独り言〜作品の映像化に期待すること〜

昨今、原作がある作品の映像化について、物議をかもす事態が数多く発生しています。これについて、twitterに書くには少しネガティブな話もあるのでnoteに書き記す次第です。


大前提として、原作があれば必ずその原作のファンがいます。映像化するとなればそれを最初に知り得る客層・それに期待する客層は、例外もあれどその作品のファンになると思います。
物議を醸す作品の大半はこのことを制作陣が軽視していることが多いなと感じるパターンです。特に某ドラマに関しては原作者及び原作への冒涜なので最悪だと思います。マスコミはもう何も言わなくなりましたがあの一件は本当に胸糞ですし、もう金輪際あのテレビ局のドラマは見ません。

話が逸れましたが、何よりもまず原作への愛(リスペクト)が一番大事である、というのが私の考えです。今の時代、これをちゃんと守っている映像作品が体感として非常に増えた分、守れていない作品が輪をかけて印象を悪くしていると思います。

ただ、リスペクトと言っても必ずしも原作再現が100点満点の回答とはならないと最近感じるようになりました。そのきっかけがこの作品。

そもそもこの作品は連載作品のスピンオフでありながら本編にも劣らない人気を博し、実写化するに当たって完全に独立した作品となっています。いくら本編への直接的関与がないスピンオフと言ってもその前提となる本編の用語や知識はあります。それを切り離すのはどうなんだ、と発表当初は思っていたものですが、今となっては新作が楽しみな作品の1つであり、これが今後の映像化作品のひとつの基準ともなり得る力を秘めた作品とも思っています。

何がそんなに魅力なのか。原作への愛はもちろんのこと、原作の再解釈がその力の根源と自分は考えます。
原作で当たり前に使われる独自の単語に対して、本編から独立した作品になるにあたって何が変わるのか。原作に出てこないキャラクターが映像化、特に実写化にあたって登場することになったらどういう変化が生まれるのか。スピンオフではない本編であったエピソードを組み込むという暴挙とも言える行為を取る際にどうやって組み込むのか。独立したエピソードを繋げる時にどこを結びつけるのか。映像化するにあたって原作の演出を如何に表現するのか。
気にし始めたらキリのない課題に真摯に向き合い、全てに答えを出したのがこの実写作品なのではないかと自分は思います。

そして、この時に原作の味を損なわないことがまたファンを意識するのであれば大切なことであり、非常に難しい部分でもあります。
ここで、物議を醸す作品の多くは、原作の味を損なう監督・脚本の自我が現れます。内容自体は原作と全く同じでも、演出面で原作の味を損なうパターンもあります。自我を出すのは悪いことではありません。そこで自我だけで突っ走り、再解釈を疎かにする、あるいは原作の味を損なう再解釈をしてしまい、ファンが求めていたものから離れてしまうことが問題なのだと思います。

もうひとつ、恐ろしい問題に時間(尺)の制約があります。名前は出しませんが、つい最近までアニメ化を放映していた自分の推している作品。演出面も含めて、丁寧な原作再現だったと思います。ただ、原作のスピード感故の問題なのか、アニメの一話で区切れる範囲を設定した際に「尺が余る」事象が発生し、それを一部演出を伸ばしたり、回想を差し込んだりで対応されていました。この対応は原作再現にこだわるならきっと最適解なのでしょうが、間延びした印象をどうしても視聴者側としては感じてしまったのです。時として、原作にはないシーンを差し込むことが求められるというなかなか残酷な要求が発生することもあるんだな…と感じました。
かと言ってギチギチに詰め込んで大事な部分が漏れてしまっては元も子もありません。適正というのは本当に難しいことなのだと考えさせられます。

・原作への愛
・原作の再解釈、その際に原作の味を損なわないこと
・尺の中で適正な密度に収める

これが全部当たり前になってしまうと作品の映像化など出来なくなってしまうと断言出来てしまうほど、自分が映像化に求めるハードルは高くなってしまったんだな…と書き記して改めて思う次第です。と同時に、原作再現だけで満足出来ないほどクオリティの高い作品が見られる贅沢な世の中になったなぁ、とも思います。





おまけ

10年待ち望んでいよいよ世に放たれた自分の「青春」とも言えるゲーム作品のアニメ化。そもそも原作に明確なストーリーと言えるものがない中で、よくあそこまでのクオリティに仕上がったな…と感謝を超えて恐怖すら感じる今日この頃です。ミリアニはいいぞ。

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