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吉田兼好ブログ「徒然草」

「徒然草」を読んでいると,彼もまた「書かざるを得ない人」であったという思いを強くします。

「徒然草」は,何か,決まったテーマで筋の通った著作ではなく,本当に日ごろから思い感じていることを,徒然に書き記したものです。

「だから何!」みたいな本の数行の段もあります。

これなどはTweetのようなものでしょう。

徒然草はどのような書かれ方をしたのでしょうか。

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それはおいおい調べていきながら,ここでは,兼好法師が今の時代に在ったら,絶対「兼好ブログ 徒然草」を独自ドメインとってWordPressで書いているに違いないという観点から,いくつかの段を選んで,ブログ風に書いてみました。

プロローグ

 じっとして何かしないではいられない。

 それで日がな一日PCの前に座って,心に浮かんでくる何やらとりとめもないものをなんとなく書きつけてみたら,結構はまった。

 ちょっと,何かにつかれたみたいな気で,今日からブログ始めます。

 ドメインとりました。

 WordPressがいいかな,と都の友達がおしえてくれた。どうぞよろしくね。

コメントをどうぞ

都のともだち:やあ,ついにドメインもとったんだね。WordPressで書くと,
最初はだれも見に来ないけど,あきらめずに続けてくださいね。

第一段

それで最初からとばすけど。

この世に生まれた以上,みんなこんなふうにありたいって思うよね。

帝の位はとても畏れ多いのでここで何やらいうことはないけど,ご子孫にいたるまでみんな人間を超越しておられるのは,ありがたいね。

高貴な方々は,えらいものに見える。今は高貴でも,子供や孫になると落ちぶれることがあるよね。それでもなんだか,上品で心がひきつけられる感じがする。

でもね,それより低い身分の人たちは,身分に応じてタイミングよく出世して,どんなもんだいというような顔をしている人いるでしょ?

自分ではえらいと思っていると思うけど,よこからみてて,あんまり感心しないね。

お坊さんくらい誰の目から見てもうらやましくないものはないと思う。

清少納言がブログ「枕草子」で書いていた。「人からは木の端のように思われることさ」って。もっともだよね。

時折いるじゃない。高官に上ったお坊さん。威勢よく威張り散らしているでしょ?

なんだかねえ。えらいとはとても見えないよね。

なんだか,仏の教えに背いてない? 

でも,こうした坊さんに対して,すっかり世間をすててしまった人は,まだ見どころがある気がするけどね。

まあ,書いてたら結構な量になったので,これくらいにしよう。

初日からえらいとばしてしまったな。

こメントをどうぞ

せいしょう:こんにちはー!ブログ見てくれたんだねー。私も見に来るよ。よろしくー。いとをかし。

第2段

昔の聖天子の御代のまつりごとはよかったなあ。

 でもそんなことも忘れてさ,近頃は,国が乱れたり,ぼくらが訴えたりすることも何にも気にかけないでさ,華美三昧で,自分は偉いと思って,思いあがっているような人は,ああいやだいやだ。何も考えてないんだろうな。

 「着物,冠,馬,車。手許にあるものをそのまま使いなさい。きれいで贅沢なものをもとめてはならんよ」

と九条殿,ほら,あの右大臣・藤原師輔のことさ。彼が遺した戒めにあるほどだ。
 

順徳天皇が宮中のことなどをお書きになった「禁秘抄」(雨村へのリンク)

 この中にも

「天子のお召し物は,簡素なのをいいこととする

と書いてあるんだよ。

こメントをどうぞ

じゅんとく: お!始めたばかりでもう雨村へのアフィリンク貼ってるし。
            宣伝ありがとう。
            苦しゅうないので,そのうちもうで来。

第4段

 あの世のことを心にずっと留め置いて忘れないで,仏道に疎遠でないのは,とても上品で心がひきつけられるよね。

 ただ,それだけだけど。

コメントをどうぞ

せいしょう:天竺よりも遠い国で,「memento mori」っていってるらしいよ。
      情報 はや(笑)

第5段

 不幸にあって悲嘆に暮れている人が頭を剃るみたいに,この世をはかないものだと悟って仏道に入ったわけじゃなくて,いるのかいないのかわからないくらいに門を閉じて,何を当てにするということもなく人を送っている。

 それはそれでいいんじゃないかな。そんな人になってみたいわ。

 中納言源顕基は,

「流されたところで見る月を,罪もない身でながめよう」

と言った。無実の罪で流されたところから月を眺めてみたいということだけど,僕もそれくらい世俗を離れてみたい。

  なんか,世俗を離れてみたいなあ。

第6段

自分が高い身分であったらもちろんのこと,低い身分であっても子供はない方がよさそうだ。

醍醐天皇のお子さんの兼明親王も,九条太政大臣も,花園左大臣も,みんな自分の一族が絶えることを願っておられるんだよね。

摂政の藤原良房さんも

「子孫なんかない方がいいさ。子孫がだんだん落ちぶれていくのを見るのはいやだ」

とおっしゃったと「大鏡(雨村へのリンク)」には書いてあるんだ。

聖徳太子が自分の墓を前もって築いた時,

「ここをきって,あそこをつめてせまくしなさい。子孫などはないようにと思うんだよ」

なんていわれたとか・・・

こメントをどうぞ

うまやど:初めまして。その聖徳です。たしかに子孫はみんないなくなりましたー。はっはっはっ!!

第7段

人の命ははかないものだけど,もし永久にその命が消えなくて,ずっとこの世にいるのだとしたら,人の命って,なんて面白味のないことだろう。

寿命が決まっていて,いつ死ぬかわからないのがおもしろいんだよ。


この世の中を見渡してごらん。

人間ほど寿命が長いものはないよ。

かげろうは夕方を待たないで死ぬし,

セミは秋を知らないで死んでしまうんだよ。

そんなものもあるんだから,まあ,ゆっくりした気持ちで一年を送ってもいいんじゃない?


それなのに,みんなさ,死ぬのが惜しいなんて言ってる。

おそらく千年生きても一夜の夢のように短く感じると思うよ。


だから,そんなに長く生きないでいいよ。

どうせ死ぬのなら,老いぼれて醜い姿になるまで生き延びて何になるだろう。


命が長いとそれだけ恥も多いよ。

いくら長くても40に足りない年ごろで死ぬのがみっともなくないというもんだと思います。

40を過ぎるとさ,容貌が見にくくなるのを恥ずかしがる心もなくなるし

出しゃばったりするし,

年がいって余命いくばくもないのに,子や孫が立身出世をするのを見届けるまでの寿命を期待するし,


とにかく無茶にこの世に執着する心ばかりが深くなって

ものの情趣も何もわからなくなっていくのはいったいどういうものなんだろうね。

コメントをどうぞ

えんまくん:そう思います。はやくいらっしゃい。

未来人:FF外から失礼します。「老害」ってやつですね。
    40前で死ぬって,いくらんでも短くないですか?

えんまくん:いやいや,40でじゅうぶん。はやくこちらへ。



続く

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