その蛙の置物は夢をみる 第二話
「おはようございます。桜が咲いてますよ。」
朗らかな島田の声で私は目が覚めた。何日眠っていたのだろうか?カレンダーとテレビが視界に入ったがカレンダーには何の印もなく、テレビもついていなかったので参考にならなかった。看護師の島田はカーテンをゆっくり開けた。
「不思議よね。昨日まで咲いてなかったのに今日見たら満開なんだもの。」
窓の外は桜の花で溢れていた。
ベッドの布団がモゾモゾ動いて梓が顔を出した。眩しそうに窓の外を見つめて「きれいですね。」と言った。手術から数日経ったのだろうか。自前の寝巻きを着ており点滴も外れていた。
島田は検温したり血圧をはかったりテキパキと仕事を行うと部屋を出ていった。梓はしばらく無言で窓の外の桜を見ていたが、無造作にタオルを取ると洗面台に向かった。水が流れる音の後に「いたたた。」という声が聞こえた。
朝食後梓はテレビを見ながら手の運動をしていた。テレビでは桜の開花予想についての話題が出ていた。
「まだどこも咲いてないみたい。ここの桜はすごく早いね。」と梓が言った。
そりゃ、頑張ったからね。数日意識を失うくらいのエネルギー使いましたよ!
私は得意気に胸をそらしたが梓は気付かないようだった。
梓はぼーっとテレビを見ながら頻回にスマホをチェックしていた。私の気のせいでなければ手術前より元気が無いように見えた。手術がうまくいかなかったのだろうか、傷が痛むのだろうか、私は心配になった。
テレビでは天気予報が流れていて今日は強い風が吹くと言っていた。
午後になると天気予報通りに風が強くなった。カタカタと窓が揺れていた。
トントンと扉を叩く音がして梓の母親が入ってきた。
「梓ちゃん。しばらく来れなくてごめんね。」と申し訳なさそうに言った母親は手術前に来た時とは打って変わってやつれて見えた。
梓はパッと顔を上げた。母親の様子を見て心配そうな顔をした。
「何かあったの?顔色がよくないよ。」
「梓ちゃん、実はね。」母親はゆっくり梓に近寄るとベッドの横に置いてある丸椅子に座った。声には力がなかった。
「梓ちゃんの手術の日に井上先生とお話ししたでしょ?梓ちゃんの手術の話以外にお母さんの話になってね。お母さん検診受けてないって言ったら、受けた方がいいですよって言われたから受けてきたの。」
梓は真剣な顔で聞いている。母親は大きく息を吐いた。
「そしたらね、お母さんの胸に怪しいものがあるって言われたの。精密検査した方がいいんだって。」力の無い声だった。
梓は息を呑んだ。うなだれた母親に近付き大きな背中に両手を回した。
「なんでそんなの出来ちゃったんだろう?お母さん何も悪い事してないのに。」と母親が言った。母親を抱きしめようとしていた梓の手がピタッと止まった。
「悪いものだったらどうしよう。お母さん胸切りたく無いよ。」
梓は弾けるように母親から身を引いた。その顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「私だって何も悪い事してないよ?」梓の震える唇から低い声が聞こえた。
「あれだけ代わってあげたいとか言いながら本音はそれなんだね。代わる気なんて無いくせに何で何回も言ったの?優越感に浸りたかった?」
母親は梓の言葉にショックを受けたようだった。
「梓ちゃんの事を言ったつもりじゃないの。一般論を言ったつもりだったの。ごめんね、梓ちゃん。お母さん梓ちゃんをいつも怒らせちゃうね。」
母親の両目からポロポロと涙がこぼれた。梓は両手を握りしめながら涙を堪えている。何かきっかけがあれば割れてしまうような薄氷の上に2人が立っているように見えた。
私は梓と梓の母親のやりとりをハラハラしながら見ていたが、その内にこういう人いるよなーと懐かしい気持ちになった。私の知人にも梓の母親のような人がいたのだろう。同じような場面に出くわした事がある気がした。
良くも悪くも素直な性格なのだ。その時その時の感情で言葉を発するから発言に一貫性が無くなり矛盾が生じるが本人は気にしない。おまけに想像力も無いから自分の言葉を周囲の人がどのように受け取るのかわかっていない。無神経な言葉で切りつけて、反撃されたらショックを受けて泣いてしまう。
そういう人間なのだと割り切って私は知人と距離を置いた。しかし、梓にとっては母親だ。無神経な言葉で傷つけられてもそこには30年培った愛情があるのだろう。簡単に切り離す事は出来ないのだ。
こういうタイプには遠回しに優しく言っても伝わらない。自分の思っている事をストレートに伝えるしかない。その反応次第で関係を続けるか距離を置くか考えてもいいのではないだろうか。
私は全身全霊の力を込めて梓の心に語りかけた。
「素直になれ!!」
言葉は一陣の風になって梓の元へ届いた。梓の髪がふわっと揺れた。
「なんでお母さんが泣くの。泣きたいのは私のほうだよ。」梓は泣き出した。
「そうやってお母さんが泣くから私は何も言えなくなるの。私は自分を支えるだけで精一杯なのに次から次へと自分の不安をぶつけてくるでしょ。」
「井上先生から乳がんて告知された時に何て言ったか覚えてる?梓ちゃんはあとどれくらい生きられるんですか?て言ったんだよ。私の目の前で。」
梓は母親を見つめた。
「一般論だったら何を言ってもいいの?思った事は何でも言っていいの?」
ベッドに腰掛けた梓と椅子に座った母親が対峙している。その後ろには大きな窓があり、満開の桜が強風にあおられているのが見えた。風にあおられた桜の花びらがビュンビュン飛び回って嵐のようだった。
「お母さんの事好きだけど・・・辛いんだよ。」梓が消え入るような声で言った。
母親は梓を抱きしめて言った。
「ごめんね。梓ちゃん。お母さん梓ちゃんに甘えてた。本当にごめんね。気をつけるから許して。」梓を包み込んだ大きな背中が震えている。
梓は小さなため息をついてから母親の背中を優しくなでた。
「お母さん、ちゃんと精密検査に行ってね。」
「わかった。」
「先生の説明ちゃんと聞いてね。」
「わかった。」
「お母さん、私を可哀想って言うのやめてね。悲しくなるから。」
「わかった。」
「あと、すぐ死ぬ話に結びつけるのやめてね。」
「わかったよ。」
「・・・何で手術の日にあの服着てたの?」
母親は泣き笑いのような顔で答えた。
「あの服を着ていると良い事ばっかり起こるの。だから梓ちゃんの手術が成功するように願かけで着ていったのよ。上着で隠そうと思ってたんだけど暑くてチャック閉めるの忘れてた事に後で気付いたの。」
梓は「そっか。」と言って無言になった。長いため息は聞こえなかった。
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