なんのために頑張るか。

別に、一日中ボーッとしてても存在価値は変わらない。
やりたくないことから逃げてもダメ人間になんてならない。
人の価値なんて、他人に測ってもらうものじゃないから。
このことを認めるのに時間がかかったけど、ようやく最近飲み込めるようになってきた。

幼い頃から、ずーっと何かのために頑張っていた。

恵まれた環境にあるのだから、毎日成長し続けなければその人の価値がない。
そう思っていた。

中学受験の為に通っていた塾。
宿題をしてこない子、授業中絵を描いている子の気持ちがわからなかった。
(先生や親からはどんな風に思われると思う?きっと知られたら失望されるよ?って)

習い事も、毎週成長しないと習っている意味がない。練習をサボるとか、考えないでその時間をやり過ごすとか、ありえない。勿体無い。

そうゆう姿勢でやってきたから、ある程度の成績は取れて、先生や親から褒めてもらうことも多かった。

私は自分の成長のために意味がないと思って頑張ってきたつもりだったけど、
本当は親や先生に、
"あなたはあの子と違って教えがいあるなー"って評価してもらって、
"私はあの子よりエライ"って自負することでしか、自分の価値を感じられなかったからなのかも。

勉強を頑張って成し遂げたい夢があるわけじゃなかったし、
毎日2時間練習していたピアノは、苦痛で仕方がなかったから。

自分の成長のためじゃなくて、
誰かに褒めてもらうため、そして自分の価値を感じるために頑張っていた。

小学生の頃は、なんでも1番を目指していた。
中学生になって、なんでも1番は無理だとわかると、総合判定で1番を目指した。
優しい人、面白い人、それでいて賢くてスポーツができて絵と字が上手い人。
これが、私の中の総合判定で1番の人。

友達からも、先生からも、親からも、賞賛してもらえる。それがモチベーションだった。

転機が訪れたのは中学3年生。

どれだけ頑張っていても、親から賞賛されなくなった。
親の仲が悪くなってしまったから。
子供どころではなくなったみたい。
必死に繋ぎとめようと、家では優秀な子から調整役に変わった。
家の中では、優秀な子は1番じゃなかった。

この頃から、
1番とは、何をもって1番なのか。

もしなにか1番って決められたとして、それを幸せと呼ぶことができるのか。

頭の中に疑問が湧いた。

頑張る理由が見つけられなくなって、
勉強を少しサボるようになった。
それでも友達は友達のままで、先生も先生のままだった。失望されると思っていたから、なんか変な気分だった。

私はなんのために頑張っていたのだろう。

自分の価値を確かめるプライドのため?
褒められるため?

友達が友達のままだったとき、
プライドを守ろうとしていた自分がすごく醜く思えた。


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