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神々もたそがれ…至高の道After

 昭和4年に測量された地図には、三ツ沢へ至るつづら折りの幹線道路は記されていない。そうして三ツ沢は農村然とした環境であることが判る。
 次に昭和38年に測量された地図を見る(前掲)。三ツ沢へ至る幹線道路はある。三ツ沢公園は整備されて周辺は市街化が著しい。
 三十余年の年月は、三ツ沢を色々と変えてしまった。
 その間、戦災があり、復興事業があった。
 つづら折りの道は何時出来たのか? ここで国土地理院(旧陸軍省参謀本部測地部)の地図を見る。まず明治40年の地図には、つづら折りではないが、浅間下から豊顕寺へ向かう山道らしい道が記載される。道路は実線と破線で記されるから一車線の道であるらしい。幅員にして2mくらいか。ただこの道はつづら折りの道よりやや西側になりつづら折りではない。昭和6年の修正図では、三ツ沢公園前交差点付近の道が立派になり、浅間下へ降りる途中で二股に分かれ、かた一方は昔からある道だが、もう一方はつづら折りとなっていて今の幹線道路を踏襲する模様。この道は昭和4年から6年の間に敷設されたのだろうか。昭和20年修正図では、このつづら折りの道は太くなったようで、横浜翠嵐高校のある前あたりに大きな建物があることがわかる。現在のように片側2車線半の道に拡がったのはこのあとだろう。そして宮ヶ谷を経る予定の道はなく、今日に至る。
 昭和4年から20年の間に現在の幹線道路は逐次整備されるようになったようだ。このきっかけは何か。
 昭和20年修正図には横浜翠嵐高校前以外にも大きな建物がいくつか散見される。そして今慰霊塔のある付近にも大きな建物がある。この建物は何か?
 実はこの建物、県が戦没者合祀のために用意した護国神社の建物だった。しかし落成直前に火災で消失し、敗戦後は神社として再建されることなく戦没者慰霊塔が建てられた。
 どうやらつづら折りの道が整備されることになったのは、護国神社への参道だったようである。そうして戦後は、東京オリンピックの予備会場として三ツ沢公園が整備された。道が拡幅されたのはこれに先立ってのことだろう。そうして宮ヶ谷回りの道は整備されなくなった。
 また護国神社の整備に伴ってその周囲にあった社は合祀されることになったようである。大正11年測図の地図には慰霊塔の裏側の豊顕寺境内地に神社の記号があり、同様に横浜翠嵐高校(旧横浜第二中学校)の北側にも神社の記号がある。後者は日枝神社といったが、その境内地の一部は保存されて、狛犬台が放置されたままになっている。
 不成立に終わった合祀で、神々は三ツ沢の地を彷徨しているのだろうか?

横浜市戦没者慰霊塔
首都高三ツ沢線出口
坂道を下って降りる…あまり良い構図とは思えない

追記:『それ町』なんて知りません、信じてよ…

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