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アマスヤの少女(トルコ)

トルコを旅行していたときからもう四年近くたつけれど、今でもときどきディディムから手紙が来る。
 いちばん最近来た手紙によると、今年(二〇〇一年)の秋、彼女は故郷のアマスヤを離れて、黒海沿岸のトラブゾンという町の全寮制の高校に進学したということだ。
 トラブゾンには私も立ち寄ったことがある。旅行者のあいだでは、スメラ修道院の遺跡への中継点として知られる大きな町だ。ただ、大きな町ではあるが、あまりにぎやかなところのない静かな町だったように記憶している。外国人のツーリストも、地中海沿岸のトルコの町を訪れる人は多いが、東北部の黒海沿岸の町まで足を伸ばす人は少ない。
 トルコは大きな国だ。
 地図を見ると、アマスヤとトラブゾンはそう離れていないように見えるが、実際にはかなりの距離がある。ましてやはじめて両親のもとを離れて暮らす高校一年生の女の子にとっては、ことさらに遠く感じられたことだろう。
 ディディムの手紙を読んでいると、新しい生活をはじめることの歓びよりも、故郷の町を離れたことの寂しさのほうが強く滲み出ている。私は古い町の古い学校の大きな寮舎の中にぽつんとひとり放り込まれた少女の不安を想った。
 彼女の故郷の町であるアマスヤは、トルコの首都アンカラからバスで五時間ほど東部に入ったところにある山峡の町である。町の中央部には、あまりきれいとはいえないチョコレート色の川がくねくねと流れている。市街地はこの川を挟んで、細長く帯状につづいている。道は狭く、ごちゃごちゃとしていて、クルマが多い。四六時中、アマスヤの町には排気ガスが立ちこめていて、山の上などから見ると、それがまるで紫色の霧のドームのように見える。
 町の背後には絶壁が高く切り立っている。山峡の町とはいっても、緑は少ない。絶壁の中腹に、不思議な形をした岩窟が穿たれている。最初、バスの窓からその光景を見たとき、私は空中に巨大な鍵穴を発見したと思った。私はとっさにバスの運転手に声をかけて、その鍵穴の見える場所で、バスを降ろしてもらったものだ。
 後でガイドブックを調べたところによると、それは紀元前四世紀頃に造られたポントス王の墓だという。真偽のほどは定かではない。しかし、鍵穴はひとつではなく、大小合わせて相当の数が、絶壁のあちこちに散在している。相当に古いものであることはまちがいないらしい。
 夜になると、いちばん巨大な鍵穴は、ライトアップされた。私が泊まったホテルの部屋からは、ちょうど正面にその光景を見ることができた。ベッドの上にあぐらをかいてじっとその鍵穴を見ていると、まるで不思議な物体が空中に浮遊しているような錯覚にとらわれた。
 アマスヤは古代からの要衝の都市ではあるが、ホテルの数は多くない。イスタンブールなどのように、ツーリスト向きのゲストハウスのようなものもないので、旅行者はトルコ人のビジネス客が使う数少ないビジネスホテルを利用するしかない。私が泊まっていたのは、町の中央のアタチュルク広場の近くにある五階建てのホテルだった。
 私の部屋は最上階にあり、同じフロアにキッチンの設備もあった。私は三度三度の食事をだいたいこのキッチンを利用してすませた。
 といっても料理らしい料理をこしらえていたわけではない。せいぜい卵焼きか、それに毛の生えた程度のしろものだ。あとはやたらばかでかいトルコパンとバナナが、私の食卓を飾るすべてだった。しかし、このいかにも見栄えの悪いパンが、とにかくおいしいのだった。
 私はトルコに来て、世界一おいしいパンはフランスパンではなく、トルコのパンだということを確信した。ただし、やはり焼きたてでなくては、だめだ。時間がたったからといって、フランスパンのように直線的に味が落ちるわけではないが、やはりおいしくない。大きな竈から出てきたばかりのトルコのパンは、理屈抜きにおいしい。パンさえあれば、あとは何もいらないくらいだ。
 パンはたいてい大きな円盤型をしている。地方の町に行くと、焼きあがりの時間がだいたい決まっていて、その時間帯になると、おばさんたちが一斉にパン屋に押し寄せる。パンは裸のまま露台の上に並べられているが、おばさんたちはみんな、パンの端っこのほうを指で一突きしてから買ってゆく。ちゃんと焼き具合を確かめているわけだ。だから売れ残ったパンは、おばさんたちの指紋だらけだ。
 私はアマスヤの町でトルコのパンのおいしさを知った。イスタンブールのような大きな町は、ロカンタやレストランがたくさんあるので、逆に、この円盤型のパンにお目にかかるチャンスがなかった。
 夕方、キッチンのテーブルでひとりぼそぼそと食事していると、たいていフロントのアイハンという青年も上がってきて、かたかたと食事の仕度をはじめる。見ていると、なかなか豪勢な食卓だ。内心、何かめぐんでくれないかと期待しているのだが、アイハン青年は神経質そうな顔をしてもくもくと食物を口に詰め込み、さっさと片付けて、また下に降りていってしまう。
 彼はこのホテルで働きながら、大学でバイオロジーの勉強をしているという感心な若者ではあるが、非常に愛想が悪い。もしかしたら生理的に私のような外国人ツーリストが嫌いなのかもしれない。あるいは各国から流れ込んでくるツーリストたちの生態を間近に観察しているうちに、この種族を最下等の種族と分類したとしても、私には彼を責めることはできない。
 アイハン青年は、夕方、五時頃と、夜明け前に、このキッチンで食事をする。これは彼ばかりではなく、ラマザンの期間におけるトルコの人の食生活の一般的パターンだ。夜明け前といっても、深夜に近い。よくもまあこんな時間にメシが食えるものだと思うのだが、昼間食えないのだから、とにかく食べるしかないのだろう。
 この国は、今、ラマザン(断食月)の最中なのである。一月に渡るこの期間中、日の出から日の入りまでのあいだ、彼らは一切の飲食喫煙を断つ。イスタンブールのような大都市にいると、ラマザンといっても、もひとつぴんとこないが、ここアマスヤでは、事情がちがう。昼日中からマクドナルドでラマザン破りをしている若者たちなど、ひとりもいない(もっともこの町には、マクドナルドそのものがないのだが)。
 私が見るかぎり、アイハン青年もきわめて厳格にこの掟を遵守していたようだ。
 私たちが夕食の準備にとりかかる頃、アマスヤの町は一種異様な色彩に包まれる。山峡の町の日没は早い。午後四時半にもなると、太陽はポントスの岩山の端に傾く。このとき放たれた一日の終わりを告げる光の束が、町を覆うドーム状の紫色の霧の中で乱反射して、町全体を溶鉱炉の中にでも投げ込んだかのような光景を現出する。
 それは美しいというよりも、毒々しいような光景だった。

 アマスヤの町を歩いていると、子供たちがひっきりなしに声をかけてきた。イスタンブールなどで声をかけてくるのは、大半が物売りか客引きだが、さすがにこの町には、その類いはまったくといっていいほどいない。人々は親切すぎるくらい親切で、人当たりが良い。しかし、どこへ行くにも、二、三人の子供たちを従えていなければならないのには閉口した。
 ディディムもそうした子供たちのひとりだった。
 町角の店でトルコパンの焼きあがりを待って並んでいたとき、ふたりの少女が息をはあはあ切らせて駆けてくるのが見えた。ああ、パンがもうすぐ焼きあがるから、あの子たちも買いにきたんだな、と思って見ていたら、ふたりはパン屋のほうには見向きもせずに、ぴたりと私の横に並んだ。そして「ハロー! アイム・ディディム」といった。
 どうやら彼女たちは町の噂で私のことを聞きつけて、わざわざ会いに来たらしいのだ。これにはびっくりした。
 ディディムはなかなかうまい英語をしゃべった。私なんかよりもはるかにうまい。私の英語はいわゆる旅行者英語だが、彼女の英語を聞いていると、ちゃんとした教科書どおりの文章になっている。学校で英語を習っているというのだ。
 あなたは日本人でしょう、と訊くから、そうだよ、というと、あたしたちは日本人が大好きだ、という。
 そういわれれば、悪い気はしない。
「ヨーロッパ人はフレンドリーじゃないわ。特にドイツ人は氷のように冷たいのよ」
 氷のように冷たいとは、聞いていてちょっとどきりとしたが、これはたぶん彼女たちの個人的な印象ばかりではなくて、周囲の大人たちからの感情移入もあるのだろう。トルコ人がドイツ人にたいして抱いている感情は、複雑だ。彼らはドイツ・マルクを絶対的に信頼しているが、ドイツ人となると話は別だ。
「この町には日本人はたくさん来るの?」
「そんなに来ないわ。でも、今はあなたの他にふたりの日本人がいるわよ」
 話を聞いていると、彼女たちのツーリスト情報は大したものだった。彼女たちにとって、ツーリストとの交流は重要な日課になっているようだ。けれどもヨーロッパ人の旅行者は、話しかけてもなかなか相手をしてくれない。ドイツ人なんかは一言も口をきかずに立ち去ってしまうことが多い、とディディムはいうのだった。
 けれども私にはそのヨーロッパ人たちの気持ちも分かるような気がした。アマスヤに来るツーリストたちは、たいていイスタンブールを経由して来ているはずだ。イスタンブールはお世辞にも、親切な人の多い町ではない。それどころか、イスタンブールで〈親切な〉人にいちいち関わっていたら、有り金全部なくしかねない。その結果、賢明なツーリストは、声をかけてくる見知らぬ人を無視する習性を身につける、というわけだ。
 ただ、日本人旅行者の場合、なかなかドライに徹することができない。胸の中では「なんだ、この野郎、うっとうしいやつだ」と思っていても、ついつい「ああ」だとか「うう」だとか返事してしまう。それがディディムたちにとっては、逆に、好評を博する要因になっているらしい。
 しかし、そういうことを抜きにしても、確かに、トルコの人々の対日感情は悪くない。ひとつには、トルコを訪れる日本人旅行者がまだまだ少ないということもあるのだろう。イスタンブールやカッパドキアは例外としても、その他のトルコの地方都市で日本人旅行者に出会うことは稀だ。
 彼女たちは十三歳。日本でいえば、中学校の一年生か二年生。見たところも、だいたいそれくらいの年頃に見える。アマスヤでは裕福な家庭の子供たちなのだろう。ふたりともぴかぴかのきれいな靴を履いているのが、印象に残った。
「おもしろいものを見に行きましょう!」
 とディディムがいう。
「おもしろいもの?」
「とっても恐いもの」
 といって、ディディムが目配せすると、友達は「ああ! あれか」というふうに笑って、私の顔を見た。
 しかし、さっきからしゃべっているのはディディムばかりだ。友達のほうにも話しかけてみたが、にこにこと笑っているばかりで、応えがない。どうやらディディムと友達の英語力には格段の開きがあるようだった。たぶんディディムがずば抜けているのだろう。後から聞いたところによると、彼女の姉さんはアンカラの大学生だというから、ちょっとしたエリート一家なのかもしれない。
 彼女の夢は医者になることなのだという。
 そのためにはたくさん本を読まなければならない。英語をもっと勉強しなければならない。フランス語も勉強しなければならない、とディディムはいった。
「ドイツ語は?」
 と私がいうと、彼女はちょっと考えてから
「そうね。ドイツ語も」
 といって、真面目な顔をしてうなずいた。
 アマスヤの町のメインストリート沿いに小さな博物館がある。
 実は、私は彼女たちに会う前に、すでに一度この博物館を訪れていた。これといって見
るべきものもない、ぱっとしない博物館で、一通り見るのに十分くらいしかかからなかった。
 彼女たちのいう〈おもしろいもの〉は、ここにあるというのだ。
「ここにはさっき入ったばかりなんだよ」
 と私がいうと、彼女たちはあからさまにがっかりした顔をした。
「でも、本当におもしろいものがあるのよ。あなたはそれを見ていないでしょう?」
 私は首をひねった。どう考えても、この博物館にそんなおもしろいものなど置いてなかったような気がする。しかし、どうやら彼女たちは、私をその〈おもしろいもの〉のところに連れてゆくまでは、解放してくれそうにない。しかたなく私はもう一度その博物館に入場することにした。
 係の人は、また来たのかというような顔をしたが、ディディムたちのすがたを見ると、苦笑いしながらも、無料で通してくれた。どうやら彼女たちがこの博物館に旅行者を連れてくるのは毎度のことらしい。ある意味では、博物館にとって、彼女たちは優秀なガイドだったのかもしれない。
 〈おもしろいもの〉は本館の中にではなく、建物の脇の庭園に建つ小堂の中にあった。
 彼女たちのいうとおり、私はその〈おもしろいもの〉を見過ごしていた。「おもしろいもの」「とても恐いもの」と彼女たちはいったが、それはガラスの棺の中に安置された数体のミイラだった。薄暗いお堂の中で、小さくひからびたミイラたちは、声のない悲鳴をあげていた。
 いったいいつ頃のものなのだろう? イスラムの世界とミイラとは、あまり繋がりがないような気がする。それとも私が知らないだけで、そういう伝統でもあったのだろうか。ディディムに訊くと、五百年ほど前のミイラだという。五百年前というと、オスマン・トルコ成立当初の時代だ。あるいはオスマン・トルコに攻め滅ぼされた地方の豪族の末路のすがたなのかもしれない。
 その正体はともかく、このミイラは、アマスヤの子供たちにとって、長く呪縛のシンボルとして君臨してきたにちがいない。たぶんディディムたちも、もっと小さい頃は、悪戯したらミイラのところに連れてゆきますよ、などと脅かされて、夜な夜なミイラの幻影に怯えて過ごした日々もあったはずだ。何人かの子供たちに、ミイラの絵を描いてみせたら、笑ったり、泣き出しそうな顔をしたり、反応はさまざまで、なかなかおもしろかった。

 私がアマスヤに着いた翌日、町には兵士のすがたが目立った。
 おそらく近くに軍隊の基地でもあって、ちょうどこの日が外出日にあたっていたのだろう。兵士たちは数人づつ連れ立って、思い思いに町を散策したり、買物をしたり、銀行で金を下ろしたり、公衆電話に群がったりしていた。
 そのすべてが若者だった。十代後半から二十代前半。トルコに兵役の義務があることは知っていたが、その詳しいシステムについてはよく分からない。女性の兵士というのは、見かけないようだ。
 着ている軍服はみんな立派で、新しい。薄汚れた軍服を着ている者はひとりもいない。たまの外出の日だからかもしれないが、確かにこの国は軍備にはお金をかけている。
 兵士たちも、他の町の人たちと同じように愛想が良い。確かめるまでもなく、私が日本人だということが分かっているようで「ジャポンヤ、ジャポンヤ」といいながら、笑いかけてくる。しかし、残念ながら、彼らと挨拶以上の言葉を交わすことはできない。軍の規律で、外国人と必要以上のコミュニケーションをすることは禁じられているらしく、私が何か話しかけようとすると、彼らは明らかに人目を気にしながら、あわててぱたぱたと歩き去って行く。
 武器による以外のコミュニケーションを持つことができないのは、洋の東西を問わず、兵士の悲しい宿命なのかもしれない。
 一度だけ、イスタンブールで兵士の写真を撮らせてもらったことがある。
 彼はトプカプ宮殿の中庭の日当たりの良いベンチに、猫をひざの上に乗せて腰掛けていた。私がインスタントカメラを向けて、写してもいいか、というジェスチャーをすると、最初ちょっとあわてた様子だったが、すぐに、まあいいか、というような顔をして、うなずいた。まだ若い、少年といってもいいくらいのあどけなさの残る兵士だった。
 この日の午後、私はポントスの墓を見物に出かけた。
 めずらしく子供たちのお供もなく、バナナを一房ビニール袋に詰め込んで、私はひとり遠足気分で川向こうの岩山を目指して歩き出した。小さな橋を渡り、鉄道の線路を越えると、人が住んでいるのかいないのかよく分からないようなバラック建ての家がごちゃごちゃとつづく。そのあいだを縫って狭い坂道を登ってゆくと、道はやがて切符売場らしき建物に突き当たる。
 扉は、どうぞご自由にお入りください、といわんばかりに開いていた。
 おそらく、夏場、観光客が押し寄せるときには、ここで入場料金を徴収する仕組みになっているのだろう。しかし、今は猫の子一匹見当たらない。
 岩窟墓までは、さらにここから岩山を登る。
 墓はかなりの高所に位置していた。岩壁を大きくくり貫いた中に、石棺を置いただけの単純な構造だが、ここからの景色は良かった。下を見下ろすと、小さな家々の屋根がチョコレートの板を敷き詰めたように並んでいる。
 と、兵士がひとり、途中の岩場の上に座り込んで、じっとこちらを見ているすがたが目にとまった。かなり距離があるので、表情までは分からない。私は、最初、彼もまたこの町で休暇の一日を過ごしている兵士たちのひとりかと思った。
 岩山の頂には廃墟の城跡がある。ほとんど道なき道だが、行って行けないことはなさそうだ。私は久しぶりの山登りに心臓を鳴らしながら山頂への道をたどりはじめた。
 しばらく登ったところで、後を見ると、兵士が着いて来ている。ここではじめて、私は彼が休暇中の兵士などではないことを悟った。彼は、着かず離れず、常にある一定の距離を保って、私に着いてくる。私が登りはじめると、彼も登りはじめるし、振りかえると、立ち止まって、所在なげにしている。
 私はだんだん気味が悪くなってきた。
 ここは入ってはいけない場所だったのだろうか?
 それならそれで、直接そういってくれればいい。べつにどうしても見たいというほどのものでもない。しかし、彼はけっしてある一定の距離を越えて、私に接近してくることはなかった。
 結局、岩窟墓から三十分ほども登ったところで、私は引き返すことにした。兵士の無言の圧力に屈した形だったが、体力的にも少し自信がなかった。予想以上に自分の体力が低下していることを、私はこのとき知った。
 切符売場のゲートのところまで下ってくると、すでに兵士のすがたはなかった。
 いったい彼はどこから現われて、どこへ消えてしまったのだろうか?
 ホテルの窓から見るポントスの墓は、その実態が明らかになってからも、やはり私には空中に浮かんだ不思議な鍵穴のように見えた。もしかしたらそれは、どこか別の世界への扉を開く鍵穴なのかもしれない。そしてあの兵士はその扉の永遠の番人なのかもしれない。後になって、ディディムにこの話をしたところ、彼女の答えはすこぶるシンプルなものだった。
「たぶん、その兵隊さんは、あなたが岩から落ちてケガしたりしないように、見ていたんだと思うわ。あの山はすごく危ないのよ。ひとりで登る人はいないわ」
 なるほど。いわれてみれば、そのとおりだ。あんな急な岩山を、バナナの袋をぶら下げた変な外国人がひとりでよじ登っていれば、お節介なトルコ人なら誰だって、見ていて放っておくわけがない。
 私は明快な解答を与えてくれたディディムに感謝した。
 付け加えていうと、山登りをした翌日、私の太股はぱんぱんにはれあがってしまった。

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