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『新潟行き』

コラム『あまのじゃく』1963/10/15 発行
文化新聞 No. 4592


安宿のお婆さんにおふくろの姿‥

    主幹 吉 田 金 八

 所要が出来て新潟に行かねばならなくなった。
 新潟というと、私の心は弾むのが常なのだが、今度はそうはばかりはいかない。
 というのは新津市に買いかけておいた土地が仮登記が出来るから来いというのである。もちろん、私とすれば相当の大金を持って行かねばならないのだが、かねてから期していたものの、案外の呑気者の私は金を貯めることが嫌いというより、次々と買い物をする癖で、金がまとまったことがない。
 先方のあてにした金を持たずに行くのだから気が重いのである。しかも電話が便利になって、直通が効くから2度 3度電話を受けると放ってはおけない。
 「行くには行くが、金は予定したほど持って行けませんよ」と一応念を押して、取り敢えず行くには行くと約束した。
 この前は、一人旅は汽車の方が得とばかり汽車利用だったが、やはり行ってみると自動車の方が便利だ。向こうに着いて色んな所を 歩くのに、タクシーは費用がバカにならないし、バスではハカが行かない。
 どうやらこのところ私の乗用車も具合が良いので「フォード・コンサルで気なりに行く」と言い出したら家の者がびっくりした。まだ先月、肩の骨を痛めたばかりで、やっと町内の用足し位しか自分で運転してない。 この間やっと板橋と浦和に遠出しただけで、しかも帰ってから疲れた顔をしていたくせに三百五十キロもある新潟は無理だ、というのが家族の意見だ。
 それだから月曜日にやる用達を土曜日の午後に出発するのだ、と言っても女房が安心しない。
 強いて押切れば「誰ぞ付いて行っては、何か悪いことをやるのに都合悪いのだろう」と痛く無い腹を探られるのも悔しいから「では、誰か付いて行け」と折り合ったが、さてとなると、仕事の関係や何かで、長男以外ないことになった。
 長男は体力もあるし、運転には安心だが、「コンサルでは自信がない」と言う。安い車だからという意味なのガ気に入らない。
 安い車でも乗り慣れたものなら越後くらい気楽な気持ちで行くのが私の永い間の主義だ。
 「信用がないものに頼まない。俺が一人で沢山だ」と、話はまた元に戻ってしまった。
 女房と次男が長男を囲んで何やら言い含めていたようだったが、長男が渋々同道することを合点したらしい。
 こんなことで出発は土曜の午後3時頃になってしまった。これでは明朝早立ちの方が良かったかと思ったが、すでにその日の原稿は済んで、私は厄抜けの態勢にしてあったので、その日の用はない。
 行き着き泊まりの呑気な旅を良いだろうと簡単に出発する。この分なら前橋あたりで日が暮れるであろうと言いながら走ったが、それでも渋川を過ぎてライトを点ずる程度に進行した。
 奥利根も前回より舗装も進んでいたが、夜行の三国越えは危険でもあり、折角の紅葉を闇一色で見ずに通ってしまうのも惜しいと思ったので、沼田に安い宿の知ったのがあったから泊まって行こうと決めた。
 その宿というのは何年か前、娘たちがスキーを習いたいが、上越のスキー場に手ごろな宿ががないというので、「それなら沼田を根拠地にして、朝晩沼田からスキー場に通えば良い。スキー客は混まないし、第一安い」ということで、私が電話帳で駅付近の安い宿を交渉した。
 東武バスの駅の裏とか聞いていたが、行ってみたら小さな商人宿だった。
 私は以前からそんな宿が好きだったので、「二人で泊まれますか?」と聞いたら、「今日は女中さんがお休みで、手がないから」と危うく断られそうになった。そこで奥の手を出して、「お宅にはスキーのできる息子さんがおりましたね。」と断りの手を封じた。
 「何年か前、娘がお世話になった埼玉の者ですよ。」と言ったら、「あの3人連れで3,4日泊まったお嬢さんのお知り合いですか?」とおばあさん、忽ち他人でない顔になった。
 「夕食だけ、どこぞで食べて来てくだされば何とかいたします。」ということでOKになった。
 確かに七十に手の届きそうな婆さんがいくつかの下のお手伝いさんを相手に、五つか六つあるどの部屋も満員のお客さんをこなすには大変だろうと思った。
 「おばあさん、明日の朝の食事は帳場に降りてやるよ。」と言ったら「すみませんね。それではテレビを見ながら召し上がってください」と嬉しがっていた。気さくな柔和なおばあさんだった。 私はこのおばあさんが娘が友達と何年か前に厄介になったことを、未だに覚えていてくれたことを嬉しいと思った。その時、初心スキーヤーのために出発前に多少とも世話を焼いてくれた宿の息子のことを、長男が聞き出したが、「自動車のセールスマンになって、今日は4台も新車をこの町に納入したと、おばあさんは得意顔だった」と言った。
 息子さんもこんな侘しい宿屋はお袋に任せて伊達な車セールスに将来の方向を見いだしたものと思われ、世相を映していると思った。
 それでも便所もお風呂も今ように改造されて、安い料金でも親切な営業で客を引きつけている様は判った。
 ダットサンにスリッパを一杯つけた商人や何かで、朝のテレビの前の食卓はなかなか賑やかだった。掛け布団は1枚で、夜中に座布団を裾の方に乗せるなど「留置場は知らないが、このこんなものだろう」。8時から寝たせいばかりでなしに、夜中にうそ寒さに目を覚まして寝付かれなかったが、朝出発の時送ってくれたおばあさんの顔は、死んだお袋のように優しく懐かしかった。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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