなく、
過ぎ去った青春時代でした。
でも、それって良くないなって思います。
だって、変な年頃に遅い反抗期みたいになったりするからです。
だから、反抗しておくべきだと思います。
変な言い方ですが…
子供の時に、感情のぶつけ方をきちんと経験しておかないと、急に感情が爆発したりするからです。
だから、「反抗期、バンザイ!!」です。
何でしたら、お祝いしてあげないといけないくらいです(笑)
成長する過程にも、大切なことがあるんだなぁと思います。
経験した方がいいこと。
やっておいた方がいいこと。
全てに意味がある。
そんな経験が、内面も成長させるんだなぁって思います。
あの頃に戻れたら、ちゃんと反抗しておきます!

【人生ののりしろ】
よく、「のりしろのある人生」と言いますが、
のりしろは人の心にある余裕や、そこに遊びのあることをのりしろと言うのかな?と思います。
のりしろは、その人の人生が豊かになるだけではなく、まわりとの 潤滑油としてもいい。
のりしろのある人には安心感すら感じます。
スキのない人生より、多少、スキのある人生でありたいなと思う。
のりしろのある人生
これからの人生のテーマにしたいです。
のりしろのある人生
そんな人生にしたいなぁ。

【本当によく頑張ったね】
電話が鳴った。
主人の母からだった。
今日の朝、主人のいとこのさつきちゃんが亡くなったとの事だった。
昨年、体に癌が見つかり、自宅で闘病をしていた。

さつきちゃんは長年、医大で看護師さんをしていた。
多くの人達を先生達と共に救ってきた人だった。
そんな人がどうして、こんなにも早く逝かなければいけないのだろうか。
私よりも若かった。

四人の子供を残して、今日旅立った。
末っ子の子は来年、小学校へ入学だった。
生前、末っ子の子の七五三の準備も、来年の入学に向けて、ランドセルも準備していたとのこと。
それを聞いただけで、泣いてしまった。

子供達の成長をずっと見ていたかったに違いない。

本人は八月まではもたないかもと思っていたみたい。けれど、十月も越せた。
主人と、末っ子のようちゃんの七五三さんもきっと大丈夫。もしかしたら、年も越せるかもと話していた。

他県に暮らすさつきちゃんに会ったのは、昨年のおばあちゃんの法事の時だった。
元々、細い人だったけれど、何だか痩せているなと思っていた。
私の嫌な予感は的中してしまった。
後日、義母と電話で話した際、打ち明けられた。
実はね、さつきちゃん、癌なの。
法事の時は違和感が無く分からなかったけれど、かつらだったとのこと。
あの時、さつきちゃんはいつもと変わらずに感じが良くて、ニコニコと笑顔だった。
気づかれないようにしていたんだね。

こう書いている間も、おばさん(さつきちゃんのお母さん)のことが頭をよぎる。
娘のことを見送ったおばさんの事が心配でならない。
かねてから、話しをしていた私の母に、報告の電話をした。電話をした私も、電話口の母も泣いていた。

以前、主人の母と電話で話した時、聞かされたことがある。
さつきちゃんね、中村くん(さつきちゃんのご主人)と二人で、霊園に樹木葬の手続きに行ったみたい。桜の木の下に埋めてもらうみたいよと。
子供達には「お母さんに会いたくなったら、桜の木の下に来たら、会えるから」って話したみたいよと。

何だか現実の話しではないみたいで、私はとても悲しくなった。

今日、義母から電話をもらった時、
「さつきちゃん、ようちゃんの七五三さんは出来たんですか?」と聞いてしまった。
さつきちゃんね、痛みがあって、モルヒネを沢山使ったりしていたから、体はもうボロボロだったみたいで、それどころじゃなかったみたいと。

そんなに病気が進んでいたんだね。
最後まで子供達と一日でも長く過ごす為に治療を頑張っていたんだね。

優しい次男のれん君が、良く「お母さん、体痛いだろうからマッサージしてあげる」と言って、マッサージをしてあげていた事を義母から聞いた。
お母さんの痛みを取ってあげたかったんだね。

みんな優しい子に育ったね。
長男のしゅん君が「何でうちのお母さんなんだ」と言って、泣いていたと義母から聞いた時は、泣かずにはいられなかった。

いっつもいっつも思う。
何でいい人は早く逝ってしまうのだろう。

さつきちゃんとは、住んでいる所が遠かったから、
なかなか会うことは出来なかった。
数回しか会えなかった。
けれど、会うといつも笑顔で接してくれた。

優しくて頑張り屋で子供達思いだった、さつきちゃんのこと、いつまでも忘れないよ。

しゅん君、れん君、なお君、ようちゃんのこと、見守ってあげてください。

本当に最期までよく頑張ったね。
天国でゆっくり休んでください。

【永遠の愛情】
元旦の恒例行事は早起きをして、早朝から、浅草の浅草寺で初詣。
そのあとは、都内の主人の実家へ新年の挨拶に行っている。

「明けましておめでとうございます」

お年賀を片手に家の中へ入ると、
お義父さんとお義母さんが、にこやかに出迎えてくれた。

おせち料理とお義母さん特製のお雑煮をいただく。
私はお義母さんの作ってくれるお雑煮が大好きだ。
毎年、このお雑煮を楽しみにしている。

主人はおせち料理とお雑煮を食べ、お酒を飲むとすぐに寝てしまう。
子供は読書好きなお義母さんから本を貸りて、読書。
私がこたつでゆっくりしていると、お義母さんが小さいアルバムを持って来てくれた。
「つむぎちゃん、これね、さつきちゃんのアルバムなの、見てみて」
と、手渡してくれた。
それは、さつきちゃんが子供達へ残したアルバムだった。
そこには、かつらを被ったとても細くなったさつきちゃんが写っていた。
さつきちゃんは、体の痛みなんて感じさせないくらい、穏やかで優しい顔で子供達と一緒に写っていた。
一人一人の子に対して遺した言葉たちもそこにはあった。
心のこもった愛情に溢れたメッセージ。
あたたかで優しい言葉が遺されていた。
そして、最後には必ず、
『生まれてきてくれてありがとう』という言葉が残されていた。

どんな想いで、これを書き上げたのだろうか?
同じ母親として、とても複雑な気持ちになった。
大粒の涙がこぼれた。

さつきちゃんの遺したその言葉は
子供達がこれから先、迷った時、悩んだ時、立ち止まってしまった時、
きっと、そっと背中を押して前へ進ませてくれるのだろうなと思った。
心配いらないよ、大丈夫だよと。

私は大粒の涙が頬を伝う中、在りし日のさつきちゃんを想った。
そして、そっとアルバムを閉じた。
             さつきちゃんに捧ぐ
                   
【これからもずっと】
ふとした出来事に心を留めていたい 
ふとした言葉に込められた人の思いを想像したい
大切なことは、言葉にして文章にして伝えていきたい
見渡せば、素敵なことばかり
素敵なことに溢れている世界だ
だから私は、言葉を紡いで伝えていこうと思う
これからもずっと。       
                 つむぎ









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