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幻想浪漫逃避行



「ねえ。私をさらって」

 彼女がそう云った時。何云ってるんだろう、この女は。そう思った。僕のことなんて何も知らないくせに。
 真沙子は、僕が出会って来た女たちの中でも群を抜いて美しかった。
長い髪は腰まであり華奢な体は簡単にポキッと折れそうだ。ぞっとするほどの白く蒼い肌。
「さらって、どうするの?どこに行くの?」
僕はその髪を触れる。薄茶色の絹糸の様だ。
「いいのよ、どこだって。私はあなたが好きなの。あなたに乱暴に愛されたいの。滅茶苦茶にされたいの」
そうか。真沙子は僕の中にある情熱を感じ取ってくれたのか。
「出来たら、ロマンティックな逃避行をしたいの」
 それは大多数の女たちの願望のアーキタイプの様である。わかりやすい。
彼女たちの脳内麻薬の蛇口を捻るには、さらわれる・ロマンティック・滅茶苦茶に愛されるというのがお決まりの3点セットらしい。なんと、単純な。
呆れてしまうけれど、僕はそんな単純で馬鹿な女が好きなのだ。可愛いではないか。ただ、時折面倒くせえなとは思っている。一様にしてそういう女はメンヘラなのである。そしてかなりの確率で美女が多い。虐げられる美女だからメンヘラなのか、メンヘラになりやすいのが僕好みの美女なのか。兎に角依存心が強い。淋しいと死んでしまう兎たち。餌を与え続けてやらないと死んでしまう。彼女達の餌、とはつまり、恋愛でありエロスである。

 真沙子があんまりに寒そうにしているので、僕は自分のコートを脱ぎ、彼女にかけてやった。車内は暖房が効いているのだが、彼女はとても痩せていて、しかも体温が低い。僕は頼りなく華奢な肩を抱き寄せて、自分の体温を彼女に分けてやる。それでも、まだ、震えている。僕は子供の頃に飼っていた兎のことを思い出す。フワフワで、可愛かった。抱くと暴れて、爪が刺さって痛かった。一番世話をしていた僕に懐いていた。名前はぴょん吉。ぴょんぴょん跳ねるから。

「鉄郎さん、手」
僕が手を出すと、彼女はその手をコートの中に引っ張り込んだ。
「私が暖めてあげる」
馬鹿な女だ。震えているのはお前のほうじゃないか。しかしそのつるりと冷えた太ももに導かれた手を、僕は引っ込めたりしない。優しく、そこを暖めてやる。本当に馬鹿な女だ。何故こんなに寒いのに、ストッキングやらタイツやらを履かないのだ?僕はあのスルスルとした感触、けっこう好きなのだが。僕はその柔らかな太ももを撫でる。真沙子のちいさな吐息が、合図のようにも感じた。
「お前は本当に悪い女だね」
そう云って手を止めた。
「だって寒いのだもの」
「寒いのに何故、ミニスカートに生足なの?」
「だって触って欲しくて……」
「風邪をひくよ」
 真沙子は変装しているつもりなのか、切れ上がったアイラインを引き、付け睫毛をバサバサさせ、真っ赤なリップ、真っ赤なニットのミニのワンピースを来て、黒のロングブーツを履いている。髪はポニーテイル。何故、駆け落ちにこんな派手な格好を?いつもは目立たない、まるで制服のような地味な格好をしていたのに。僕は驚いたが、まあ、いい。やっぱり馬鹿な女なのだろう、僕好みの。
「さあ、次で降りるよ。僕のコートを着なさい」
 
 横浜駅に着いた。ここから、僕達は夜行列車に乗るのだ。22:24発の寝台車である。こちらも真沙子のおねだりだ。逃避行は夜汽車で。ああ、分かり易い。恥ずかしいくらいに。
 今日の真沙子もとても美しい。
彼女の希望通り、夜汽車でさらわれるのだ。映画のヒロインになりきって、美しく着飾っているのだろう。
 彼女がこんなにも僕を愛してくれているのに、何故、僕は彼女を愛さないのだろう?いや、愛せないのだろう?こんなにも美しいのに、何故、僕は彼女を愛さないのだろう?
 僕は人間の欠陥品だ。アウトレットセールでもきっと売れ残るであろう、暖かな心を持たない、愛を知らない男、それが僕だ。
 そんな僕にも神様が与えたもうたgiftがある。僕の取り柄は顔が美しくて、憂いのある所らしい。幼少の頃から言われ続けたので思い上がりではなかろう。しかしどちらかと言えば所謂陰キャである僕は学校では浮いていた。それさえも僕をミステリアスな存在に仕立て上げる要素となり得る、と女たちは云う。

 僕だってそういう、芝居がかったことが好きなのだ。だからこんな仕事をしている。僕は映画監督志望だが、なかなか映画制作には辿り着かず、時々自ら俳優をしたり、主にレンタル彼氏で生活の糧を得ていた。

「あなたがヒロインの恋愛映画を撮ります」

 僕は密かに、自主制作の映画を撮るようになった。
 レンタル彼氏として出会う客……何度も僕を指名してくれる女たち、その中でも僕好みのメンヘラ美女のみをターゲットにした。みんな喜んでくれる。
 基本的にレンタル彼氏ではSexまではしない。しかし僕が始めたこのサービスはお望みならSexもする(別料金)。デートを映画の様に撮影した後に。稀にSexを撮りたがる女もいる。勿論僕は撮影してあげる(別料金)。買い取って貰うから公開はしない。彼女たちの許可が降りたら、顔は出さずに美しいイメージサンプルとして、秘密映画倶楽部(僕は自分の会員制サイトをこう名付けた)に順次アップしている。自分のPVの様だと、彼女たちは喜ぶ。
 彼女たちのヒロイン願望を余すことなく、叶えるのが僕の仕事である。ムービーを撮り始まる前には、念入りに準備をする。大事なのはシナリオ。そして場所を探すこと。ロケハンが必要なこともある(別料金)。台詞の練習もして貰う。準備をしている間、彼女たちはどんどん美しくなっていく。
 僕は良いものを撮りたいから、称賛の言葉を惜しみなく降り注ぐ。その気にさせる。女たちは元々美しいのだが(僕が厳選しているから)、僕の囁く称賛の言葉に、感応し、ますます美しくなっていく。僕はロジェ・ヴァディムなのだ。さぁ、僕のBBベベよ、もっと美しく成り給え。

 女性からの依頼だけではなく、男性からの依頼もある。寝取られ趣味の男性が、彼らの妻たちと僕との昼下がりの情事を映画にして欲しいと問い合わせて来ることがあるのだ。僕には理解できない趣味だけれど、たいていそんな男の妻は美しいのだ。そしてやはりメンヘラが多い。メンヘラで変態。

「聞いたの。あなたが、特別なお客にだけに、映画を撮影してくれるって」
「うん。そうだよ。でも、本当に特別な人だけなんだ」
「私は?私の映画も撮ってくれる?」
「いいよ。そろそろ、その話をしようかと思案していたところだった」
「夫はね、私が他の男に抱かれるのを見るのが好きなの。おじいちゃんだから、役に立てなくてごめんねって。だから私があなたとデートしても怒らない。全部知ってるの」
「そうか。では、まず、こちらの会員になっていただきます」
そう言って、僕は秘密映画倶楽部の名刺を渡したのだった。

 さらって欲しいと望む真沙子には、ロードムービー的な恋愛映画を作ろうと思った。
 真沙子の夫・橘氏はもう真沙子を抱けない(と云うよりも、そもそも孫娘の様な年齢の真沙子を抱くことは難しかったのだろう)。だから真沙子を可愛がってやって欲しい。思いきり乱れさせてやって欲しいと頼まれた。そしてその「浪漫逃避行」の一部始終をムービーにして欲しい、という依頼であった。
 僕は橘夫妻の家に通い、企画を立て、台本を書いた。台本はだいたいのあらすじが出来ていれば良い。真沙子の願望をベースに、橘氏の願望も叶えるのが僕の仕事だ。打ち合わせの間にも是非とも欲情させてやって欲しいと頼まれたが、僕は断った。橘氏の前で真沙子を誘惑するなんてこと、したくなかったのだ。この仕事はごくデリケートなことを扱っているし、あくまでも僕は映画を作りたいのであって、Sexする為にやっている訳ではないのだ。そのことを理解して欲しかった。Sexはオプションであり、オマケの様なものなのだ、僕にとっては。だから、僕好みの女だけが秘密映画倶楽部会員になれる。
 ヒロインたちにとってはメインイベントらしい。そう、僕との情事が。有り難いことだ(でも、大変なのだ、わかって欲しい)。

 僕好みの馬鹿な女と言うのは、映画の中のヒロインとしてであり、僕は特定の女を深く愛したりしない。その点において、多分、僕はおかしい。わかっている。僕はただ映画を撮りたいのだ、僕の美の世界を創りたいだけなのだ。
 無論、レンタル彼氏でも秘密映画倶楽部でも、プロの仕事を遂行する。馬鹿な女、と頭の中で呼んだとしても、彼女たちは大切なお客様だ。お望みを叶えて差し上げるのが僕に与えられた仕事。人々は現実にうんざりしている。夢のひとときを求めている。夢を与えるキャスト、そう、僕はミッキーマウスの様なものだ。やあ、僕、ミッキー。一緒に楽しく遊ぼう!

 僕たちは、夜汽車に乗った。
夜汽車、と呼べば、単なる夜行列車がいきなりロマンティックになってしまう。真沙子は僕と一緒のベッドで寝たいと云う。こんな小さなベッドで。
「ご褒美は宿に着いてからだよ」 
とお預けにした。
 英気を養っておかなければ。明日は早く起きて窓の外の風景や朝の車内も撮影しておかなければならない。それに。夜は真沙子とSexするのだ。気力体力を温存しておくのに越したことはない。それでも彼女を優しく抱きしめ、優しくキスをした。そのシーンはばっちり撮影出来たと思う。台詞の幾つかも録音しておく。素人の芝居なので彼女たちの台詞は少ない。夜汽車に乗り換えるまでも、音声レコーダーで真沙子と僕の会話を録音してある。
 僕はさっさと眠りたかった。ハードスケジュールが待っているのだから。既に疲れている。僕自身も役者として写り込むのだから、なるべく美しくコンディションを整えなければならない。
「真沙子、僕は明日に備えてもう寝るよ。おやすみ」
そう云って僕は狸寝入りを決め込むことにした。直ぐ隣りのベッドの彼女に背を向ける格好で。既に疲れていてたから、今にも眠りに落ちそう。真沙子は可愛いけれど、少し面倒くせえよな、そう思いながら。
「鉄郎さん、私、本当にあなたのことが好きよ。わかってるの?本当に酷い男。私が出会った中で、一番冷酷な人」
なんて美しい台詞なんだろう。録音すべきだったな…心の中で呟き、数秒後には本格的な眠りの沼に引きずり込まれていった。

早い朝。
僕が車内や窓を流れる景色を撮影している間、真沙子はシャワーを浴びに行っている。そして戻って来ると、いきなり僕に抱きつき、キスをした。
「真沙子、まだ、駄目だよ」
「もう我慢出来ないわ。どれだけ私を焦らすの?本当に悪い人」
「真沙子。夜が来たら、お前がやめてと叫ぶまで僕は、お前を滅茶苦茶に愛してあげる。だからもう少し待ってくれ」
「わかったわ。でも、もう一度、キスしたい。あなたから、して」
僕は素顔のままのあどけない桃色の唇に、冷えた唇を重ねた。真沙子が化粧する姿を撮影した。今朝は白い服を着ている。長い髪を下ろして。緑の中で光るであろう白いワンピース。清純な乙女の様に見える。赤のニットワンピースに厚化粧を施した昨夜のコケティッシュな悪女とは別人の様だ。
「真沙子、可愛いね。でも、カメラ映えするように、アイメイクだけはしっかりするんだよ。唇ももう少し光らせて」

 移動にはタクシーを使った。大仰な機材は使っていないから、レンタカーでも良かったけれど、自分が運転すると真沙子の撮影も美しい風景の撮影も出来ない。そして彼女のスーツケースには、衣装がたくさん入っていた。色鮮やかなものを、と伝えてあった。宿のフロントに大きな荷物は預け、まずは出雲の神様に会いに行った。

 僕たちは出雲大社を参拝した。この映画の撮影が滞りなく進みますように。僕はお願いしてしまった。後で聞いた話によると、自分の願いよりも感謝を伝えるべき、だそうだ。
 広い境内、歩く真沙子の後ろ姿、所々にいる可愛らしい兎たち。
「真沙子。そこに立って。振り返って、僕に微笑みかけて」
兎。ぴょん吉。
真沙子に会わなければ、僕はぴょん吉のことなんてずっと思い出さなかっただろう。僕はあの頃まだ、愛する、という感覚を理解していた様な気がする。どうして死んでしまったのだっけ。ぴょん吉は。
 神様の御座す清浄で厳かな空間は、誰にとっても気の引き締まるイヤシロチだ。こんな人間の欠陥品である僕にとってさえ。
 日本という国の古の記憶。息遣い。気配。
そんなものを、肌で感じる。しかし、真沙子は。
「神様なんていないわ」
兎を見つめながら言う。
「兎も悪い子だけれど、皮を剥がれて痛くて泣いてる子に海に入れば治るなんて、そんな神様、神様じゃないわ。私は神様なんて信じない」
其処此処に在る兎の可愛らしい像たちも撮影する。僕は聞いた。
「じゃあ、何故、出雲大社に来たがったの?」
兎たちを撮りながら。
「どこでもいいって云ったでしょう?さらって欲しいって云ったでしょう。夫公認で私、何度もレンタル彼氏を利用してた。あなたを何度も指名して……ううん、あなた以外にも何人もデートして別料金を払ってSexして。
私は本当にさらって欲しいのに、誰もさらってなんかくれない。あなたなんて大金を積んでも絶対にSexしてくれなかったし。それでもあなたに会いたくて、私、あなたを指名し続けた。それでやっと」
レンズの奥の僕の目を射る様な鋭い眼差しに、肌が粟立った。
「秘密映画倶楽部のことを教えてくれて。私はあなたに幾らつぎ込んだのかしらね。あなたは他のレンタル君たちとは全然違う。あなたと一緒にいるだけで違う世界の違う人物になれる。私は」
そう云うと俯いた。今にも泣き出しそうな顔。
「あなたのものよ。ずっと、云ってるでしょう?……でもあなたは私のものにはなってはくれない……神様が本当にいるのかを確かめたいから、此処にしたの。縁結びのご利益があると云うし。明日は、神前結婚式よ」
「えっ?」
僕は驚いて真沙子を見た。
「何云ってるんだ?…お前はもう結婚しているじゃないか」
「結婚なんかしていないわ。私は橘の養女よ。妻、と名乗っているけれど」
「でも、僕はそんなこと、聞いていないし、困るよ!」
「いいじゃない、別に。本当に結婚するわけじゃないんだから。全部、手配済みなの。撮影もお願いしてあるの。鉄郎さんはただただ役者に徹して」
こんなにも思い詰めていたのか……僕は何も分かっていなかったのかも知れない。真沙子という女が恐ろしく思えてきた。

 朝から何も食べていなかったので出雲名物の蕎麦を食べた。真沙子は地酒を2杯も飲み、ご機嫌そうだ。アルコールで頬が薔薇色に染まっている。真沙子は今までデートしたどの時よりも倖せそうで、僕はまた不安な気持ちになった。
 昼食後は、稲佐の浜で撮影した。神々のギャザリングで八百万の神をお迎えするという浜だ。晴れていて良かった。白のワンピースが海と空の青に映えて神々しい。時々、風は強くなるけれどその白が雲とともに旗めく。

「好きよ。鉄郎さん」
「真沙子、好きだよ」

 これは台本通りの台詞だ。否、違う。真沙子の好き、は本心からのものだ。真沙子の愛のエネルギーがレンズ越しに飛び込んできた。それは僕をまるごと包み込み目眩を起こさせた。なんと恐ろしいことだろう、本当は、この人は、女神。なのかも知れない。
 ぴょん吉。
 そうだ、思い出した。僕がぴょん吉を殺してしまったのだ。餌をあげなかったのだ。ただ、面倒くさかったという理由で。僕が殺したくせに。僕はぴょん吉の亡骸を抱いて泣いたんだ。硬く冷たいぴょん吉は、それでも毛がフワフワしていたんだ。

 宿に着いた。とてもとても、僕たちは疲れていた。僕にとってはこの旅は「逃避行」という名の映画を創る仕事であり、真沙子を抱く仕事である。今まで泊まりがけでこんなに遠くに来たことはなかった。真沙子にしたって役者の経験もないのに、僕の指示で動いたり台詞を言ったりするのはきっと大変だったろう。この旅に浮かれているのには違いない。ハイになり過ぎて瞳が異様に光っている。
 夜伽のためのセットを一緒に作った。前もって宿に送っておいたものだ。大きな赤いキャンドルを幾つかとLEDキャンドルを沢山。赤い花もたっぷり活けておいて欲しいと、こちらの花屋に注文してあった。残念ながら真沙子が一番好きだと云う曼珠沙華は季節が終わっていたので、メインは赤い薔薇。
 一番好きな花が曼珠沙華だなんてやはり変わっている。だが、兎に角そのイメージで撮ろう、ということになったのだ。赤のサテンのシーツ。真沙子が夜伽に着る衣装も、赤の長襦袢。

 風呂に入り少しだけ眠った。真沙子は僕の手を握って云った。
「いいでしょう?手をつないで寝たいの」
ぴったりとくっついて、彼女はすうすう寝息を立てた。遊び疲れた子供の様な寝顔。
 夕食は遅めの時間にして貰った。食べ過ぎも良くないが、真沙子とのSexに備えて、しっかり食べなければ。少し休み、腹がこなれてから、貸切風呂で撮影した。
 裸の真沙子の美しさを、僕は余すことなく記録した。
 檜の椅子に座り、掛け湯をする後ろ姿。折れそうな腰の急なカーブ。ちらりと見え隠れする白く丸い乳房。湯船に浸かりこちらを見つめる真沙子。アップにした後れ毛がうなじに貼りついている様。うっとりと閉じた瞼、縁取られる睫毛の黒。
 僕は夢中で撮影する。
 神様なんていないと言った真沙子の身体のパーツのひとつひとつ、そのディテイルに神々が宿って居る、僕はそう思う。神々に感謝する。真沙子という存在がより輝いている。
「鉄郎さん、一緒に浸かって」
「でも」
「これはお客である私の要求よ。いえ、命令よ」
「わかりました」
僕はカメラを三脚に預け浴衣を脱いだ。僕の重さの分、溢れ出すお湯。真沙子は僕に抱きつき云う。
「好きよ」
そしてキス。優雅にくるりと廻ると僕に背中を向け、寄りかかる。僕の両の手を乳房へといざなう。
「触って」
ああ。女とはこんなにも柔らかく可愛らしいものだったか。最後に映画を撮ってから、ずっとSexをしていなかった。何故だろう。僕は性欲が弱過ぎるのだろうか。心の問題なのだろうか。病気なのだろうか。
 しかし今、思いがけず。快楽の扉を僕は開けてしまった。真沙子の乳房だけではなく、何処も彼処も触りたくなっていた。そんな自分に驚いている。目の前で控えめな吐息を漏らす兎を、僕は丁寧に愛撫した。
「のぼせちゃいそうね、私たち」
真沙子は僕の手から逃れ、湯から上がった。火照った体をバスタオルで巻くと、持参したミネラルウォーターを僕に渡してくれた。
「鉄郎さん、大丈夫?これ、飲んでね。たくさん飲んだ方がいいわ」
「うん。そうだね。上がって、次の撮影をしよう」僕も湯から上がった。

 貞淑な妻宛らに真沙子が身体を拭いてくれた。まるで小さな子供の気分。記憶。目眩がした。蹌踉けた。真沙子に支えられ、倒れずに済んだが。湯当たりか。こんなに長い間、湯船に浸かったのは久しぶりだったからか、旅と撮影の疲れからか、それとも真沙子の身体に触れて興奮したからか。

「大丈夫?きっとのぼせちゃったのね。はい、お水」
貧血だろうか。
「ありがとう」
再び喉を鳴らして水を飲んだ。少し座って深呼吸する。真沙子はその間、優しく背中を撫でてくれた。
 部屋に戻りカメラを準備する。僕が準備している間、真沙子は髪を乾かし、またメイクをする。カメラ写りを考えて濃くするように、と云ってあるので、少し時間がかかる。僕も固定するカメラの幾つかの最終確認をしたり、忙しい。……やはり、少しくらくらしている。おかしいな。僕は全身の全ての細胞が炭酸の泡の様に息づき、呼吸し、もの凄く敏感になってゆくのを感じた。
 キャンドルの炎や、真っ赤に揺れる花の影、それらも揺れ蠢きながら呼吸する。気づいたら、僕の周りの空気が曼陀羅模様になり(それは雪の結晶や顕微鏡で見た細胞に似ている)、呼吸するかの様に収縮する。
 真沙子が手渡したあのミネラルウォーターか!
僕は盛られてしまったのだ。なんなのだ!?この目眩く美しい世界は!
そこにメイクを終えた真沙子が現れた。なんて美しいんだろうか…ああ。曼珠沙華。いよいよ幻想が花開く。
「真沙子……この水に何か入れたのか?」
「うふふ、ごめんなさい。大丈夫?」
そう云いながら、真沙子は僕の身体の何処も彼処もをゆっくりと愛し始める。僕は皮膚に漣が打ち寄せるのを感じる。僕の細胞のひとつひとつが膨らんで、僕たちの廻りを取り囲む万華鏡の模様を感知する。全身で真沙子の世界を感じる。嗚呼。こんな世界があったのだな。真沙子のすべてを感じる。

「鉄郎さんが好きなの。ずーっとこうしたかったの。いいでしょう?今、私の夢を叶えてくれてるの、あなたは、とても良いことをしているのよ」

 嗚呼。夢の中に紛れ込んだ様な世界だ。
 真沙子は優しく僕を抱き起こすと、胸元に抱き寄せた。僕は妖しげな香りに酔いしれ、幼い子供の様に受け取る感覚の全てに感動する。真沙子の唇。瞳。耳。頬。赤の長襦袢からはみ出た乳房。手の中にある細い腰のカーブ。僕の身体に纏わりついて擽ぐる薄茶色の絹糸。真沙子は、そして自ら僕に突き刺さった。僕は蜂蜜の瓶に飛び込む蟻、甘い液体に溺れて、快楽の渦に呑み込まれる。
「嗚呼、素敵」
うっとりと云い、彼女は僕の口を吸う。
ああ。キスって、こんなに気持ちが良いものだったのか。
僕は知らなかった、ずっと知らなかった、真沙子の舌に口を占領され、僕はどうにかなってしまいそうだ。この魔力を持つ気持ちのいい軟体動物は、このまま僕の脳味噌まで吸い尽くしてしまうのではないか。そして仕舞いには僕を呑み込んでしまうのではないか。

「ねえ、鉄郎さん、気持ちいい?私の中は」

 もう僕は自分が誰なのかさえ忘れてしまいそうだ。洩れるのは、快楽に耐えかねた甘いため息ばかり。

「ねえ、云って、鉄郎さん。真沙子、気持ちいいよって」
「…真沙子」

 名前を呼ぶのが精一杯だ。
彼女は僕の耳許で呪文を唱える。

「愛してる、って言って」
「あ、いし…て、る…」

真沙子が僕を包み込んだ身体を動かす。
ああ!
快感の雷が生まれては、僕たちの身体に響き渡る。

「ねぇ、もっと感じて。もっと愛してるって云ってみて」

響き渡る稲妻の色が何故かわかる。僕たちを取り巻く赤い曼珠沙華の万華鏡がゆらゆらと揺れ、次々と曼荼羅模様を創り出す。

「愛してる。真沙子、愛してる」

既に真沙子の愛の力に占拠され僕は叫ぶ。
そしてその言葉は、既に、本当に、僕のものだった。

「私もよ、嗚呼、凄いわ。鉄郎さん、愛してるの、ずっとこうしたかったの!」

 真沙子は激しく腰を振る。踊る様に飛び跳ねる。僕の上で。僕も真沙子を抱き締める。狂った様に彼女と共に焔になり燃え盛る。曼珠沙華の幻想に悶えなから力尽きるまで。灰になってしまうまで。


「鉄郎さん、鉄郎さん、起きて」
僕を揺り起こすのは、既に愛しい、僕の女だ。
「今日は神前式よ。ちゃんと髭を剃ってね」
まだうっすらと曼荼羅模様を感じる。微睡む僕にキスをする真沙子は、泣いていた。
「どうしたの」
僕は驚いて起き上がった。
「鉄郎さんと結ばれたことが嬉しくて。夢みたいで。幸せ過ぎて。涙が止まらないの」
僕は真沙子を抱き締めた。
真沙子は子供の様に、うわーんと声をあげ、いよいよ激しく泣き始めた。僕の胸に流れてゆく彼女の涙の温もり。僕たちを包む温もり。気づくと僕も泣いていた。一体、何が起こっているのだろう。

 花嫁と花婿だけの神前式。
 白無垢。紋付き羽織袴。神様の前で結ばれる。祓い清める言霊。永く倖せが続くようにと祈る言葉。誓いの盃 。誓いの言葉。神楽奉納。玉串奉奠。巫女たちの舞と鈴の美しい音。
 再び幻想の中に迷い込んだような気持ちになる。参列する者は誰も居ない。そのことがより、この瞬間を非現実的に感じさせる。僕は誓ってしまった。神の前で、真沙子への愛を。まさか。この僕が。誰かとの愛を!誰かを愛してしまうなんて、何かの間違いに違いない。
 一体、僕はどうしたら良いのだろう。

 式が終わり衣装を脱ぎ宿に戻ってまた一緒に風呂に浸かる。今日の真沙子は穏やかな表情でずっと微笑んでいる。口数が少ない。疲れた僕もあまり話さない。只ずっと彼女に触れている。手を繋いだり、抱き締めたり。もう撮影はお仕舞いだ。契約なので今夜また愛し合うけれど僕にとってそれは既に仕事ではない。神様のプレゼントの様な、きっと人生に一度しかないご褒美。微睡みながら僕は何度も真沙子にキスした。この人は僕の全てを受け止めてくれる。あり得ないような存在。
 疲れを癒した後、遅い昼食を取りに出た。名物ののどぐろ丼や焼いた鯖の押し鮨、大きな岩牡蠣。僕はガツガツと食べた。真沙子はにこにこしながらそんな僕を見つめてばかりで、ほとんど食べない。
「こんなにガツガツ食べる鉄郎さんを見るの、初めてね。お腹空いてたのね」
「うん、そうだね。すごくすごく疲れたから、余計に美味く感じる」
真沙子の分も食べ終えて、手を繋いでお土産屋を覗く。神様のキャラクターや兎のグッズを、可愛い!とはしゃぎながら手に取る真沙子は少女に見えた。
「ねえ、鉄郎さん、これを買って」
小さな兎たち。紅水晶と白翡翠。
「鉄郎さんが、私の為に買って」
「いいよ」
僕はクリスタルの兎たちを購入し真沙子に手渡した。真沙子は僕に白翡翠の兎の入った小さな巾着袋を渡した。
「はい。ひとつはあなたが持っていてね。時々撫でてあげて。そして私のことを思い出してね」

 夜。僕たちは再び愛し合った。幻想ではないそのままの二人で、生きている実感をひしひしと感じながら。真沙子が全身全霊をかけて、僕を愛してくれていたのだと、漸く理解した。ここまで愛して続けてくれたから、僕は……やっと愛が何なのかを知った。彼女の中に僕を入れて彼女をただ抱き締める。動かないで、真沙子を感じる。その暖かさ。やさしさ。愛おしさ。
「どうして」
と僕は聞く。
「なあに?」
「どうしてこんなに僕のことを愛してくれるの?」
真沙子は僕の頭を撫でる。母親の様に。
「わからない、そんなこと。只、わかったのはあなたが私の魂の片割れだってこと。初めて会った時、只、わかったの」
穏やかに、ゆっくりと、時間をかけて、愛し合う。
「鉄郎さん、愛してる。すごく倖せ」
「うん。真沙子、ありがとう。僕も愛している」
そして二人で果てた後、僕はぐっすりと眠った、また薬を盛られて。とてもとても強力な睡眠薬。

 目覚めた時、真沙子は既に死んでいた。
 僕の隣りで。
 微笑んでいた。
 僕に抱きついて。
 美しかった。
 掌には兎。


座卓には遺書が残されていた。

鉄郎さんへ

出会ってくれてありがとう。夢を叶えてくれてありがとう。私の愛を受け止めてくれて、私を愛してくれてありがとう。倖せでした。本当は神様はいるのかもしれない、と思いました。時々、私のことを思い出してね。愛しています。

真沙子



<了>