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蛇松線のお話

 鉄道ピクトリアルの7月号が創刊してからちょうど1,000号で、その特集は「鉄道150年と東海道線」である。特大号ということもあって読み応えがあるが、この頃どちらかというと衒学的な感じが…
 東海道線の線路を敷くために現場に資材を運搬するわけだが、静岡県内を敷設するにあたりその基地として沼津の南側町外れ狩野川河岸が選ばれた。
 今昔マップで東海道線開業直後の沼津の地図を見ると、町は狩野川を寄る辺としている。沼津城が狩野川に当てて立地しているから当然だが、伊豆国衙を基に発展し大社のある三島町と勢力を二分していて大きな町になり切れなかったし、また狩野川が形成する沖積平野が狭いこともあったのだろう。もちろん両町は東海道を基軸に発展していくから今日では連担して一つの中規模都市となっている。
 当時の地図には間延びしたS字状に蛇行する狩野川北西側に沼津町市街地に面した河岸と、その南につづいて特にこれと言ったもののない野河岸と狩野川河口南下に我入道という漁師町の河岸が見られる。当時沼津町は狩野川西側で東側は柳原村(所属は両町とも駿東郡)で我入道は沼津町ではなかった。その我入道北側におそらくは鉄道敷設に伴って河岸が開かれたのか、ここに建設資材を上げるとともに沼津駅予定地まで引込線を敷設してそれを輸送した。この線路が後に沼津港線となった。この河岸に蛇松と呼ばれる松が植わっていたので、俗に蛇松線と呼ばれた。
 ちなみに建設資材は殆ど英国からの輸入だが、狩野川には外航船を着ける場所が無い。そのため静浦村の江の浦湾に船を入れ、ここから艀に積み替えて河岸まで運んだ。
 船から艀、艀から鉄道へと2段階の通運となった。
 狩野川河口での鉄道資材輸送は東海道線完成によって終わった。当時はまだ鉄道貨物に相応しい荷量を確保できなかったのか、それとも官営鉄道の運用方針にそぐわなかったのかここで蛇松線は用済みとなるが、地元の回漕業社によって線路を借り受けて引込線として運用するようになった。その後、戦時中であろうかまた再び国鉄として運営されるようになる。
 沼津港も戦前に我入道に相対する位置に内港として整備されたので、新たに荷役ホームを持つ貨物線が蛇松線の中途で分岐する形で延伸された。しかし自動車輸送が盛んになると東京圏であれば直接トラックで運送した方が早くまた途中旧国道1号線と踏切で交差していたために起こる交通事故が問題となり昭和51年に廃止された。
 この線路の事を知ったのは早々に亡くなった伯母からである。小さな港の貨物線に過ぎない蛇松線の話をなぜ私にしたのかわからない。蛇松線は清水港線と違い旅客輸送は行われなかったが、最終日に限りお別れ運転として旅客列車を運転したから、もしかしたらその時乗ったのかもしれない。
 大変残念なことだが沼津港線の現役時代の写真の殆どがこのお別れ運転のもので本来の用途であった貨物列車がどのようなものか判る写真が全く残されていない。残された写真には多くの側線が見られる所から沼津駅構内で撮られたものだろう。南口再開発イ~ラdeの北側にかって沼津駅の貨物取扱場所があってそこから沼津港線が港に向かって延びていた。線路は線路の借り受け主であった沼津通運倉庫の倉庫群の間を抜けていたが、施設の痕跡はここと沼津魚市場とセブンイレブン沼津港店付近に線路が残されている位。
 沼津港線を取り上げたブログ・ホームページは数あるが、いずれも廃線跡を写したもので残念だ…ここもそのうちの一つに違いないが。
 それにしても二つ名を持つ貨物線は珍しい。

貨物線は内港へ向かって伸びる
この道路を越えると沼津魚市場
魚市場岸壁は大瀬への観光船の発着場
貨物ホームの現状
沼津通運倉庫と沼津港線との関係を記す碑
海産物あります
…あります

追記:虻松幹線というのは知らなかった…(220608)

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