見出し画像

横浜翠嵐高校縁起(坤編)

 神奈川県が中学校を何校置く予定だったか判らないが、おそらく10校越えることは想定していただろう。それに女子の教育機関だった高等女学校と工業・商業・農業などの実科学校を入れたら20以上になる。そこへいかに人口が多くて入学希望者が多いからと言って横浜に3校置く(高女入れて5校)のは県民の公平な教育を考えると不都合になってしまう。
 もっとも横浜の場合、後発となる横浜第二中学校、同第三中学校の生徒は第一中学校と比較されやすいのでひけめを感じてしまう。
 そのために横浜第二中学校の初代校長は校是として「大平凡主義」を掲げた。ずいぶんと矛盾の多い字ずらだが頭のいい人が好む一種の言い替えか。当たり前のことを当たり前にやる、という初等教育で常識のことを言い出した。望まぬ進学先で生徒は荒れたのだろうか? 
 しかし戦時中空襲によって横浜第一中学校校舎が焼失し、新しく建て替える段になって校地面積が狭く教育上差し支えがあるだけでなくすぐそばに横浜第二中学校や県立第一高等女学校(県立横浜平沼高校)や関東学院がありまた学制改革で中学校を高等学校に再編する機会でもあったので、広い敷地が確保できるだけでなく今まで教育の機会均等に恵まれなかった県央東側の高座地域寄りに横浜第一中学校を移転させることになった。そうして出来たのは横浜市内でも西側郊外地域に当たる相模鉄道線沿線の三ツ境付近で、沿線開発に伴う町名や新駅設置に合わせて県立希望が丘高校と改名することになった。

下校

 しかし第二中学校はそのままで、県立横浜翠嵐高校となる。
 理想を追い求めた結果とはいえ横浜中心から離れて置かれた希望が丘高校は、元は郊外地だったとはいえ中心地隣接地区にある横浜翠嵐高校に対して相対的地位が低下する。そもそも希望が丘高校周辺は辺鄙な場所であるだけでなく公立図書館などの教育ユーティリティーに欠けるのだ。地位低下はそれほど目に余るものではなかったが、1970年代の学生運動の激化や進学の学校郡制度によっていわゆるエリート校出身者の入学を敬遠する大学が出たり、全県から生徒を募集出来なくなった関係から、都心部にある高校と郊外部にある高校との間で学力格差があらわになると、両高校の地位が逆転して今日では横浜翠嵐高校の方が希望が丘高校よりも優秀な生徒が集まる印象になってしまった。
 シカシジッサイノトコロハワカリマセンネー…
 昭和4年測量図によると、横浜第二中学校へのアクセスは道幅から見て鶴屋町から沢渡を経るルートが主だったようで、当時の常識として徒歩通学だったろうから勧行寺脇のルートも考えられただろう。途中に平沼邸という大きな邸宅があるが横浜財界の名士で市長を輩出した家である。邸宅地は校地の半分に匹敵する広さだ。三ツ沢公園内に平沼亮一を記念する体育館と銅像がある。

昭和4年の第二中学校周辺
横浜市都市計画局HPより

追記
 誤解を恐れるので書きますが拙の出身校ではなく…ええそんなの夢さ
 おはようって今日もうまく言えるのかな、を地で行くような高校生活だったことも覚えております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?