第1章 2016年2月〜3月

「こういうのあるんやけど、興味ない?」
人事課長が見せてきたのは、とあるセンターのパンフレットだった。

2016年2月中旬、人事課に呼び出された私は、何を言われるのかとビクビクしていた。勤務態度はマジメなつもりだったので、どう考えても男にしては長すぎる髪を注意されることしか思いつかなかった。もし注意された場合、「実はオネエなんです」と、嘘のカミングアウトをするしかないと腹を括っていた。結果、予想に反した東京派遣の打診だったわけだ。

そのセンターは、全国ほとんどの自治体が会員となっている団体と聞いた。私が勤めるI市は、Y前市長時代に全国初となる会員脱退を果たし、それが現在のK市長になってから再加入することとなった。再加入する以上は有効利用するため、職員を派遣する流れになったそうだ。

「少し…考えさせてもらってもいいですか?」
妻の承諾を得なければならず、即答はできなかった。しかし、それさえ得られれば、行くと即決した。

当時、家を建てるための土地を地元で探していた私は、この打診の少し前に好条件の土地を買い逃したばかりだった。その落胆もあった中、東京行きは運命のような気がした。また、娘が幼稚園へ行くようになれば、そう簡単に地元を離れられなくなる。妻の性格を考えても単身赴任は許さないだろう。長い人生、2年ぐらい東京暮らしも悪くない。チャンスは今しかない。そう思った。

帰宅後、妻はあっけなく東京行きの許可をくれた。
「東京へ行きたいなら付いていくわ」
ただそれだけだった。専業主婦で身軽とは言え、ママ友の繋がりを捨ててまで付いて来てくれたのは今でも感謝している。

翌日、私は人事課長へ承諾の旨を伝えた。人事課長は派遣職員が決まり、どこかホッとした風だった。後から知ったことだが、私は何人目かの打診だったらしい。打診された一人には同期もいた。彼は行きたかったそうだが、妻の仕事の都合と大きすぎる金銭的負担により断念した。

そう言えば、人事課長からこんなことを言われていた。
「派遣にあたって、引越しの補助はあるけど、地域手当は変わらんし、家賃補助も上乗せがないねん。」
「あぁ、はい。構いませんよ。」と、適当に私は答えた。この派遣の扱いが普通じゃないことをセンターへ行ってから知ることになる。無知とは恐ろしい。

その日から関東での家探しが慌てて始まった。少し前まで永住地を探していたはずが、いきなりの賃貸探し。人生とはドラマチックだ。
家賃補助が上乗せされないので都内のマンションに住むのは無理そうだった。東京生活の経験がある親戚などにアドバイスをもらいながら、千葉県市川市あたりにターゲットを絞った。2月下旬、家族全員で現地を見て回り、東西線の妙典駅から徒歩15分程度のマンションに決めた。

その翌日は東京マラソンの開催日。観光ついでに上った東京タワーから豆粒のようにランナーが見えたのが今でも思い出深い。1歳になったばかりの娘にとって、皮肉にも初めての家族旅行となった。

家探しが終わり、仕事面でも整理を始めた。入庁から5年、再開発事業担当課から都市計画課への「異動」はあったものの、仕事を引き継いでの「移動」に過ぎず、今回が初異動と言っても過言ではなかった。

ずっと一緒だった二人の上司は、仕事がとてつもなくできる人たちだった。この人たちの下にいたことで、私は普通に仕事をしているだけなのに庁内で評価された。「あの二人の下でやっていけてる奴、ヤベー!」みたいな感じ。センターへ行けたのは二人のお陰だろうし、私の仕事の基礎を築いてくれたので、今でも尊敬している。

壮行会の日、「絶対に泣くなよ」と上司から言われ、私は泣かなかった。代わりと言っては何だが、二人の後輩が私がいなくなることを惜しんで泣いてくれた。
「何で泣いてんねん!」と、私は笑いながらバカにしてやったが、内心嬉しかった。上司から色んなものを与えてもらったように、私も後輩に何かを与えられていたかと思うと、本当に仕事をしていてよかったと実感できた。

いよいよ地元を旅立つ日を迎え、20代後半すべての喜怒哀楽が詰まったマンションを離れるのは相当辛かった。
3月末から4月上旬にかけての引越しは高額だったため、4月中旬まで布団以外の荷物はないまま、新しいマンションで一人暮らすことになる。

「すべては自分で選んだ道だ。」
辛い時にいつも繰り返すフレーズを胸に、私の挑戦が始まった。

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