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ファム・ファタルの運命

福岡市美術館に、ギュスターヴ・モロー展を観に行った。
前知識はほとんどなし。図録も買わず、音声ガイドも借りず、展示に付け加えられた解説だけを頼りにしながら、自分なりに想像したこと、連想したことをまとめたい。

まず、心理職として、私が普段からしないように心がけていることがある。
それは、むやみやたらと、他者の心理を分析しない、ということだ。
どのような心理的な背景や体験があるのか、どのような性格であるのか、病理を有しているのか、なにかの疾患ではないのか等々。
仕事以外の場で目の前で会う人に対して詮索しすぎないことと同時に、会ったことがない人についても決めつけることを避けたい。
それは、自分だけはわかるのだという傲慢さへの自戒であり、他者の内面に踏み込んで暴きたてて傷つけることへの自戒である。
時に犯罪のような問題を起こして話題になった人に対して、知的な能力はどうか、発達の偏りはあるか、愛着の問題を有していないか、外傷体験を有していないか、人格傾向はどのようなものであるか…と、好奇心が働き、推理しようとしてしまう。しかし、過剰な憶測をあたかも専門家として知りうる真実であるかのように語ることは控えなければならない。
だが、そのように理解しようと働く思考を鍛えるために、架空の創作物においてと、既に死した人においては、想像を身勝手に膨らませることを、自分に許そうと思う。

さて、モロー展での目玉の作品は、なんといっても『出現』と題されたサロメを描いた油絵である。
今回の展示では、ヨハネの処刑場面やほぼ全裸で緊張した面持ちで中央にたたずむサロメ、オリエンタルな豪華な衣装を身につけて蓮の花を持つ横顔など、いくつものパターンがあった。
画家が、場面を変えたり、パーツを換えたりしながら、これぞ!という一枚を作り上げていくプロセスが示されており、非常に面白かった。
後にパーツとして組み込まれていくであろうデッサン、試し書きとしての水彩、そして、油絵で構図や色合いを探り、作り上げていく。
絵を描く人ならこうした試行錯誤の末に作品が作り上がることは自明かもしれないが、そうではない私には、やはり新鮮で面白い。
主題や構成の発展、進化の系統図を用いて説明されていたことから、素人にもとてもわかりやすかった。

時に19世紀。パリ万博があり、ヨーロッパがオリエンタルなものへの興味関心を高めた。
モローの描くサロメは、菩薩立像に見える。
豪華な衣装、ふんだんなアクセサリー、高い冠、少しうつむきがちで伏し目がちな横顔、ふくよかでたくましい身体(場合によっては中性的に見える)、右手に持つ蓮の花(クルクマのようにも見える)。
その時の流行である東洋や中近東の要素を取り入れながら再構築された、サロメという少女は、東洋の文化に馴染む私からすると、どこがどうして、ファム・ファタルになるのか、とても謎に感じた。
彼女の物語を聖書で読んだことがある身として、そもそも、どこにどんな風に投影なり同一化なりすることで、男性が魅力を感じるのかがよくわからない、というのもある。

もしかしたら、モローも、ぼんやりと心牽かれる主題の、どこになぜ惹き付けられるのか、手探りしていたのかもしれない。
私なりに感じた展示のテーマは2つある。1つ目は、誘惑は見る側が対象から衣装を剥ぎ取ると同時に勝手に押し付ける欲求である、ということ。誘惑者はけして自ら誘惑しようとしていなかったのではないか?という問いである。
2つ目は、モロー自身の同胞葛藤や母子葛藤が彼を欲望が希薄でなければならないと振る舞わせていたのではないだろうか?という、問いというよりも心配である。

まず、1つ目のほうを取り上げる。
縦長の大きめなキャンバスの中央に、恥じらうように見える全裸のサロメ。
ヨーロッパ系の、白い肌、金茶色の長い髪。顔立ちも幼く、体型も発達しきっていない。その右後ろでひそひそと話し合うような人々が三名。けして良い噂ではないことを伺わせるような、意地悪な目線をサロメの臀部に向けている。
その絵の、サロメの可憐さと無防備さに胸が痛くなる。この幼い少女を剥き出しにして、大人たちは彼女になにをさせようとするのか。なぜ、この絵にサロメの名を冠したのかさえ、よくわからなかった。

ついで、中世のタペストリーに題材を得たという一角獣が寄り添う乙女たちの絵は、蠱惑的であると表現する人もいる。
私は、なんでまた、女性を脱がせなくてはならないのだ?という矛盾に満ちていると思った。
最低限の常識として、一角獣は処女にはなつく、ということがある。だから、一角獣が寄り添い、触れることを許した女性は、性交渉の経験がないということになる。処女が誘惑すれば、一角獣は捕まえられる、とも言われる。
そこで再び、純潔と誘惑のテーマが交差するのだ。
画面の若い女性の無関心な、無表情な様子は、画面のこちらにいる人々を誘惑する意図はないことを示すと考える。
彼女たちはただその世界にいて、でも一角獣がそばにいることで、異性との性交渉の経験がないことを露呈されてしまっている。そのような存在に性的な誘惑を感じとり、裸体を剥き出しにしたいと欲望するのは、画面を見た人の勝手である。
見せられたのではない。勝手に見たのである。見たいと思ってしまったのである。

そのように、押し付けられた欲望が誘惑されたという受け身の表現で語られるときのどうしようもなさを連想した。
この連想は、トロイアのヘレンにも共通する。彼女だって、世界一の美女として戦争の火種になりたかったわけではあるまい。あるいは、ヘラクレスの妻デーイアネイラだってわざわざレイプされたいものか。
欲望はただ押し付けらる。それだのに、なぜか、女性が誘惑したから事態が起きたことにされる。まるで、ただ真面目に普通に登校している中学生が痴漢被害にさらされるように。そういう理不尽を、これらの絵を見ながら連想せずにいられなかった。

その上で、非常にモローに申し訳ないが、私が感じた感想をざっくりとそのまま言葉にすると、性交が苦手じゃない?ってことだった。
これが2つ目のテーマである。
なぜ、このように感じたか、自分の感覚を言葉にしながらときほぐしてみたい。
第一にモローが愛したとされる女性アレクサンドリーヌに「修道女のような」という形容詞がつくが、これは何を意味するのか、誉め言葉であるなら具体的にどのようなことを誉めているのだろうか。あるいは、性的なニュアンスを拒絶や否認するような、真面目さや規則正しさ、潔癖さをイメージする形容のように思った。
第二に会場に展示されていたモローの年表において、母親モーリーンがモローの最初の恋人の妊娠に対してよくない印象のコメントをしていたかのように思う。別れてよかった、的な。正確な文章を記憶していないので、間違っているかもしれないが。
第三に、モローは母親の息子である。それも、19世紀の文脈に沿って、献身的に老母を世話した息子であるなら、母親は息子を伴侶のように愛し、頼り、束縛したのではないかと想像する。モローは母親を置いて家を出て、自分の中の家庭を持つことは許されなかった。望む望まないの前に、ほかに選択肢はなかったのではないだろうか。そう考える私のなかで、モローは映画『JOKER』でホアキン・フェニックスが演じたアーサーの姿が重なって見えた。
そして、第四に、一歳違いの妹が10代の時に死亡していること。これも、現代ならトラウマティックな体験になっていないか、気に留めるエピソードだ。難しいのは死生観は時代と地域、文化と宗教によって異なる上に個人の哲学と体験の差異があるので、一概にはまったく言えないことであるが、近親者の死はなにかしらの陰を残す。
ここまで情報を拾い集めてから、一連のサロメを見ていき、確かめようのない仮説を立ててみたくなった。

それが、預言者ヨハネが、モローの託したセルフイメージではないか、ということである。
少なくとも、『出現』のなかでは、男性が自己を投影できるような男性は、ヨハネ、ヘロデ、名もなき人々の三者しかいない。ヘロデとして、誰かの欲望のために誰かの生殺与奪を左右する人物として君臨したい…というわけではなかろう。
絵を描き重ねるにつれて、ヘロデは画面中央から左寄りに移行し、顔も存在も暗がりの中のより濃い影でしかなくなっていくからだ。
ヘロデ=モローであるなら、サロメはミューズであり、若い次の画家が芸術の女神に指名されて伝説になりかつ生け贄になるのを支持的に傍観するような、そんな絵ということだろうか。
舞台の中央から徐々に過去の栄光のような存在、忘れられていきつつある自分を意識するなら、それもまた、読みとして成り立ちうると思う。

もう1つの、モローが自分を重ねる対象がヨハネだった場合を検討するためには、聖書の当該箇所を先に確認しておきたい。
それは、マルコによる福音書第6章17-29節マタイによる福音書第14章1-12節の2ヶ所に「少女」として記載される。聖書はユダヤの伝統に基づき、誰かの妻や娘として女性は位置づけられ、必ずしも個人名で表現されない。
その少女にサロメ(シャローム:平和)の名があったことを示すのは聖書ではない。少女は人前でただ踊り(それは王女としてはしたないこととされていたが)、ただ喝采され、褒美として欲しいものを尋ねられ、母親に相談し、母親が洗礼者ヨハネの首を求めるように言い、少女はその通りにする、という流れである。
ヨハネがヘロデ王が兄弟の妻を娶ることを反対したため、その後妻となったヘロディアがヨハネを邪魔に思ったという。ヘロデ王はヨハネを投獄しても殺すことは惜しんだため、ヘロディアが一計を案じたのが、書き残されている本来の記事だ。踊った少女は、ヘロディアの連れ子であり、ヘロデ王の実子ではない。(イエスの言葉をたどれば、兄が死んだときは弟が兄嫁を妻にすることは問題ないが、ヘロディアの最初の夫は生きていたようだ)
ヨハネはイエスを洗礼した預言者。言わば新興宗教の教祖の師であり、イエスに先んじて政治的にも邪魔な存在になりつつあったとも言われる。なお、キリスト教において、預言者は神から言葉を預かる特別な人のことであり、予言者とは書かない。
資料にあたればあたるほど、諸説出てくる古代の話であるが、これを骨子に豊かなイメージをまとわせたのが、オスカー・ワイルドになる。
私はどちらかといえば、ワイルドではなく、聖書に沿ったイメージを持つ。

自分であるヨハネを殺そうとする女性は誰なのか。その女性がヨハネに恋しているようには見えないのだ。いつも目を伏せて、花で顔を隠すようにして、いる。ヨハネもまた、その女性に恋しておらず、誘惑されたいとも思っていない。
そう、ここなのだ。
ヨハネにとっては、サロメは傍迷惑な存在だ。ワイルドの筋にしたって、勝手に惚れ込んで、勝手に彼の人生を邪魔して、彼の生命を終わらせるのだ。
ヨハネはちっとも望んでもいないのに。
ワイルドが同性愛者であるから、女性から思われることはそのような体験だったのだろうと想像するが、それが一般的に異性愛である男性にとって思い入れたり、自己を重ねたり、憧れたり、魅了されるのは、よくわからないのだ。
そんなに、もてたい? もてたくない相手に思われたい? 何??となる。
その疑問符から、私のこの長々とした記録は始まっているのだが、モローはむしろもっと原始的なヴィジョンとして、自分の家族内の葛藤を描いたと考えてみたくなった。

モローが自分の母親を大事に世話したことは間違いない、と思う。
その母をデッサンし、自分の絵についての解説を筆談し、親密にコミュニケーションを取っていたことが伝わる。
そのことは、母親を喜ばせるために、モローが我慢したり、ためらったり、不満や不安や苛立ちといったネガティブな感情を持っていなかったことを示さない。
もしも、母親に自分自身のなにかしら自由な魂を束縛されたり、意思を阻害されていると感じていたりしなかっただろうか。
あるいは、妹の代わりに自分が死んでいればよかったと思うようなことがなかっただろうか。妹に対する負い目、自分だけが生き延びている罪悪感は、なかっただろうか。
サロメが妹であり、母親であるような、家族のしがらみに雁字搦めになって息も絶え絶えな画家の姿をヨハネに重ねて見たのだ。
ただ絵を描きたかっただけなのに、勝手に彼の人生を邪魔し、彼の命を取ろうとする。
黄泉の世界からの呼び声のように、サロメが彼を召喚するのだ。

『出現』のヨハネの首は空中に浮かんでおり、これは幻視であると言われている。
幻影というよりは、今まさにサロメが求めて口にした、そのセリフ内容であり、未来と現在の時間を超越して一つの絵の中に混在させる表現のように思う。
サロメはヨハネを破滅させる存在ではあった。
『出現』に描かれるまで、目線すら交わることすらなかった二人が、その世界では、見つめあい、にらみあう。
どう考えても、恋愛の絵には見えない。考えても、わからないロマンは仕方がない。確かめようがないのであるから、ただ、私の感想としてしめくくることにする。
運命の女として背負う運命は、ローマ神話のパルク、ギリシャ神話のモイラとしての、運命の女神のほうだったのではないだろうか。

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