極端が好きだった

一発逆転、緊急回避、さよなら満塁ホームラン、ごぼう抜き、逆転KO、モテ期
こんな言葉が好きだった。
オセロで言うならぼろ負けしてても一手で自陣の色に変わるような。
昔のテレビのように多くの人が同じ番組を見て翌日その話をしあっているような。
高校までモテてこなかったが、大学で都会に出た途端チヤホヤされるような。

 これは行きすぎると、気持ち悪く感じてしまうが自分がオセロの勝者側であれば、放送局側であれば、持てる側であれば、甘んじて、得意げな顔をしているかもしれない。幽体離脱して、自分を俯瞰すると、異常な状態であることに気付けるのかな。

こんな極端な、わかりやすいものを基本的に好んできた。どうしてなのだろうか。シンプルでわかりやすいからだろうか。

センター試験に向けた国語の対策講座でも言われた。大問1の論説文は、「対立構造があることが多いです。」この対立構造というのは物事を観察するときにとてもわかりやすい観点になる。
例えば、
戦争賛成or反対
ペットボトル利用or廃止、プラ袋有料or無料、割り箸、、、


ただこの観点で現代を見ていくには、とても事足りないモノサシになってしまっている、と最近目にする。自分の実感でも極端な二項対立なんてものは少ないと思う。

例えば我々が15年前くらいはテレビ独占市場。
家庭にインターネットにアクセスできる端末が一台あるのが普通ではない時代。
現代は1人一台インターネットにアクセスできる端末を保有してる。
それによって「チャンネル争い」なんてもはや死語?なのではと思うほど。
テレビ番組は見逃し配信されたり、違法にアップロードされたりする。
動画配信サービスも有料ではあるが、沢山ある。アマプラ、ネトフリ加入してる人が周りに多くて逆に驚いてる。

こんな現代の紹介がしたいのではなかった。
一言で言うと、「享受する映像サービスひとつとっても大きく多様化した」と言うことである。これは音声配信サービス、本にも言える。
つまり、みんなが有限な時間に割くコンテンツはさまざま。もはやJ-POPって何?ポップってポピュラーやんな?って聞きたくなるほどに。ほんとにその曲ポピュラーですか?
(続く)

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