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横浜翠嵐高校縁起(乾編)

 交差点を右に見れば、首都高三ツ沢線の出口と、沢渡へ向かう対面交通路である。写真左手の白い建物の後ろが翠嵐の林である。首都高は良しとして対面交通路は市営バス34系統沢渡循環が走り、この先のバス停で事故が起きたのは記憶に新しい。
 そうしてバス停の隣りは、神奈川県立横浜翠嵐高等学校がある。
 古地図には第二中学校とある。
 創立時は県立旧制横浜第二中学校と言った。
 では第一中学校はどこにあるのか? 東海道を挟んで三ツ沢の丘と反対側、藤棚の丘の上にあった。戦後移転して希望が丘高校となったので現在は県立アパートとなっている。東側隅に神奈川県教育会館が、西側隅に同校の同窓会である桜蔭会(なんか紛らわしいですね)が建つのがその名残。
 第一中学校も一時横浜第一中学校と言ったが、それ以前は神奈川県立第一中学校と呼ばれ正真正銘の一中で、神中というのが正式な略称らしく、校名が変わった今日でも神中という人がおる。因みに
  第一…希望が丘高校(1897年創立)京浜地区
  第二…小田原高校(1900年創立) 足柄地区
  第三…厚 木高校(1902年創立) 県央地区
  第四…横須賀高校(1907年創立) 三浦地区
 通しのナンバーを振られた県立中学はここまでで、第五がない。そして次に開設されたのが横浜第二中学校、今の横浜翠嵐高等学校である。県内に政令指定都市は3つあり横浜、川崎、相模原がそれであるが1930年代まで整備されなかった相模原になかったのは不思議ではないが、東京に近く臨海埋立てで工業地としての躍進華々しき川崎に中学校が出来たのは1926年で横浜に三つ目の中学校が出来たあとのことである。また東海道の宿場町として栄えた藤沢・平塚にも中学校はない。そして平塚にまず開校したのは高等女学校で1920年(県立平塚江南高等学校)、藤沢にその翌年に開校したのは湘南中学校(県立湘南高等学校)という名前でナンバーは振られなかった。そうなると五番目の中学校をどこにするか、議論があったのだろう。
 横浜第二・横浜第三中学校(県立横浜緑が丘高等学校)は県立第一中学校の分校の建前だったのではなかったか…
 中学校を欲した川崎・藤沢などの比較的大きな町に遠慮して。

高く飛ぶよせーので

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