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1人(ひとり)2人(ふたり)3人(さんにん) ???

アメリカの宣教師、ミラーの日本語がいい感じになってきている。
すごい。
アプリでの勉強と、日本のアニメを見ているらしい。
やはり、好きは強いと感じる。

彼は、下記が言える。

どんなピザが好きですか?
食べに行きましょう。
彼女はおもしろいです。(僕に会うとサウディカでしゅ!と挨拶をくれるフィリピン出身の女の子)
日本語は、とても難しいです。
アメリカに行った事はありますか?
ここに大勢の人があります。(います。だよと訂正した)


「あります」は物で、「います」は人だよ。と説明したのですが合ってますか?
日本語は例外がありすぎて説明していて自分でもこんがらがる。

「はちにん」だったり、「はっぴき」だったり、数の数え方からしてムズすぎる。
ひとり、ふたり、さんにん。この読み方のルールというか根拠が今すぐに分からない。

いちにん、ににん、さんにん、で良くね????????
と何人の日本語勉強者の外国人が思った事だろうか。
僕もその立場になったら、多分発狂してる。
今ですら説明していて、どして?と思う事がある。

多分ちゃんと調べれば、美しい理由(全ての言語は美しいと誰かが言っていたのを僕は信じている)があるのだと思われるけれど。

個人的に、「一人」と「二人」の呼び方だけが特別な所に、何だかロマンチックというか、詩というか、センチメンタルというか、哀愁というか、そういうものを感じている。あまりちゃんと考えられていないけれど。
いつか気が向いた時に、この理由を調べようと思う。


そう、ミラーは上記のように、どんどん上達してくる。

そして、これは完全に僕の感覚の話で、偏見で、独断なのだけれど、母国語で、
日本語で会話できた時、その人の声をはじめて認識できた気がする。

英語で会話している時、やっぱり英語だからか何故なのか、その人の声が音楽か何かに聞こえる気がする。声というか音として認識している気がする。

その人が日本語で話してくれた時、それがどんな言葉であっても
「コンニチハ」でも、「ハジメマシテ」でも、「ミルダケ」でも、その音を声として聞き取る事ができる。

だから、これは変な感覚だけど、ずっと英語(僕はカタコト)で会話している時に、相手が知っている日本語を話してくれたりすると、この人こんな声なんだ。と思う事がある。

いつか英語を音ではなく声として認識して、最初の第一声から、この人こんな声なんだ。となれるように頑張りたいと思います。


あと、宣教師のミラーを見ていて思ったけど、もうそれで十分、日本語を知っている。ミラーは十分に日本語を知っている。と感じた。会話できている。
理解できる。

そして、それで言うと、僕の方が、ミラーが知る日本語の数よりも
僕が知る英単語の数の方が多いかと思われる。勉強の歴的に。

という事は、もう僕は十分に英語を知っているのでは?
本当に話せないのか?
理想が高くないか?
いきなりそこにいけるワケなくないか?

なりふり構わず、英単語を放出していくしかない。
下手クソで構わない。

外国人が話す、日本語が愛おしいように、
僕が話す英語も可愛いのかもしれないし。

それがストロングポイントになっている可能性もある。

シャー、キバってこ!
これからEnglishクラスに行ってきます。

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