【書評】夜と霧 (新版)

概要

わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ

上記のように、人間とは、生きる意味とは、を語る一冊。

原著の初版1947年、日本語版の初版は1956年、そして1977年に改訂版が出され、次いで2002年に翻訳し直した新版が出版され・・・と長く読み継がれた古典的名著です。

著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーン大学の精神医学教授として周りからも一目を置かれ、研究に精を尽くしていました。しかし1942年、ユダヤ人であるという理由だけで家族・妻・子供と共に別々の強制収容所に送られ、そして1人生き延びた経験を基に綴られた体験記です。

本書の構成は、前書きに加え、以下のように三章からなります。

「心理学者、強制収容所を体験する」

「第一段階 収容」

「第二段階 収容所生活」

「第三段階 収容所から解放されて」

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「心理学者、強制収容所を体験する」

著者がなぜ、自ら本を書いたかを綴った章です。

強制収容所に関する客観的な記述は枚挙にいとまがありません。しかし彼らは経験の激流から距離を取りすぎていると著者は述べます。一方で体験した者は距離が近すぎて客観的な判断を下せません。

著者は後者でありつつも、心理学者として出来るだけ客観的にこのことを描写することを本書で試みています。

この意義は、強制収容所にいたものとそうでないものでは異なると著者は述べています。

前者にとっては彼らが身をもって経験したことが科学で説き明かされることにあり、後者にとっては、それが理解可能なものになる、という意義があります。

部外者にも、他者である被収容者の経験を理解できるようにし、ひいてはほんの数パーセントの生き延びた元収容者と、彼らの特異で、心理学的に見て全く新しい人生観への理解を助けることが、本書の主眼です。

「なぜなら、これはなかなか理解されないから」と著者は述べています。

「第一段階 収容」

おびただしい資料や体験から、被収容者の心の反応は大まかに3つに分かれます。すなわち「収容される段階」「収容生活そのものの段階」「収容者からの解放の段階」です。

この章では、「収容される段階」での収容者の心の反応を述べています。

まず、収容される段階においては被収容者は恩赦妄想にかかり、「自分だけは許されるのではないか」と思うようになります。

そして収容所のあまりのショックに、恩赦妄想がでたらめだと気付くと、「これまでの人生をすべてなかったことにする」という反応を得ます。

そして、やけくそのユーモアと、驚くべきことに、これからどうなるだろうかという「好奇心」が芽生えていきます。

そしてその好奇心は、極限の非衛生環境にいながらも鼻風邪一つ引かない、などの既存の常識を覆す事実に遭遇し、人間には何でも可能だということを知ることで満たされました。

筆者は「人間はなにごとにも慣れる存在だ」と述べるドストエフスキーの言葉を引用しています。しかし、「どのように」とは聞かないでほしい、とも述べています・・・。


「第二段階 収容所生活」

第一段階の反応は数日経つと次の段階へ移行しました。すなわち「感情の消滅」です。

この段階になると、人々は収容所の残虐な行為に何も感じなくなっていきます。

しかし、ここまで感情が鈍磨していても時には憤怒の発作に見舞われるとも筆者は述べています。それも、肉体的苦痛ではなく、それに伴う愚弄が引き金となるとのことです。

それでは、なぜ感情消滅が起こるか、それは過酷な環境から自分の身を守り、自らと仲間が生きのびるという、ただ一つの課題を成すためなのです。

被収容者の中には幼児退行する者や、暇さえあれば強迫観念のように食について考える者、降霊術の集会を行う者などもいました。

また、性的な欲求は第一段階の当初を除いて、きれいさっぱり無くなっていきました。

そのような中においても、ここにいるはずのない妻の、伴侶の幻影と内面での会話を行うことにより満たされることがあると筆者は述べています。

収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつく限りで最も悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかできない状況であっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることが出来るのだ。

このように被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となったり、ほんの数秒しか持たないものでしたがユーモアすらもあったという事実は驚くべきことです。

そして、ほんの小さなことでも大きな喜びと感じ、孤独になりたいと渇望したり、運命に弄ばれていると感じて決断を回避するようになったり、いらだちを感じやすくなったり、被収容者の心には様々な反応が起きます。

では、人間はこのような環境では「感情の消滅」をはじめとする心の反応からは逃れられないのか?精神の自由はないのか?ほかにありようはなかったのか?

筆者は明確に「ほかにありようがあった」と述べています。

そのような悲惨な環境下においても、なお感情の消滅を抑え込み、「わたし」を見失わなかった英雄的な人々は存在したとフランクルは述べています。

つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せると断言しています。

被収容者のうち、感情の消滅などの典型的な反応を見せたのは、脆弱な者、つまり「内的なよりどころ」のない人間であると筆者は述べています。

では、内的なよりどころはどこに求められるのだろう、というのが、次の問いになります。

筆者は、ニーチェの「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」という言葉を引用しつつ、それは未来未来の目的であると述べています。

来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれなければならないというむごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。
そこでわたしはトリックを弄した。突然わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には座りごごちのいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。
今わたしをこれほど苦しくうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される・・・この描写のおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ

例えば筆者は上記のように未来を内面の拠り所とし、収容所生活を生き延びたと語っています。

一方で、未来を信じられなくなった者は、自己放棄と破綻により死に至りました

ここで、未来を信じるために重要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだと筆者は述べています。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。

そして、考えることや言葉ではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される、と筆者は述べています。


「第三段階 収容所から解放されて」

収容所生活を乗り越え、そこから解放された者は、どう感じたのでしょうか?

もちろん大喜びしたのだろう・・・と思うのは間違いだと筆者は述べています。

あまりに非現実的で、夢のようにしか感じられず、「うれしい」という感情がどういうことかを忘れてしまっていたのです。

精神はそうであっても、身体は即座に対応し、数日食事を貪るなどの肉体的反応はありました。

そして、数日たって、感情が突如ほとばしり、神への祈りをせずにはいられない、という体験をした・・・と筆者は述べています。

とはいえ、収容所生活が長すぎたために、「自分はこんなに苦しんだのだから少しぐらい悪いことをしても構わない」という反応をする者もいたそうです。

しかも、質の悪い人間ではなく、筆者にとって一番いい仲間でさえそういう反応を示すことがあったとのこと。

加えて、周りの人間がおざなりな言葉を投げかけ、全く自分の気持ちを理解しないという現実に強く失望することもあったそうです。

さらに、自分を待っている人がもういないという現実に直面した者もいました。

収容所生活では、ここより底はないと感じていた苦悩が、実は底があったという感覚が解放者を強く苦しめました。

筆者は、一人の精神科医として、この困難な問題に立ち向かう・・・という決意で本書は締めくくられています。

おそらく本書の執筆動機もこの辺りの経験が基になっているのでしょう。

-----ここからは感想です-----

心に残ったところ

私は「嫌われる勇気」というアドラー心理学について書かれた本が大好きなのですが、この本にもアドラー心理学でも提唱されるような考え方がちらほら見受けられます。これは彼がアドラーに師事していたことが影響しているようですね。

さて、私が一番心に残ったのは、「運命が与える苦しみを乗り越える方法」として紹介された一連の文です。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ
もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

筆者はしたがって、生きる意味とは一般化できるものではなく、一般論で答えることもできないと述べています。

そして、この問いはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであり、わたしたちが答えるべき答えも、とことん具体的であると述べています。

生きることが私に求めている具体的ななにかとは・・・と考えさせられました。いくつか思い当たることはあるので、苦しい時はそれを自分に言い聞かせていきたいですね。

この発想の素晴らしいところは、「生きる意味は自らが決定できる」という点であり、かつ「終わりがない問い」という点でもある、と私は解釈しています。

「生きる」ということがもたらす「人生をかけて導き出すべき問い」に対してどう答えるのか・・・それが生きる目的なのだろうと思います。

影響を受けて

さて、ここまで深いお話で少し非現実的でしたが、筆者はどのように生きるかを迫られることについて、このようにも述べています。

それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

おそらく私の長い人生の中にも、運命がもたらす苦しみはあるでしょう。

そんな時に、「生きることが私に与える問い」を思い出し、具体的な行動によって自分なりの解を導く覚悟を持っておきたいですね。

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私が今まで読んだ本の中で、トップ3に入る本になりました。折に触れて読み返していきたいです。

計160ページ程度とコンパクトで、比較的読みやすい文体なので是非手に取ってみてください!

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