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世話の焼ける子供

コラム『あまのじゃく』1956/9/3 発行 
文化新聞  No. 2376


町村合併あれこれ

   主幹 吉 田 金 八 

  船が出るぞーぅ
 講談の枕の中に使われる昔の乗船場風景にこんなのがある。
 いずれ大舟の出る舟着場には荒天の時、凪のためや乗船前の腹ごしらえの飯屋、旅館などがあるものだ。昔のことで、巳の刻とか四ッ半とかの発船とあっても、各自は勿論、どこにも時計がないので、いつ船が出るのか非常に不確かである。
 旅慣れない旅客は飯の最中『舟が出るよーぅ』と船頭が怒鳴るのを聞くと気が気でなく、上の空で飯も中途で荷を提げて船着場に飛んで行く。飯屋もそこを狙って特に熱い味噌汁と炊きたての飯を出して、なるべくお客が食い込まぬ様にする。
 ところが、この船頭の『舟が出るよーぅ』というのは、いわば客の呼び込みで、決してすぐに船が出る合図でも何でもなく、半刻、一刻も『舟が出るよーぅ』と叫び続けているという。
 心得た旅人は船頭の呼び声など馬の耳に念仏で、ゆっくりと腰を下ろして、十分に腹ごしらえをして乗船する。
 今、各地で夢中している町村合併の状態も、この昔の船着場風景そのままで、促進法の期限こそ本年今月限り、と3年前の法律発令の時に決まっていたのだから、昔の船のようにでたらめではないはずなのに、お客の未合併町村がいつもの伝で『いずれまた延期措置がとられるのではないか』と空頼みにしていただけに、『あくまでも今月中に県議会の議決は伸ばさない。それに間に合わぬものは乗り遅れになるぞ』と言い渡されてみると、熱い飯はおろか大切な荷物すら忘れかねない有様で、船に飛び乗ったが良いか、一船遅らせて航海しようか、と大慌てで算段している様相である。

  要領よい乗り方
 飯能市で、市会議員が集まって県の地方課員を呼んで合併促進法と新町村建設促進法の関連、移り変わりについての説明会があった。
 一人の議員が、
『国策とはいえ、足元から鳥の飛び立つ様に促進させようとするのは不可解である。これでは満足な研究もなく、無我夢中で合併してしまう事になる。何故もっと早く啓蒙指導を行わなかったか』といささか詰問的語調に詰め寄った。
 県官は、腹の中では唖然としたであろうが表面には表わさず『決して泥縄的でなく、3年前から手を尽くしている』実情を懇切に説明、『そのため、県の90%は合併を完了している。残った40箇所は放ってもおけぬので、最後に拾い上げて馬力をかけている』のだと答えているが、一般愚昧な大衆ならいざ知らず、指導者をもって任ずる市会議員がこの有様なのだから下は押して知るべし。
 今残っているのは難物中の難物で、手を替え品を替えての勧奨指導を跳ねつけ跳ね返し、石炭で沸かしたお湯は熱いとか、汽車に乗ると酔うとか、自動車は危ないとか、愚図をこねて、新しいことは何事も不安で、ただ何となしに理屈をつけて1日延ばしにしてるだけで、いずれは合併必至の運命は悟っているものの、踏み切れないだけである。
 このあいだ、ある団体旅行と同行したが、旅は人生と同じだという印象を深くした。一、二の実例をお話してみよう。
 一件の宿屋に100人以上もごった返すのだから、食事の時など大変である。女中さんの手が回らない。
 気を良くしていれば、いつまでたってもご飯のおかわりがもらえない。記者は軍隊の体験から早飯、早糞を会得しているから、卵が入っていた丼を飯茶碗代わりに、先ず手盛りで一杯、ここで普通ならやや満腹なのを、もう一杯おかわりしたので、手早いところ席を立ってお手洗場、みんなの飯が済む 時間にはご順に願いますで、立ちんぼうの行列も用便も難なく済ませてしまった。
 都内のゴー・ストップも同様にヘマをすると赤信号にばかり出会わせるが、順序よく行く時には、どの交差点も青、青と続くものである。
 どうせ乗らねばならぬ合併丸とすれば、せき立てられて飯を噛み飲込むよりも、十分に時間を見て早手回しに乗る方が、席も良いところが取れるし、忘れ物などの損害も少ない。当然相客の間にも古顔で通りが良いという利点もある。 

  改むべき距離観念
 共産党は町村合併は国の強制力が強くなるばかりだからと反対している。
 主義主張に基づいての反対とあればこれも結構だが、それにはこれが法律で施行される以前の反対でなければ、効果は薄い。
 すでに立派な法律となって施行され、国策として推進されている以上、市町村の末端で異議を申し立ててみても国策の体制に押しつぶされて、いたずらに、共産党は何でも反対するのだと言われるだけである。
 大型バス国策合併号に乗り合わせた以上、ガイドが『曲がりますからご注意ください』というのを、皆が車の傾く側に体をなびかせるのを反対側に突っ張ってみたところで、窓ガラスに頭を叩きつける位がオチである。
 曲がりカーブでの体の持たせ様はオートバイレースなどの特別な場合には、車を左に倒して体を右に突き出す方法もあるが、概して車なりに傾けるのが通常である。
 道路や線路はカーブが外側が高くなって内側に傾く様に出来ているのだから、この自然の理に適応していくより仕方がない。
 名栗の有馬村長が地区別懇談会でうまい事を言っていた。
 それは、「交通機関の発達が距離を短縮したのだから、町村の地域を広げる事も何等不便や苦痛にならない』と。
 まったくお説の通りである。名郷と言えば記者の少年時代は、馬力が材木を運ぶのに名郷を未明に立ってたっぷり一日行程、親戚が三丁目で馬宿をしていたので、記者も夕方、貰い湯に行って、よくこの馬方連、要さん、忠さんなどが馬の飼葉を作るのを見たものである。
 満州大豆を煮た臭いなど今でも思い出される。この馬方連も自然と姿を消し、その子供たちがトラックの運転手でブーブーやっているのも時代の変遷である。
 名郷で、夜の8時から座談会があると聞けば、夕飯を済ませて、新聞社のボロダットサンで容易に行って来られる。
 その名郷に何軒かに一台の割合にオートバイが一般化し、若い娘さんが友達をお尻につけて、ツーツー走っている。
 もはや古い観念の村や町にとらわれる必要は少しもない。ここで思い出したのは、そうした時代にありながら、公会堂の位置を天覧山麓にするか、一中付近にするかで交通上の利便などを項目を挙げて、もっともらしく検討したのもつい先日のことで、飯能の人間も名栗の人を笑う資格はない。
 この合併ができたら名栗の人から飯能人は未開と笑われることであろう。
 
  駄々っ子の行方
 奉公に出ることに決まった子供が『さあ、荷物も揃ったから出かけよう』と父親にせつかれて、まだ母親の膝下を懐かしがって『腹が痛い。尻が痒い』と言っている様なのが、取り残された四十余の未合併町村の姿である
 名栗村の一部の人達が『どうせ合併するなら原市場が良い』と今更になって言い出してみたところで、原市場はすでに初めに名栗に取り合われなかったので、飯能合併の臍を固めてしまっている名栗から誘惑があって、名栗寄りの部落が浮気してはかなわぬ、とばかり馬場村長が用心して部落懇談会で飯能一本の調印まで取ってしまったので、名栗の誘いも効果はなかった。『最小限度、原市場が駄目なら、吾野とやれ』村民は執行者の苦労を知らないから言いたいことを言う。
 吾野と合併したら本庁役場をどこに置くか、本当に開けた考えなら正丸峠の頂上が発展して山の銀座になりそうだから、ここに役場でもこさえる事なら、うまくいこうが、名栗に役場ができたら吾野は収まらず、吾野にできたら名栗の殿様が承知しない。
 『飯能は不信頼だから、飯能を除いた四か村で行こう』などとの迷論もあるが、これとて吾野合併と同然で、本庁舎の位置でものにならない。それとも地区外の飯能市内に四か村の統合役場を置くとでも飛躍すれば、この四か村案も不可能ではあるまい。ただし、これではほとんど飯能との大合併と変わらない事になる。
 これらのいずれもの論は腹が痛い、尻が痛いの類で言いたいだけ言わせ、泣きたいだけ泣かせておけばしまいには亡きじゃくりを収めて、親父に連れられて出発することは見えている。
 名栗村の理事者も指導者も、そのことをよく読んで、駄々っ子をあやしているというのが現状のようである。
 団体旅行で感じたことは、旅慣れない年寄りたち、特に女たちは見物に行くのだか、土産を買いに行くのだか判らない。
 目的地に着くと天下の絶景も古跡もさておいて、家や近所への土産物選びに脇目も振らない。だから、たちまち大荷物となり、短い旅行なのに荷物の監視と持ち運びにかかりきりである。
 列車からバスへの乗り換えなどは大騒ぎで、振り分けにした上に両手にいっぱい、まるで敗残兵か戦災者、引揚げ列車そのままと言ってはあまり失礼ではあろうが。
 こんな時、事故でもあったら大変。荷物をかばうあまり、余計な死者が出ることは必定と思うと慄然とした。名栗村は丁度これらの荷物を持て余した旅行者と見立てては失礼かしら。
 『村有財産は充分に処分してお出でなさい。飯能は決して財産は望まない』飯能のほとんどの市民はそう思っている。
 下手な財産は荷厄介、頼りにすると子供が無気力になる。もめ事の震源地になりやすい。
 自治体は税金を働き出す住民が最大の財産である。『合併すると税負担が重くなる』こんなことも無知な大衆を引きずっているらしいが、大きな構いになればボスの我儘が許されないから、税金は公正になればとて不公平になる理由がない。
 大衆の課税は軽くならないまでも多くなる筈はない。
 『飛行機は危ない、危ない』と言いながら遠い旅行は飛行機に限る時代が迫っている。山村も都市も住民は大きく考え直すべきである。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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