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真夜中の酒屋、うつろう

 最低の気分だった。眠りに裏切られて目が覚める。
 スマホを確認すると午前3時。ベッドに入ったのは1時過ぎ、寝返りを繰り返した浅い眠りは1時間も持たなかった。ここ数日間ずっとこんな感じだ。食欲もないせいで目も落ちくぼんでいる。
 オレはあてもなくアパートを出て、湿ったコンクリートの道を街灯を数えながら歩いた。パーカのフードを被ると自分の世界が出来上がる。

 1年ほどの付き合いになるサミの様子がおかしくなったのは、アパートの更新時期が迫ってきて結婚を意識し出した頃だ。どうせ引っ越すならどうせ結婚するなら、と覚悟を決めた途端元カレと連絡を取り合っていたことが発覚した。
 サミの元カレとは年上の妻子持ち。いわゆるフリンだ。
 ボクとサミは最初は友達同士だった。社会人のフットサルチームに誘われて参加するうちに、応援にきていたサミと仲良くなった。気安い飲み友達を続けていくうちに、華奢な見た目の割りに気が強くて快活なところに徐々に惹かれていった。
 ショートカットに細いうなじ、小さな顔に小さな目鼻という少年のような風貌と、これまで付き合ってきたどの女よりも色気も女らしさも薄かったけれど、そこも愛らしく感じてくる。
 そんなサミから実は妻子持ちと不倫中と告白された時、すでに惹かれ始めていたボクは我慢した。焦って「そんなやつとさっさと別れろよ」とさもお前のためだと諭したり、真面目腐って「奥さんのこと考えろよ」と説教じみたことを言うでもなく話を聞くだけ聞いて、ただ待った。
 夜中の泣き言も、土日の孤独も、全て受け止めてひたすら「いつかは気づいて自分の方を向いてくれる」と言う期待にすがっていた。
 そしてとうとうその日はやってきた。
 サミの誕生日。会えるはずの彼との約束が流れて、泣き言と愚痴が入り混じる連絡に「じゃあ代わりに祝ってあげるよ」と約束を取り付けたのだ。
 そこからはさっぱりした顔で「別れる。今度こそ」と決意したサミはボクの恋人になった。

 スマホなんか見なきゃ良かったのか。
 ボクは無防備に置かれたサミのスマホを何の気無しにのぞいてしまった自分の愚かさを呪う。ポップアップに表示された名前を見た途端、ボクの顔はこれ以上ないくらい歪んだ。
 どうしたの?サミに聞かれて平静さを保つほどボクはクールな人間じゃない。罪の意識のかけらもないつるっとした白い頬を眺めていたら、急に腹の底から怒りが吹き出したのだ。まさか、まだ会ってるとか、元サヤとかそんなことない、よな。

だって、しょうがないじゃない。

 サミはそう言うと、ボクが思わず掴んだ自分の腕を見て「痛いよ」と顔を逸らした。こんな時でもボクは、サミの美しい細いうなじに見惚れていた。

 本当にまた付き合い始めたのか、連絡をとっていただけのか、正直なところいまだにわからない。ただあれからサミからの連絡はない。これは、認めたということではないのか。脱力して何もかもどうでも良くなる。実際フリンをしていると言ったサミを一瞬だけ軽蔑した。蓋をして見ないフリをしてきた感情がむっくりと再発してくる。
 別れるしかないのか、もう。
 ぼんやりと交互に視界に入るスニーカーを眺めながら歩いていたら、道に伸びた細い灯りが目に入った。顔を上げると、いつの間にできたのだろう。カウンターの立ち飲み屋がある。
 引き戸の上半分がガラスで「酒屋うつろう」と黒の縦文字で描かれてあった。あかりの向こうにはカウンターが伸びていて、一番奥に人の姿が確認できた。特にあてもなく出てきたので財布は持っていないけれど、スエットのパンツのポケットには千円札が二枚入っている。
 一杯ぐらい飲めるか。
 深く考えることもなく、ボクは引き戸に手をかけた。ガラリと乾いた音がして「いらっしゃい」と若い男の声がする。先客は1人。白髪混じりの作業着男で、おでんを突きながらボクを一瞥した。
「えっと、手持ちこれしかないんですけど」
 ボクはカウンターから顔を出した店の男に、ポケットから取り出したシワになった千円札二枚を見せた。先客が「金持ちだなぁ、兄ちゃん」と笑う。
「充分ですよ、どうぞ」
 二歩進んでカウンター内の店の男が顔の大きさの割に背がひょろりと高いとわかる。ボクは少し戸惑いながらも、カウンターの真ん中についた。先客は特に構うことなく、コップ酒を淡々と口に運んでいる。どこを見ることもなく、誰と話すでもなく存在している先客はまるで酒屋のセットのようにその場に馴染んでいる。常連だろうか。
「何にしますか」
 ボクはとにかく目についた中でリーズナブルな芋焼酎お湯割を頼んでみる。お通しとしてマカロニサラダが小鉢で出てきた。何も食べる気が起こらなかったのに、焼酎をひと舐めしただけで一気に貪った。甘たるいのと塩気と卵が荒く混ざった雑な味が、妙に舌に絡む。胃がぎゅうっと押し上げられる感覚がして、ボクは思わず俯いて呼吸を整えた。
「大丈夫かー、兄ちゃん」
 全く押し付けがましいところのない、無味な声で先客に言われ、ボクはようやく顔を振って答える。
「そろそろ心通点、麻痺させますか?」
 は?ボクは顔を上げる。店の男は切れ長の目に細い鼻、色素の薄い縮れた栗毛、茶色がかった瞳が異国の血を思わせる顔立ちだ。
「シンツウテン?」
「心の痛みです、一旦麻痺させると楽になりますよ。あなた」
 ボクは男の瞳に吸い込まれるように視線を外せない。

 夢か。
 目を開けると、昼間の天井が味気ない顔をしてボクを見下ろしていた。内容は思い出せないけれど変な夢を見た感触は残っている。ベッドに起き上がり一旦足を下ろすと、自分の手足が少し遅れて動くような妙な感覚がした。
 スマホで時刻を確認すると昼の11時を指している。数日ぶりにたっぷり寝た。そのせいで頭がぼうっと霞んでいる。
 途端に腹がぐうっと鳴る。腹が減ったと自覚するのも久しぶりだ。仕事で倒れるわけにはいかないから、無理やり口から押し込んだ食事を胃薬で流し込むような日々だった。
 何か買いに行こう。立ち上がると小銭の音がする。スエットのポケットから、百円玉4枚としわくちゃの千円札が一枚出てくる。何か、忘れているような気がするけれど、とりあえずコンビニで腹の足しになるものを買う方が先だ。
 ボクはサンダルを引っ掛けて、アパートのすぐそばにあるコンビニに通りを渡って買い出しに行く。その途中、「あ、そうか」思わず声に出したのは、サミの友達でもある萌ちゃんのことを思い出したからだ。まだ友人だった頃、時々サミが連れてきた友達萌ちゃん。個人的にも連絡先を交換して、一時期は見え見えに好意を寄せてきた。
 今さら連絡して何を聞こうと言うのだろう、冷静な頭ではそう考えているのに、勝手に指がスマホを操作して「萌ちゃん」にコールしていた。日曜日の真昼間、いきなりメッセージも送らないで電話をかける男ってどうなんだ。
「はい」
 意外にも萌ちゃんは少しだけ警戒した響きを含ませて電話に出てくれた。それだけでも自分への好意のかけらを探してしまうボクは図々しい。
 何て言おう。かけておいて何だけれど、ボクは沈黙してしまう。ただ向こうは気の利いた察しのいい子なので「サミのこと?」と先手を打ってくれる。それが彼女になびかなかった一番の理由だ。
 うん、とも、違うとも取れるような曖昧な息を吐いて、ボクは萌ちゃんが口を開くのを待った。「しょうがないなぁ、もう諦めれば?サミはもう限界だって。もともとはサミが一番弱ってる時に付き合い出したわけでしょ。あの子の性格からしてそう言うの無理だと思うんだよね。フェアじゃないカンケイっていうの?」
うん、うん。ボクは萌ちゃんがやや責めるようなトーンになっていくのにぼんやりと相槌を打つ。萌ちゃんの言葉1つ1つが耳の中に落ち、そこから喉を通って胃のなかに落ちて最後、腹の中にポトリポトリと沈んでいった。
 限界、フェアじゃない、サミとはもう終わり。そうか、サミとボクとのことにそもそも元カレは関係なかったんだ。
 
 ボクは、サミは自分から離れないと思っていた。我慢して何時間も親身に話を聞いた。眠れない夜も、予定のなくなった昼間も、全部知っている。それもこれもボクの好意を利用している自覚が、サミには充分すぎるほどあるとわかっていたからだ。必ず、報いてくれる。その確信があった。そしてその気持ちは、愛情にもっと粘度のあるクリームを混ぜ込んでくれると信じていた。
「もうこんなふうに電話してこないでね。彼氏に誤解されると嫌だから」
 萌ちゃんは勝ち誇ったように宣言すると電話を切った。
 なるほどそういうことか。ボクはコンビニの前、寂れたベンチに腰掛けながらスマホをしまう。もう一度お腹がぐうっと盛大な音を立てた。
 ああ、飯だ。腹が減ったんだった。
 ボクはふわふわした体をコンビニの自動扉に通す。軽快な音を合図にした店員のおざなりな挨拶にようやく、口の中に甘いマヨネーズの記憶が戻ってきた。
「あ!」夢じゃない。

「いらっしゃい」
「あ、死にかけの兄ちゃんだ」
 ボクはあの店にいた。カウンターだけの立ち飲み屋うつろう。奥にはまた作業着の白髪の男。
 あれからコンビニで買った弁当二個とプリンとアイスを平らげて死んだように眠った。そして真夜中にむっくり起き上がってやってきたのだ。
 目の前には芋焼酎お湯割りとお通しのマカロニサラダ。
「心痛点、戻しますね」
 マカロニサラダを眺めていると、耳元でそう呟かれる。
「痛みってなきゃないで生きていけないんですよ、不便ですけど」
 ボクの頬につうーっと涙が通っていく。急激に締め付けられる喉に、息が苦しくて一瞬めまいがした。「深呼吸して。キミは大丈夫だから」。そっと肩を揺さぶられてようやく、感覚が自分の中にずんと戻ってくる気配がする。痛くて怖くて重い、全ては確かに自分のものだ。

 あれからあの飲み屋を探すのだけれど、昼間に行っても夜中に行っても一向に見つからない。誰に聞いても知らないし、辿った道を思い出そうにも必ず途中で曖昧に迷う。
 あれからボクは、時々マカロニサラダを食べては「大丈夫だよな」と呟くのが癖になった。多分あそこには二度といけないのだろう。それで、きっといい。
(了)

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