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その蛙の置物は夢を見る 第五話

 体をぐっとつかまれて私は目が覚めた。目の前が真っ暗だったのでまた下に落ちたのかと思ったが、見覚えのあるメーカー名が目に入ったのでそれがテレビであることに気付いた。どうやら誰かに向きを変えられてしまったようだ。
 私の向きを変えた人物は何かを手に取ってガチャガチャといじっていた。カタンと何かが外れた音がしてから数分後、私の隣にそれが戻された。
 一体私の向きを変えたのは誰なんだろう?ここで何をしていたんだろう?私はそいつの顔を見てやろうと待っていたが、そいつは私をそのままにして部屋を出ていってしまった。パタンと扉が閉まる音が聞こえた。

 目が悪くなるからテレビに近付いてはいけないと言われて育てられたような気がするが、今日が最もテレビに近付いた日ではないだろうか。目の前に立ちはだかるテレビに圧迫感を感じてストレスを感じ始めた頃、パタパタと廊下を走る足音が聞こえてきた。その足音は305号室の前でピタッと止まった。そして中に入ってきた。
 さっきと同じ人物だろうか?私は全神経を背中に集中させた。
 走ってきたからだろうか?荒い息遣いが聞こえた。そしてさっきの人物が私の隣に戻した物を手に取ってガチャガチャといじった。カタンと何かが外れる音がした。それから「っつ。」と息を呑む音が聞こえた。

 ガシャーン。何かが落ちて割れた。

 一体何があったのか。何が割れたのか。自分の後ろで何が起こっているのかわからず私は不安になった。再び扉が開く音がした。
 「サヤカ。どうしたの?今すごい音がしたけど。」キヨさんの声が聞こえた。「あーあー。おばあちゃんの写真立て割れちゃってバラバラだよー。お姉ちゃんまたぶつかったの?」マヒロの声も聞こえた。
 どうやら落ちたのはキヨさんの写真立てで、落としたのはサヤカのようだ。ヒックヒックと嗚咽が聞こえてきた。
「おばあちゃん、ごめんなさい。」
「いいのよ、サヤカ。写真立てはまた買うから。」
「違うの。その事以外にも謝らなきゃいけない事があるの。おばあちゃん……私のせいだと思う。」
 サヤカは絞り出すように言った。その声はふるえていた。
「わかった。まず写真立てを片付けよう。その後でゆっくり話聞くから。」
 キヨさんが言った。言葉の内容はおかしくなかったが、キヨさんの声がかすかに震えていたので動揺しているのではないか、と私は思った。
「箒と塵取り借りてくるね。」マヒロが部屋を出ていった。

 一瞬で戻ってきたマヒロはサヤカと割れたガラスを片付けたようだ。キヨさんはベッドに戻り、私の向きを戻してくれた。いつもの光景が目の前に広がった。サヤカとマヒロはボイスレコーダーを仕込んだバッグの真下にある来客用の椅子に座っていた。サヤカの目は赤かったが涙は止まったようだ。マヒロは不貞腐れたようなへの字口になっていた。
「サヤカ、さっきの話聞いてもいいの?」キヨさんが優しく尋ねた。
「おばあちゃんはもう気付いていると思うけど、おばあちゃんが骨折したの私のせいだと思うの。」
「どうしてそう思うの?」ところどころキヨさんの声が揺れた。
「おばあちゃんの誕生祝いの日、おばあちゃんのお世話したりお母さんのお手伝いしてたらカズマサから財産狙いの点数稼ぎおつかれさんて言われたの。何で何もしてない奴にそんな事言われなきゃいけないんだって腹が立って言い返したかったけど上手く言えなくて悔しくてしょうがなかった。皆で写真撮る時におばあちゃんの体支える時もその事で頭がいっぱいで、体が前に出ちゃったのかもしれない。それで椅子が遠くなって……おばあちゃん尻餅ついちゃったんじゃないかな。」
 サヤカは一気に話しきった。
「あの時何があったかほとんど覚えていないの。おばあちゃんが入院して椅子の事を言い出して皆に疑われるようになって、もしかして私のせいなんじゃないかって思うようになったの。ずっと怖かった。謝りたくて毎日お見舞いに行ったけど勇気が出なかったの。」
 サヤカの大きな目からポロポロと涙が溢れてきた。マヒロはサヤカの隣で信じられないと言いたげな表情でサヤカを見つめていた。
 キヨさんはほっとしたように肩の力を抜いて言った。
「違うわ。サヤカのせいじゃないよ。あなたがそんな事するわけないじゃないの。優しい子なんだもの。ずっと苦しんでいたのね。ごめんなさいね。」
 サヤカは無言で首を横に振った。
 マヒロは何かを言おうとしたが、またへの字口になるとそっぽを向いた。
 サヤカはキヨさんから渡されたティッシュで涙を拭いた。
「おばあちゃん、私を疑っていたんじゃないの?」
「何で?」
「だっておばあちゃんも調べていたんでしょ?ボイスレコーダー仕込んで、疑いが晴れた人は写真の裏に丸印つけてたってマヒロが言ってたよ。」
 これにはキヨさんは驚いたようだった。驚きすぎて何も言えなくなってしまったようだ。体が強張ったのが見えた。
「マヒロが時々写真の裏をチェックしてたの。ずっと私たちの裏が空欄になっていたのに今日はマヒロの裏にマルが付いていたって聞いたから、おばあちゃんが私が犯人だと思ってるって焦っちゃったの。」
 それで走ってきたのか。それでは、その前に来たのは…。
「私はマヒロの裏にマルをつけていないわよ。」キヨさんが驚いて口走った。
「でも、私が見た時はマヒロの裏にマルが。」
 皆の視線がマヒロに集中した。

 マヒロはゆっくり立ち上がった。への字口は消えたが、その目は怒りに燃えていた。
「上手く収まるように黙ってあげたのに自分でぶち壊すんだもの。おまけに余計な事ばっかりするし。いい加減にしてほしいよ。」
「ごめん。」サヤカが小さく謝った。
「マヒロ。サヤカは悪くないのよ。」キヨさんが助け舟を出した。
 マヒロはキッとキヨさんを睨みつけた。
「当たり前でしょ。お姉ちゃんが悪いわけないじゃない。謝るきっかけがほしそうだったから細工しただけ。私が言ってるのはおばあちゃんの事だよ。」
 キヨさんは思いもかけない方向からの攻撃をくらって動揺した。
「私が?何をしたっていうの?」
 か細い14才の少女のどこにこんな迫力が隠れていたのだろう。70才が気圧されていた。
「本当に何も覚えてないの?あれだけ記憶力に自信があるって言ってたのに。」
 キヨさんはキョトンとしている。
「何でおばあちゃんが立って写真を撮る事になったと思う?おばあちゃんの両脇に私達が居たのは何でだと思う?」
「覚えていないわ。」

「おばあちゃんが言ったの。せっかくだから立って写りたいって。そして私達に両脇から支えてほしいって言ったのよ。私達はこれ以上嫌味を言われたくないから目立たないように端の方にいたのにね。」
 マヒロは止まらない。
「私達が両脇から支えて立ち上がった時に勢いがついて椅子が後ろに下がった感じがあった。そしたらお姉ちゃんが斜め前の方に動いたから椅子から更に離れちゃったの。写真を撮り終わって座る時に椅子が遠かったから私はおばあちゃんの腰を持ったの。そして反対側の手で椅子を引き寄せようとしたのよ。」
 キヨさんはただマヒロを見つめていた。
「おばあちゃんは私の手を振り払って恥ずかしいからやめてって言ったの。その勢いで落っこちた。それが真相だよ。」
 マヒロの頬を涙がつたった。
「一瞬の事で誰も気付いてなかったから黙っている事が皆にとって良い事だと思ってたけど、おばあちゃんが余計な事言って私達が疑われるようになって困ったんだよ。おばあちゃんは都合悪い事忘れてるから事情聴取で証拠集めて思い出させようとしたんだけど止められちゃうし、更に疑われるような事言い出すし、皆から嫌味も言われるしで我慢の限界だったんだよ。」
 マヒロはくるっと後ろを振り返りカーテンのふさ掛けにかかったバッグを見た。
「ちゃんとボイスレコーダーの前で言ってあげたから、今度は覚えていないなんて言わせないよ。」
 マヒロは呆然としているサヤカの手をとって部屋を出ていった。

 キヨさんは呆然としていた。その後は入院してから初めて見舞客を断った。
 キヨさんは静かな部屋でテレビもつけずにただ座っていた。

 私はどうしたらいいのかわからなかった。こんな時にかける言葉なんて一言も浮かばなかったので話せなくて良かったと思った。ただ、キヨさんの事が心配で見つめていた。
 
 キヨさんは選んだのだろうか。ふとそんな事が頭に浮かんだ。

 キヨさんが私の方を向いたのは夕食後の歯磨きを終えてからだった。
「私記憶力には自信があったの。物覚えが早いと褒められた事が何回もあるわ。
年をとって記憶力は衰えていたのに自信だけが残ってしまっていたのね。」
 キヨさんは目を閉じた。
「サヤカとマヒロは息子のタモツの娘なの。タモツと妻のレミさんは優しくてね、独り身になった私を心配して引き取ってくれたのよ。私は色々薬を飲んでいる関係でふらつく時があるの。夜中に1回トイレに行くんだけど1人で行ったら転んで骨折した事があってね。その時はレミさんが親戚中から責められちゃったの。」
「それで当番制にして付き添ってくれる事になったの。夜中の3時に目覚ましかけて起きてくれるの。優しいわよね。トイレに行くまで付き添ってズボンおろして、終わったらズボンをはかせて部屋まで付き添う。それだけなんだけど人によって全然違うのよ。」
 キヨさんはそっと瞼を拭った。
「レミさんとサヤカは私の動きに合わせてはかせてくれるからとても楽なの。タモツとマヒロは大雑把でせっかちだから勢いがあって怖い時があるのよ。一回倒れそうになった事があったからマヒロに注意したら怒られちゃったわ。」

「私は眠りたいのにおばあちゃんの為にわざわざ目覚ましかけて3時に起きてトイレに付き合っているのに何でそんな事言われなきゃいけないの。」

「気持ちはわかるけど悲しかった。そういう事が続いてマヒロが苦手になったのかもしれない。サヤカの話を聞いた時私はほっとしたの。やっぱりサヤカじゃなかった。良かったって。2人を疑っていたのにそう思うってことは心の底ではマヒロならやりそうだと思っていたんじゃないかしら。自分を棚に上げてね。それが伝わったからマヒロは怒ったのよね。」

 キヨさんの頬を涙が次から次へと流れていった。

 キヨさんはサヤカを選び、その結果サヤカもマヒロも自分自身も傷付ける事になってしまった。一体どうしたら良かったんだろう。私のぼやけた頭では正解を見つけ出すことは出来なかった。

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