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骨を外してくれる男

娘が高校入学祝に、おばあちゃんと1週間、海外の親戚のもとへと旅立った。
私はこの1週間で仕上げたい仕事があって、20時過ぎても食卓でPCにつかまっていたら、夜勤明けの夫I氏が起きてきた。
「眠いけど、いま起きないと、次の勤務の前の睡眠ができない」

というので、「じゃあ、ナムル作って」と言ってみたらしぶしぶほうれん草と豆もやしのナムルを作ってくれた。

ほっけを焼いたところで、私の分の箸を置き、骨を外して「さあどうぞ」と言ってくれたことに静かに感動する。

夫I氏とは、友人の友人として、大人と子供で20人以上がいる合宿みたいな先で出会った。
その時も、私がみんなの日本蕎麦の食べ残しで作った焼き蕎麦(ごま油で炒める)を、「うまいうまい、焼きうどんじゃなくて、焼き蕎麦、あっていいよね!!」と本当に興奮して喜んで食べていたのを覚えている。
合宿から帰った後、縁となった友人宅での飲み会で、独身のおっさん(当時42くらい)の彼が、集まっていた子どもたちのご飯茶碗に、ほぐした焼き魚を身を載せてあげてるのを新鮮な気持ちで私は見ていた。
そして、私の茶碗にも、彼はほぐし身を載せてくれた。

これが結構衝撃だった。

当時私は、シングルマザーになってから、その第一子を手放し、かと思ったらすぐに婚外子を出産して、精神的にはその子を抱えるようにして育てていた。

常に自分は餌を獲得し、子らに与える役割を担っていた。
もっとさかのぼれば、高校生のころから自分の弁当を作り、早く自活したいと願い、18で上京してシェアメイトの分も弁当を作り自炊を続けてきた自分にとって、「焼き魚の身をほぐして、茶碗のごはんの上に載せてくれる存在」は、いま思えば、白馬に乗った王子以上に、おとぎ話っていうか、想像の斜め上。

これが嬉しいかというとそうでもなくて、私は箸も器用に使えるし、魚の身は自分でほぐせる。プレゼントとかがあまり喜べなくて、自分で選んで買い物したい派。

それでも、8年とか同居している夫I氏が、サービスではなく本人の資質として、魚を焼いたら骨を外して差し出す、という動作を自然にやるとき、感動する。助かるからではなく、動物的な父性なのかもしかしたら母性かも?に、守られて慈しまれている感じがするからだろう。

自分で作ったものでの晩酌に飽きたころに、私が一週間以上前に仕込んであった常備菜であるピクルスを出したら、これまた大喜びで。

「うまい」「これは売れる」「しみしみだよ~!」

と絶賛してくれた夫I氏の、愛発信機能に、溺れるどころかむしろ客観的に観察してしまう、当事者研究者な私でした。

(とりあえず記録したけど、これどういうシリーズになるのか)

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