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7月のふりかえり|小説は、叙述と描写と会話で進む

今月は駒沢敏器さんの作品を経て、片岡義男さんと出会い直した月。自分の言葉で書いて、この身体で生きてゆきたい。

7月◯日

久しぶりの海外。行き先はチェンマイ。誘ってもらったので行った。チェンマイは古都で、赤道に近く成長も早いのだろう。街中の木々の背丈が高く、心地のいい木陰の空間が多かった。
帰ってから3本のInstagramを投稿した。

>はじめてのチェンマイ
>滞在したホシハナ
>感動したパッケージ

街中の学校のピロティ。水面のような床。

エイズ孤児の支援から始まった「ホシハナビレッジ」は前から行きたかった場所の一つ。スターネットを始める前に、馬場浩史さんも訪れていたはずだ。

カレン族が暮らす山村を訪ねるデイトリップが、一人の女性によって強く印象に残った。チェンマイから2時間ほど車を走らせて、織りと藍染めの仕事をしている家族の家(兼工房)へ。車から降りると、出迎えてくれたご家族の中に、満面の笑顔の日本人女性がいた。

腰でテンションをかけ、織機になっている。

ホシハナの母体にあたる「バーンロムサイ」は、仕事でタイを訪れた名取美和さんが1999年に立ち上げた活動で、HIVに母子感染した子ども30名を国立孤児院から引き取り、ともに年月を重ねてきた。詳しくはない。サイトに経緯がまとめられている。
>「バーンロムサイ」について

彼らは経済的自立のために縫製場とコテージリゾートを運営してきた。先に書いた日本人女性は、その縫製場で働いていたという。
コロナ禍が世界中に広がった3〜4年前、縫製場を一度閉じる経営判断が下されて日本人スタッフは帰国。ただ彼女には「やり残したことがある」という想いがあったそうで、一人タイに残った。仕事も暮らしのあてもない国に。でも工房間のつながりがあったのだろう。この村に通い、カレン族の男性と出会い、結ばれて、いまはここで暮らしているのだという。

ツアーに参加した別の人から「うなぎパイ」を受け取って、すごく嬉しそうだった。「お菓子を売っている店が近くにない」「遠くの店へ行っても、日本のように美味しいのはない(笑)」。

以来ときおり「あのあたりにポツンと居るんだよな」と、彼女のことを思い浮かべる。自分なりに世界各地を訪ねてきた。「こんなところに日本人いないよね。来たこともないんじゃない?」と思うような場所に、だいたい、日本人の女性がちょこんといる。


7月◯日

行きは羽田発だったけど帰りは成田着。リムジンの中で「代表的な仕事のリスト」をつくってみたい気持ちが浮上する。あんなこともしたし、こんなこともしたなと思い出しながら、たまにこの気持ちになる。

でもそんなの自分でつくるものか?と思うし、なにより「代表的な仕事のリスト」をつくったその瞬間に「そうではない仕事」が生じてしまう。それはその仕事にも、かかわった人たちにも申し訳ない。

そもそもどの仕事も、自分が「した」だけのことで、「した」とも言えない些細なこと、思い付いて一緒に盛り上がったとか、タイミングよく誰かを紹介したとか、仕事というよりあり方に近い「働き」の方が、よほど自分にも周囲にも大きな影響を与えていると思う。
おだやかでいたいし、親切でいたい。あり方について思うのはそんなことで、そんなことを考えているうちに、「代表的な仕事のリスト」をつくりたい気持ちは霧散している。


7月◯日

選定委員としてかかわる「東京アートポイント計画」が、「〝わたしたち〟の文化をつくる」という公開ミーティングを開催。市ヶ谷に行った。

小林瑠音さんの、「プロダクト(成果物)かプロセス(過程)か:1970年代英国アーツカウンシルのコミュニティ・アート政策を中心に」というショートレクチャーが面白かった。

設立時に経済学者のケインズがかかわった英国のアーツカウンシルが展開した、「数本のバラから多数のたんぽぽへ」という活動。つまりトップアーティストによるハイカルチャーより、市民の日常的な文化活動を喜び育んでゆこうという動き。
関心を持った小林さんが渡った頃、もうその時期は終わっていたらしい。滞在中の研究成果をまとめた本が、今年出版されている。

ケインズが英国芸術協議会(Arts Council of Great Britain)の初代会長に就いたのは1946年、63歳のときで、その年に亡くなられている。優生学を支持してもいた彼が、最後に「多数のたんぽぽ」を大事にしようとしていたのはどういうことなんだろう。

金本位制の停止にアメリカが踏み切ったのは1933年だ。お金がお金を集めるどころか、みずからその総量を増やしてゆく社会になって、人間はすっかり追い越されている。結果的に人から「時間」が奪われてゆく状況下で「多数のタンポポ」もなにもないだろ──という気持ちで聞いていたが、自分に理解できていないことの方が多いはず。歴史的経緯を含み、知りたいことはもう本当にいくらでもある。

でも器に入らないものは盛れない。カバンに入りきらないものは持ってゆくことができない。時間は限られていて、それ以上のことはできない(少なくとも一人では)。一日もそうで、その一日以上のことはできない。やりたいことの方に時間や身体を合わせると不具合が生じる。
鈴木昭男さんの昔の彼女の「持っているレコードはその時期に聴きたい一枚だけ」や、ブラジルのインディオ、アユトン・クレナックの「大切なことは一日に一件しか入れないようにしている」というあり方が、自分には輝かしい。決してそうでないから。アユトンについては以前この本で読んだ。

翌日、下北沢で見たフィリベール監督の映画『アダマン号に乗って』で、「誰もが自分のことで忙しすぎる」という言葉を聞いた。そう思う。


7月◯日

来月奈良の図書館で開催する「BOOK, TRAIL 3」の告知ツイートをコツコツ重ねる。予習を兼ねて、ゲスト紹介のツイートをけっこう連投した。

個人的な学びにはなったし面白い。こんな人に会えるんだ。が、ツイートへの手応えが感じられない。私をフォローしている人たちは、もうあまりTwitterを開かなくなっているのかも。自分もそうだし。困ったなあ。


7月◯日

高尾山のふもとで、日本仕事百貨の合宿をファシリテート。昨年9月の初回から数えて4回目。

ケンタ代表が昨年9月に持ちたかった時間を、ようやく、みんなと持つことが出来た感じ。直登せず、10ヶ月かけて迂回路を辿り、全員で尾根筋に上がった。つづく山の連なりが見えると、気持ちも歩き方も変わるよね。日々の仕事の視界はどうしても足元が大半になってしまうものな。

二日後「1 on 2」の提案を兼ねたトライアルを、ケンタ氏を含む一部のメンバーと持った。この会社の文化として定着するかどうか。
私はあまり1 on 1を信頼していない。上司・部下の関係で交わしても、多くの場合業務の相談になりやすいだろうし、なにより密室劇になってしまうのがいちばんの難しさだと思う。


7月◯日

小田原の書店「南十字」へ、知名オーディオのプレゼンテーションを聴きにゆく。

「南十字」は、小田原出身の鈴木美咲さんが、二人の友人と開いた書店だ。彼女は去年同時に「風鯨社」という出版社も立ち上げて、駒沢敏器さんの遺稿『ボイジャーに伝えて』を出版。その中に知名オーディオのスピーカーの話が出てくる縁から実現した小さな集いで、一般募集前に知り合いで席が埋まったと笑っていた。

駒沢さんの本では『語るに足る、ささやかな人生』が好きだ。人口3,000人足らずのアメリカの小さな町を車で巡って書かれた、2005年の一冊。

都会はいっさい通らずに、スモールタウンだけをつないで全米を横断するのは、長年の課題だった。いつかは必ずそれをしなければならない、と思っていた。実現させれば面白い旅になるのはわかりきっていることだし、それを文章で再現したなら、ある種の短編集のような趣になることもまた、自明だったからだ。

「おわりに」より

Google Mapで北米を見ると、ウィスコンシン州のダーリントンに自分が星を付けている。この本の中で駒沢さんが立ち寄った町の一つで、そこで出会った女の子は彼にこんなことを言う。

スモールタウンは、私みたいな作家志望の中学三年生には、最適の場所かもしれません。そもそも都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょう? しかしこのような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。この町の人が喋る言葉には、その人ならではの人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みがあるんです。

「はじめに」より

この子はすでにノート3冊分の短編を書いていたらしい。半ば圧倒されながら駒沢さんは「キャシー・スミスという名前を忘れずにおこう」「絶対モノになる」「これでデビューできなかったら、アメリカ小説を支えている層の厚さはやはり想像以上に凄いということになる」と書き留めている。

いまキャシー・スミス(Kathy Smith)で検索しても、それらしき人は出てこない。『語るに足る…』は絶版で、Amazonでは文庫に4,000円の高値が付いている。鈴木さんは、風鯨社での再出版を考えていると話していた。

「南十字」の棚は素敵。近所の人が羨ましい。

小説は、叙述と描写と会話で進む。駒沢さんは叙述と描写が上手で、とくに日本の自然を捉え直す文章に圧倒された。そして自分が30代の頃、センソリウムやサウンドバムで試みていたこと、つづけてリビングワールドで取り組もうとしていたことを思い出させてくれた。まいったな、思い出しちゃったよ。やるのか?

「リビングワールド/Living World」は、人間社会のことで目一杯の私たちが、生きている世界を感じる、窓をつくるアイデアだ。いろいろな種類の窓をつくる。

すこし形にし始めたところで東日本大震災が生じ、窓の外に広がっていたものが力ずくでなだれ込んできたのと、政治家等が重ねてゆく社会の劣化に「花鳥風月どころでない」気分が強まって、前線を個人のあり方に戻し『自分の仕事をつくる』のつづきを書いたり「インタビューのワークショップ」を開いていたのが、ここ10年少々の流れだった。


7月◯日

関西の大きな会社の社内イベントで、4人の本部長さんの話の聞き役をつとめる。
会社や組織にかかわる仕事は、本人たちには難しいことがあるよな…と思いつつ、本人たちでないとできないことが大半なので、わきまえが重要。とはいえ楽しい時間だった。

翌日、ミズノスポーツ振興財団のコーポレートミュージアムを訪問。2006年にリビングワールドが設計した空間で、以来毎年更新を重ねている。
この間にシステムの刷新が何度もあり(Windows自体がアップデートするし、複数の技術のサポート期間が終了してゆくため)息の長い表現にデジタルメディアは適していないな…と思う。石碑を見直す日が来るとは思わなかった。


7月◯日

海外のロングトレイルに長期間渡航することがあるのを前提に「ファームマート」でドーナツを揚げる仕事に就いたケンさんという若手が、アメリカ西海岸のパシフィック・クレスト・トレイル(4260km)を歩いた報告会を開くというので代々木へ。(右がケンさん)

アメリカの人間性回復運動には、「ヒューマン・ビーイン」のような集会現象と同時に、自分一人分の食糧や燃料を担いで何日間も森や山を歩くソロ・トレッキングの二つの姿があったと思う。後者のキーテクノロジーはフレーム型のバックパックで、いまはそれが「ウルトラライト・ハイキング(U.L. HIKE)」に進展している。

ULハイカーではないが、彼らが嬉しそうに語る「自分に必要、かつ持ち運べるモノの量がわかる」喜びには共感する。そういう充実はいい。


7月◯日

原宿の「CIBONE」でリビングワールドの「太陽系のそと」(銀河系の立体模型)の取り扱いが再開。ご挨拶に伺うと、隣に「elements」の花器が並んでいて嬉しくなる。graf卒で、いまはそれぞれの仕事を重ねている3人組の仕事だ。

表参道のアウトドアショップ「UPI」の前を通りがかって、先日ケンさんが推していた軽量の浄水器を買いに入ると、店員の女性が、従業員感の薄い「本人がいま目の前にいる」感じのするひとで楽しかった。
メリノウールの靴下を見ていたらワーッと話しかけてきて、素材や縫製の良さや、「別のスタッフが一週間履いて試したけど臭くならないんですよ!」といった熱弁をくり広げてくれた。買った。

店内には小川が流れ、川魚が泳いでいた。


7月◯日

東京都美術館で「アート・コミュニケーション事業を体験する/2023」が始まり、プログラムの一部を手伝いに行った。

12年つづいたんだ。素晴らしい。

十数年前、東京都美術館の今後を考える東京都の有識者会議では、けっこう辛辣な意見が飛び交っていたらしい。ザックリ書くと「貸し館業に安住して、館の独自性を模索していない」という評価が多かった様子。

でもそこから仕切り直し、コレクションからコミュニケーションに舵を切って、「とびらプロジェクト」などアート・コミュニケーション事業の実態を積み重ねてきた先にこの展示がある。実態のない展示はつくれないし、ここから2週間会場で来館者とかかわる「とびラー」の足元には彼ら自身が育んできた文化があるわけで、それは誇らしいことなんじゃないか。

東京都だから。予算があるから。都会は文化に関心が高い人の母数が大きいからできるんだよねと言う人がいるだろうな…と思いつつ一緒にやってきたが、あらためて思うのは、いくら都や財団や館や藝大がやりたくても、この人たちが時間を投入しなかったらできていない。「とびラー」たちが。大学生から高齢者まで、働き盛りのビジネスマンや、子育て中の女性たちまで、男性も女性も、おそらくクソ忙しい日常の中で相当量の時間を投入して実現している。

この人たちが凄いなと思うし、大勢がかかわるプロジェクトだからこそ、それが十分意味のある時間になる設計やマネージメントが要る。


7月◯日

駒沢敏器さんの本を読んだ先で、無性に片岡義男さんの本を読み直したくなり、昔まとめて手放したものを馬鹿みたく買い直す。片岡さんについて若林 恵さんが書いたテキストも見つけた。

若林さんは文章という形で音楽を奏でていると思う。読み手が頭や心の中で体験する、時間軸をともなう表現を形にしている。書くことを仕事にしている人はみんなそれをしている。「読む」ことで針が落とされるレコードのようなものを、紙や画面の上につくっている。


冒頭のつづき。昔、一週間の断食がうまくいかず辛かったとき、つい「別のに乗り換えたい」と思ったのは申し訳なかった。この身体しかないのに。