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「手ざわり」のような感覚を忘れない。


青山通りから少し脇道に入ったところにあるギャラリーの前を通りかかると、陶芸作家の個展がひらかれていた。

入り口の横にある大きな窓から中の様子をのぞいてみると、他のお客さんも何人かいるようだったので、すこし勇気を出して入ってみることにした。


天井が高く、白く塗りかためられた壁、同じく白の平台に不規則に並べられた陶器。

そこには生活に使えるようなお椀から花器、不思議なかたちをしたオブジェのようなものまでさまざまなものが展示されていた。

その中のひとつ、乳白のようなくぐもった白いうつわを手にとってみると、

わずかな凹凸が手のひら吸いついてくるようにぴったりとおさまって、冷たいうつわに自分の体温がうつっていくにつれてしっとりと肌に馴染んでくるような気がした。


その作品が魅力的だったことはもちろんだけど、僕はそのとき「手からこんなにもたくさんの情報が伝わってきた」ということに驚いてしまった。

それと同時に、「手ざわり」というのをこんなに意識したのは久しぶりだ、ということに気づいた。


今は買い物もオンラインで済ませてしまうことがほとんどで、スーパーにはパッケージされたインスタントな食品が並び、品質はほとんど変わらない。

身のまわりのあらゆるものが上質になって価格は安くなった分、それらに「手ざわりのようなもの」を意識することがほとんどなくなってしまっていたのかもしれない。

例えば、ギャラリーに並んだ陶器の手ざわりはオンラインショップで作品を見ていても絶対にわからなかったことだった。


「手ざわり」のようなものは本来、実際に手で触れないものからも感じ取れたはずだ。新鮮な空気だったり、料理の隠し味だったり、曲の奥深くでかすかに聞こえる小さな音だったり。

日々、気を抜けばジャンクで即物的な快楽ばかりに囲まれてしまうけれど、こうした少しの違いや機微のようなものに気づける敏感さを失わずにいたい。


手ざわりのようなもの。そういう生の感覚を大切にしたいと思う。

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