ASDかもしれなひとからみた世界(2)

「わたしは、フツウの人ではないかもしれない」
そう思うことが出来るようになったことで、少し、いや随分楽になった。
しかしそれが解る前は、とにかく納得できなくて腹の立つことばかりだった。
とにかく、話が通じない。
といっても、国語力がない、というわけではない。学校の国語の成績は、いつも一番だったし、作文で賞をとったことも何度もあった。とにかく口頭でしゃべることが苦手。
「わたしは○○だと思います」と意見を言って、受け入れられたことが無い。
専門分野のことならばあるけれど、そうではなくて、
一般常識的な、または政治的なこと、組織で「こうしたほうがよい」といったこと、そういったことが、受け入れられない。
そして、会議の結果に納得がいかない。
大したことのない年下の子の意見が採用されても、従いたくない。
日頃、そいうったことで常に我慢ばかりしている、というイメージなのです。
だからたまに我慢できなくて怒っちゃうと、ビックリされてしまう。
その結果、他人から自然と嫌われていたのかもしれない。
それは必然だったのかもしれない。
他人に腹を立てている人が、他人から好かれるわけがないのだから。
「キレやすい」のではなくて、「いつもいつも我慢している」
つまり、本当は、ASDというのは、我慢強いひとのことかもしれない。

歳を経るにつれて、世の中の正解がわからなくなっている。
広大な海を旅するのに、羅針盤も何も持たずに出ているようなもの。
ASDかもしれないひとは、こういった人生の旅をしている、のかもしれない。
占いにはまる人のなかに、ASDかもしれない人は、どのくらいの割合でいるのか?その情報は今持っていないが、割合としては高いのかもしれない、と思う。
定型発達の人は、人生という名の航海を、「怖い」と思ったことはないのだろうか?
定型発達の人でも、全くそんなことはない、とは思わないが、
それでも、ASDかもしれないひとが「恐怖だ」と思うのとは、違っているのかもしれない。

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