ほぼの違いがすべて。

 

ある有名ブランドのものとほとんど同じデザインのシューズが売られているのを渋谷の量販店で見かけた。値段は0がひとつ少ない。

ちょうどそれを見ていた女性二人組のひとりが「ほぼ一緒だしこれでいいんじゃない?」と話している声が聞こえてきて、僕はなぜだか少し苛立ってしまった。

 

その後、青山へ向かうために乗った銀座線の車内で「そういえば、なんであの時いらっとしてしまったのだろうか。」と、スマートフォンを眺めるのにも飽きた僕は目をつむって考えを巡らせていた。

個人的な意見として、特にファッションにおいて模倣は否定されるものではないと思う。オリジナルにこだわるのも、模倣品で済ませてしまうものも、どちらもその人のファッションだ。それを否定する権利は誰にもない。

中学生の頃に雑誌をかじりつくように眺めながら原宿でスナップをされている美容師の人と同じ格好がしたくて、それでもオリジナルのものは高くて買えないから少しでも似たような古着が売ってないか、街に出ては探し歩いていた。

彼女たちにとっても、それと近いことなのかもしれない。

 

それから数年後、高校生になった僕は同級生のお兄さんに初めてディオールオムのジャケットを着せてもらった時のことを今でも覚えている。

袖を通す腕をなめらかにすべっていく生地の質感、ボタンも留められないようなタイトなシルエット、それなのに着丈は計算されているようにぴったり。なにより全身からみなぎってくるような高揚感。きっと、鏡の前で服にばかり目がいっていた僕は顔が真っ赤だっただろうと思う。

 

僕は、そんな本物に触れた体験を知っているからこそ、「彼女たちにも本物を買って欲しい」という思いが苛立ちに変わってしまったのかもしれない。

模倣品も本物も身につけることはどちらも尊いファッションだけど、その「ほぼ」の違いがすべてなんだ。

 

「ほぼ」のあいだに潜んでいる高揚感のようなものに、僕は0ひとつ分の価値があると思っている。

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