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ファミリーヒストリー:曽祖父・宮松 - 浅草編

ファミリーヒストリーの旅はまだまだ続く。第3弾。
曽祖父・宮松の浅草編。

戸籍を父の代から遡っていくと、
曽々祖父の「座馬三郎」が岐阜県加茂郡上古井町の人間だということが分かった。
加茂郡上古井町は現在の美濃加茂市で、飛騨川と木曽川の合流地点で、近くには中山道の宿場町である太田宿がある。

中山道六十九次51番目の宿場にあたる太田宿は、中山道の三大難所のひとつに数えられた「太田の渡し」があり、 飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあったところから、大いに栄えた。

曽祖父の「宮松」も、上古井村に生まれた。慶應元年(1865)のこと。
この年、高杉晋作が長州藩の実権を握り、新撰組が西本願寺に屯所を移し、五代友厚がイギリスに留学し、坂本龍馬と桂小五郎が下関で会談して薩長同盟の密約の下地をつくり、武市半平太が処刑された。司馬遼太郎の幕末モノでも読んでいるかのような気分になる。

この時代、年号が2〜10年くらいのスパンで変わっている。
天保年間14年
弘化年間4年
嘉永年間6年
安政年間6年
万延年間2年
文久年間3年
元治年間2年
慶應年間5年
すべて孝明天皇の時代で、この天皇は改元魔だった。
黒船来航、江戸城本丸火災、安政の大地震…、天変地異から動乱までいろいろあるので、改元したくなる気持ちも分からないでもない。

安政の大地震

そういう時代に、宮松は、美濃の宿場町・太田宿から近い村で生まれた。
物心がついたときには明治の御一新だ。
殿様が変わる廃藩置県は、地方の民や草にどのような影響を与えたんだろうか?
経済はよくなったのか、租税はラクになったのか? 民や草にしてみれば、国体の変化は、自分の暮らしがラクになったのかどうかでしか評価のしようがなかったのではないだろうか?

戸籍によると、宮松は、
慶應元年(1865)出生
明治21年(1888)嫡廃
明治22年(1889)東京府本所区本所相生町5丁目26番地の三浦小太郎方に分家同居
明治23年(1890)東京市浅草区向柳町1丁目20番地に本籍を構える
明治23年(1890)長男・源六郎(僕の祖父)が生まれる

曽祖父・座馬宮松の戸籍。本籍地は「東京府東京市浅草区向柳原町1丁目23番地」

戸籍に書かれている字が達筆すぎて、判読は熾烈を極める。
写メして、PCで思いっきり拡大する。
宮松の生年は「慶應元年」か「九年」か判別し難いが、慶應九年は存在しないのだから、これは「元年」。といった具合に答えを出していく。
本籍地は、「浅草区」までは読める。以降は「向■■■■■■■■」としか読めないが、この情報だけで検索すると「向柳原町」がヒットし、改めて戸籍の字を見ると、そう見えてくる。そんなふうにして答えを出していくのだ。

嫡廃とは、家督を継がず、相続の権利を放棄し、家を出たということ。
素行不良や父子対立で家を飛び出た場合、嫡廃するケースが多かったようだ。要するに、家長の反対を押し切って、早く家を出て独立したかったということか。
僕も早くに家を出てバックパッカーとして世界中をうろうろしていたし、父も氏の変更までして家を継がなかったのだから、座馬家の家督独立の気質は、曽祖父・宮松以来の伝統ではないかとすら思える。宮松も父・秀行も僕も長男なのだが、長男の運命に従うことなく、家を継ぐという気構えがないのだ。

とにかく宮松は家督を継がず、花の都・江戸は浅草へ出た。
宮松、24歳のこと。
太田宿を出発して、江戸までは中山道をひた歩いたのだろう。約360km、歩いて83時間。宮松は、どんな夢を見たのだろう?

太田宿から東京までは中山道で結ばれている。約360km、歩いて83時間。

江戸時代、浅草寺の参道として仲見世が発達し、明暦の大火(1657)を機に浅草寺の裏に、吉原の遊郭が日本橋人形町から移転してきた。
江戸の歌舞伎街・猿若三座も浅草に移転し、浅草は娯楽の中心地として栄えるようになった。

明治23年(1890)の浅草はどんなところだったのだろう?
なんと、当時日本一の高さを誇った「凌雲閣」が建てられている(前年には大阪・茶屋町に同名の塔が建てられた)。その高さは約52メートル。街並みや山々を一望できるその眺めは評判を呼び、開業当初は多くの客が足を運んだ。また「日本初の電動式エレベーター設置」「日本初の美人コンテスト開催」など、多くの話題で人々の注目を集めた。

明治23年(1890)当時日本一の高さを誇った「凌雲閣」が浅草に建てられた。高さ約52メートル。

6年前の明治17年(1884)には、浅草公園が拡張整備され、興行街のいわゆる「六区」ができ、日本のエンターテイメントの中心となった。

新築竣工した皇居(宮城)と新設15区。皇居から神田川を挟んですぐ東側に浅草区がある
浅草六区
浅草公園花屋敷

明治20年(1887)には東京で電力が供給されはじめ、まちに電柱が立った。岐阜の山村から出てきた宮松にとって、この光景は眩く、心が浮き立つモノだったのではないだろうか?

東京電燈会社の、電気は安全で便利だと伝える広告

当時の東京の風景は、谷口ジローと関川夏央の『坊ちゃんの時代』シリーズに詳しい。
人々のほとんどは和装だが、ハットやハンチングを被っている人が多い。
土の道には、人力車の轍が縦横に刻まれていて、自動車はまだ少ない。
新橋・横浜間にはすでに鉄道が走っている。無論、線路は路面にある。

谷口ジロー+関川夏央の名作『「坊ちゃん」の時代』より
谷口ジロー+関川夏央の名作『「坊ちゃん」の時代』より

そういう時代に、宮松は、浅草にやって来た。
当時の「浅草区向柳原町1丁目」は、隅田川の西側、神田川のすぐ北側にある。
上野恩賜公園まで1.6km、歩いても20分くらいだろうか。

「今昔マップ」より。左が1896~1909年の浅草区向柳原町、右が現在の台東区浅草。

江戸時代に武家屋敷だった場所を明治政府が一般住民の住むまちへと変えた。向柳原町はそのような時代背景のもと、明治5年(1872)に誕生した。万世橋から柳橋にかけて、神田川の南岸には柳が数多く植えられていた。その対岸の北岸に位置することから、向柳原町と名付けられた。
近くには、小堀遠州が作庭した廻遊式庭園の「蓬莱園」がある。

僕の仕事は広告制作や雑誌制作だ。アートと親和性が高く、エンターテイメントとはシームレスでつながっている業界だ。
父・秀行は新聞記者だったが、かつては映画監督を目指したと聞いたことがある。大学時代は石原裕次郎と同級生だったと、僕は何度か自慢話を聞かされた。彼の夢の片隅には、エンターテイメントの世界で活躍する自身の姿があったのではないだろうか? そして、曽祖父・宮松も。岐阜の山村を飛び出して浅草にやって来たというのは、そういうことではないだろうか。

家を顧みず、勇躍したがり、独立したがる。賑やかな場所が好きで、エンタメへの憧れがある。
座馬家とは、どうやらそんな血筋なのかもしれない。

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