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「ロシア語初級」 落合健太郎

(以下は2023年10月14日の金原のブログからの転載です)

 2023年度秋学期、創作実践指導という授業を半期、開くことになり、以前の金原ゼミの要領で授業を進めているところ。
 最初の授業でとてもいい感じのエッセイが出てきたので、紹介します。

ロシア語初級 落合健太郎


 この秋、ロシア語初級の授業を受けている。本来であれば一年生のうちに履修を済ませておくべき第二外国語の授業だ。これは偏に怠惰さが原因なのだが、一年、二年と続けて単位取得に失敗したおかげで、週二回、一年生に混じって授業を受けることになった。
 例年、社会学部の学年全体でロシア語選択は十人に満たない。今年度も例外ではなく、受講生は八人程度だ。そのうえ全員が出席することは稀で、四人だけの日もあった。今年度中にロシア語の単位を取らなければ自動的に留年が決まる私は、まさに背水の陣である。何としても単位を確保しなければならないから、出席は絶対だ。三回欠席で落単という、恐るべきルールに耐えながら何とか出席している。
 思えば、この二年の間にロシア語初級をとりまく状況は一変した。コロナ禍の幕開けとともにはじまった二〇二〇年のロシア語初級は、すべてオンライン授業だった。初めてZoomをつかい、課題はメールかHoppiiで提出した。試験では、音読をスマホで録音して、その音声ファイルを提出した。何が何だかよく分からなかった。
 それが今では対面授業に変わった。先生はZoomでみるのとあまり変わらなかった。学生たちは皆マスクをしているから、顔をよく知らない。当てられて黒板に問題の答えを書いた。チョークを持ったのはいつ振りだろうと思った。教科書も変わり、二人いた先生のうち一人が退職した。辞めた先生はロシア正教の司祭でもあるという人で、興味があったのだが、資料配布型の授業だったので謎が多いまま終わった。
 そして、戦争が始まった。二年前の時点でもすでにクリミア半島は侵攻を受けていて、平和とは言い難い状況だったが、その時はいくつもある国際問題の一つとしか考えていなかった。先生はロシアに行ったとき使える豆知識を教えてくれたし、交換留学の話もした。けれど今では、先生がロシアで使える豆知識の話をする時はいつも枕に「いつか戦争が終わって平和になったら」という言葉がつく。交換留学は停止になり、渡航さえ出来なくなった。
 シンゾウとウラジミールが手を繋いでいた時代は遠い過去だ。日本とロシアは敵対するようになった。日本からウクライナに送られた防弾チョッキをウクライナ兵たちが身に着ける。彼らが銃口を向ける先にはロシア兵がいて、ロシア兵もまた銃を向ける。
 人が殺される映像をテレビでみた。子供の遺体を抱いて泣く女や戦地に向かう若者、砲弾で破壊された学校を見た。Twitterのタイムラインをスクロールすると、閲覧注意の文字と同時に戦場の映像が流れる。いくらスクロールしても、途切れることなく無限に戦場があらわれる。
 しかし、戦争が起きてすぐのころ、私にはそれがどこか遠くの知らない地で起きた、フィクショナルな出来事に感じられた。私が見た人の死はすべて映像であって、それはつまり光だった。液晶画面に映された出来事に、私の貧弱な感性は反応しなかった。一方で、事態の異常さは明らかで、それに反応しない自分が悲しくもあった。
 ロシアによる侵攻開始から二週間ほどたった二〇二二年三月、それまでいつもと変わりない日常を送っていた私は戸惑った。その日のことを書き綴った文章が残っていた。自分が何を考えているか整理する必要があったのだと思う。

 一応二外でロシア語だったし、一時はサンクトペテルブルグに留学しようとも思っていたくらいだからこの問題には関心があるつもりだった。
 新宿駅南口で行われた No War 0305をカネコアヤノのインスタで知った。折坂悠太やGEZAN、七尾旅人などのアーティストが出演するらしく、これを無料で観られるのは激アツだと思った。その日に何か予定がある訳でもなかったので、行ってみようかと思った。
 ただ、私は何かひとつ引っかかることというか、そのイベントへの参加に躊躇いがあった。イベント、より正確に言えばその集会は、反戦集会なのだ。プラカードを掲げ、シュプレヒコールを叫ぶ。それも一人ではなく、同じ意思を持った他者と、ひとつの集団となって反戦を訴えるのである。
 私には自信が無かった。外に向かって意見をするということに伴う、聴衆からの応答に堂々としていられない気がした。そもそも自分にはっきりとした意見というものがあるのかさえ分からない。
 そして、その時に気づいた。私の持つ関心というものの薄っぺらさ。何か具体的な行動をする訳でもなく、漠然とニュースを聞き流しているだけだった。そして、同時に心のどこかにある善意が焦燥感を駆動させる。黙って眺めていてはいけない。でも体が動かない。小学校の廊下で、いじめられている少女の前を無言で通りすぎる光景が脳裏によぎる。声を上げなければならない。でも喉が空気を運ばない。
 時計が集会の開始時刻を指しているとき、私は自分の部屋にいた。目の前のパソコンの画面には集会の配信映像が映っていた。

その日、私は急いでウクライナについて書かれた本を三冊購入した。専門家が書いた論稿をネットで読んだ。何か行動しなければならないと思った。そして、その前にまずは何が起きているか知らなければならないと思った。知識をつけて、問題を理解し、それから行動する。それはまっとうで妥当な道筋に思える。段階を踏むことが大切だと思っていた。そうすれば失敗することはないと思っていた。
けれどどうだろう、机の上に積み重なったウクライナの本は、私に読まれることなく二日、三日と放置された。その期間が延びるにつれ、ウクライナの本が、あるいはウクライナ自体が私にとって夏休みの宿題のように思えてきた。その存在を確認するたび罪悪感が募るので、本棚の隅に移動させた。目の触れない場所に、なるべく遠くに置いた。
No War 0305で駆り立てられた“やる気”はいつの間にか消え失せていた。戦争のことを考えないで生活するのは簡単なことだった。私の日常生活には戦争の色など微編もない。帽子を被るかどうかで悩むような朝、松屋か吉野家で悩むような昼、次に買うスマホで悩む夜。どっちだっていいじゃん、で済むようなことばかりだ。家が砲撃を受ける心配も、徴兵される心配も、愛する人を喪う心配もない。実際のところ、その可能性はあるかもしれない。だが、その可能性を目前に迫る危機としては思えない。昨日と同じ今日が、今日と同じ明日がいつまで続くような気がする。何となくそんな気がするのだ。そして、そういう日々に多少不満を感じながらも、当たり前に生きている。


二〇二二年四月から半年間、私は公共テレビ局の番組モニターのアルバイトをしていた。モニターはそれぞれ担当の番組を割り当てられ、その番組の放送に毎回評価コメントをする。私は夜のニュース番組を担当した。その頃、テレビは連日ウクライナ情勢で持ちきりだった。出演する専門家は限られていて、見ているうちに親近感を持つようになった。キエフはキーウになり、ドニエプルはドニプロになった。名称の変化がどうでもよく思えるほど、滅茶苦茶で悲惨な情報ばかり入ってくる。私は毎週そのニュースを何度も巻き戻して、見返した。番組の構成や演出の工夫に注目してコメントを書くためだった。いくつかの項目に点数をつけ、コメントと共に送信する。同じことの繰り返しで、2週間目にはもう慣れていた。コメントは自分でテンプレートをつくり、あとはそれに当てはめて書くだけだ。
放送内容は毎週違うが、大まかな構成は毎回同じだった。九時に番組が始まると、まずはその日一番のニュースを三十分扱う、そのあとは国内の穏やかなニュースと天気予報を三十分。十時からはスポーツのニュースを中心に一時間。こうして一日の放送が終わる。
お堅い公共放送といえども、キャスターたちはニュースの内容に応じて表情をつくる。喜怒哀楽を緩やかに表現する。戦争のニュースで悲しみと怒りの表情を見せ、次の入社式のニュースで上手に微笑む。二時間の放送のなかで、人が一生にするすべての表情をやってしまう。私には彼らが気の毒に思えた。時間に追われ、悲しんでいられるのは数秒間、喜んでいられるのも数秒間だ。立ち止まっている暇はない。常に変化を迫られ、求められる振る舞いをこなしていく。カメレオンのように移り変わる表情のうち、本当の表情はどれなのだろう。そもそもそこに本当の表情はあるのだろうか。
だから、私にとってお天気コーナーは唯一の平安だった。天気予報士のSさんはいつも微笑している。声のトーンは柔らかく、ゆっくりと話してくれる。明日の天気が晴れでも雨でも彼は変わらず微笑んでいる。気温と湿度の数字にも一喜一憂しない。今日暖かくても明日は寒くなると告げる。終始、市民プールで流れるようなぬるっとしたインストゥルメンタルが流れている。
二時間ずっとこれでいいとさえ思うけれど、本当にそうなったら困るだろうとも思う。天気コーナーについてコメントすることは何もないからだ。天気コーナーはいつも変わらない。だから、あれほど好きだった天気コーナーについて、私は一度もコメントで触れなかった。私のコメントは、その場限りの言葉で溢れていた。戦況、事件、問題。今日の話は今日で終わり、明日には全く別の話をしている。
忙しなく流れる悲惨なニュースを追いかけているうちに、二カ月が経ち、担当番組が変わった。深夜に二十分ほど放送される番組になった。毎回異なる地方都市とそこで暮らす人々の生活が取り上げられる。ほのぼのとした番組だった。農業を営む人や、伝統文化を継承する人たちの素朴な姿が映し出されていた。モニターをやっていなければ見ないような番組だったが、ちゃんと観ると意外に面白い。まず、自然豊かな風景の映像が良い。眩しいライトに照らされたスタジオからいきなり外の世界に放たれると、その風景が新鮮に写った。自然の風景があり、そこ人がいる。決してその逆ではない。たどたどしく話す地元の人たちの表情は至って自然だった。哀しい話をしている時、わざとらしく眉を下げたりしない。幸せを語る時、妙な身振り手振りをしない。けれど、彼らの表情があった。私にはそれが本当の表情に思えた。


 二〇二二年九月、モニターのアルバイトが終わり、大学の秋学期が始まった。その時の私にとって、何よりもロシア語初級が不安の種だった。二年間全くロシア語に触れていなくて、キリル文字さえ忘れていた。重い腰を上げてロシア語の勉強を再開した。以前習ったことを思い出しながら、同時に新しいことを覚えるのに苦労した。初回の授業で、空いていた席に座ったらそこが最前列になり、しかもその後ずっと席が固定されてしまった。少人数ゆえ、一度の授業で何度も先生に当てられ、答えるのに窮した。最前列で先生とよく目があうせいで、やたら質問に答えた気がする。けれど、その甲斐もあって二年前よりも理解できるようになったし、何より直接面識を持つことでサボりにくくなって真面目に勉強した。対面授業の強みが遺憾なく発揮された秋学期だった。
 その間もやはり戦争は続いている。これがいつ終わるのか全く分からない。ただ、ロシア語初級は間もなく終わろうとしてる。今は二〇二三年一月。相変わらずウクライナの本を読んでいない。どこに置いたかも忘れてしまった。私は、どうしようもなく不真面目な人間なのかもしれない。でも、少し言い訳をしたい。
 もし、私が、ウクライナでの戦争を真正面から見つめたら、とても耐えられないと思う。それ一つでも悲しみで砕けてしまうような悲劇が無数にある状況、それがひたすら増え続けていく状況に私は耐えられないだろう。
 私がはじめてロシアに触れたのは、十四歳の夏だった。中学の海外研修で二週間スコットランドのサマースクールに通った。その前の年に応募して行った陸上部の先輩にそそのかされ、全く英語が分からなかったが応募した。学校の一年間の授業料と大差ないほどの研修費を親に工面してもらい、十四歳の私は期待に胸を膨らませて旅立った。サマースクールには十二歳から十六歳くらいの年齢の子どもたちが世界各国から来ていた。大半はヨーロッパの国から来た白人で、その他は中国・台湾・韓国の人が少しいる程度だった。サマースクールでは、大体平日の午前中はレベル別に分けられたクラスで英語の授業を受けて、午後はレクリエーションをする。ドイツやオーストリア、スロバキアあたりの子たちは皆英語が達者で、上のクラスにいた。一番下のクラスには、日本人とスペイン人、フランス人、ロシア人が多かった。私は当然、一番下のクラスになった。陸上部の先輩は英語が出来なくてもジェスチャーで何とかなると言っていたが、全くそんなことはなく、通じないものは通じなかった。
 それに白人だらけの世界にいると、肩身の狭い思いをした。自分が日本人であると同時に、アジア人であることをその時はじめて理解した。自分たちより体が大きい白人の少年たちにサッカーする場所を横取りされても、言い返すことができない。すれ違えばニー・ハオと言われ、隣にいる同じの学校の友人は情けなくニー・ハオと答える。スペイン人の少年に目をからかうジェスチャーされたこともあった。日本人は世界から尊敬されているという言説が大嘘だということを、そこで身をもって知った。中国や台湾の子たちといると落ち着くので、自然とアジア人同士で集まることが多かった。
 クラスは一週間ごとに変わる。一週目、私のクラスは日本人数名と、スペイン人四人、イタリア人一人、オーストリア人一人、ロシア人一人だった。国はばらばらだったが、皆それなりに楽しくやっていた。その中で、ロシア人の少年は独特で近寄り難い雰囲気があり、皆距離を置いていた。年齢は十五、十六だったと思うが、手の甲に五芒星のタトゥーがあった。背が高く、金髪で青い目をしていた。私と同じくらい英語ができなくて、先生から質問されても答えられなかった。授業中はいつも退屈そうにしていて、寝て注意されることもあった。ロシアから来る生徒は大抵が金持ちだった。豊かではないロシアという国の子どもでイギリスまで来られるのは相当な金持ちだけだ。石油王の娘なんかもいた。ロシアの少女はみんな高そうな服を着て、高そうな鞄を持っていた。けれど、私のクラスのロシア人少年はそんな風には見えなかった。毎日デニムの短パンを履いていて、ハイカットのコンバースはボロボロだった。彼がどういう経緯でそこにいたのか不思議だった。何となく仲良くなれそうな気がしたのだが、話せないまま一週間がたち、クラスが変わった。
 二週目のクラスは、日本人四人、ロシア人四人、フランス人一人、スペイン人一人のクラスだった。人数で言えば日本人とロシア人が並んで一番多かったのだが、クラスの中心はロシア人女子三人だった。彼女たちはいつも高そうな服を着て、高級ブランドのバッグを持っていた。ツンとした感じで、時間になっても授業が終わらないと先生に猛抗議して切り上げさせた。機嫌が悪いときは露骨に態度にだして、怖かった。日本の女性と全く違う。男子校三年目で比較対象の乏しい私にも、それがはっきりと分かった。日本人の一人が別の日本人にからかわれていた時、ロシア女子の一人、アナがからかう日本人男子を叱ったことがあった。その時の彼女の態度は、傍観していた自分が恥ずかしくなるほど泰然としていた。
 ロシア人男子も一人いた。彼は口数こそ少ないものの、しっかり者で周りから信頼されていた。体格が良くて、一見強面だったが、なかなか優しいやつだった。サッカーをやっていた時、相手チームにいた彼にプレスで吹き飛ばされたことがあった。文句を言ってやろうと思ったが、彼は倒れている私に近寄って来ると本当に申し訳なさそうに謝ってきて、手を差しのべた。私は拍子抜けして、逆に申し訳なく思った。
 何度か二人で話す事があった。彼は小さいころからセーリングをやっていて、将来はオリンピックに出たいと言っていた。週末はいつも父と兄と一緒に練習しに海に行くと言っていた。セーリング以上に彼は音楽が好きだった。ジャンルを問わず何でも聴いていて、部屋の壁はバンドのポスターで埋まっていると自慢げに語った。午後にクラスでエディンバラの旧市街に行った時、彼はストリートミュージシャンの演奏に夢中になって、皆とはぐれそうなった。
 ある日、二人ずつのペアになって前日に出た宿題をもとに会話するという授業があった。私は彼とペアになったのだが、宿題を途中までしかやっていなくて、彼に厳しく説教された。完全に自分に非があったのでしゅんとしていたら、慰められた。


 一つの事を思い出すと、次々と記憶が蘇ってくる。小さな記憶の断片がいくつも浮かび上がり、それらが繋がっていく。繋がりを持った記憶は一つの物語となり、今ここにいる私の頭で再生される。その物語が自分のものなのか確証はない。今の私にはあまりにも眩しくて、別世界のことのように思われる。けれど、やはりそれは私の物語なのだ。大した人生ではないかもしれないけど、それなりに色々な人と出会って、色々な経験をしてきたんだなと改めて思う。
まだ幼かったあの時から十年近く経ち、私は大人になった。私と同じように、あそこにいた皆が大人になった。連絡先は交換しなかったから、彼らがその後どんな人生を歩んで、今どうなっているのかは分からない。私は人生の節目で時より彼らのことを思い出した。そして、みんな元気でやっていればいいと祈った。
戦争。それが私を不安にさせる。あの時出会ったロシアの友人たちは今、皆二十代前半だ。召集され、戦場へ向かう青年の映像を見た時、どうしようもない不安が押し寄せた。パソコンに番組のコメントを入力する手を止めた。泣きながら男たちを見送る女の姿があった。私はそれをただ見た。巻き戻すことはなかった。なぜこんな事になってしまったのだろう。さっぱり分からない。一体誰がこんな事を望んでいるんだ。この世界はどこまで狂っているんだ。ここにある怒りとも悲しみとも言えない、分類しようのない感情はどこへ向かっていくのか。プーチンがこうしたのか。ロシア人がこうしたのか。世界がこうしたのか。私にはなにも分からない。
あの時の少年たちは今、武器を持って戦場にいるかもしれない。いつ訪れるかも分からない死に怯えながら時間を過ごし、人を殺し、人に殺される。ドローンから落とされた爆弾が体を四方八方に吹き飛ばす。砲撃が建物ごと粉砕し、粉々になった体の断片が散らばる。目隠しされた捕虜は凌虐され、列になって撃ち殺されるのを待つ。
もう戦争をみたくない。私が見ているのは、映像であり、光の集まりだ。だから、これは全部幻なんだ、そう自分に言い聞かせようとするのを邪魔するように、苦しみの声が聞こえる。目を背けようとしても、視線の逃げ場はない。彼方にある戦場と、今私がいる場所は同じ世界なのだ。私の視界にあるすべての光景は、あの忌々しい戦争と同じ空気で満たされ、同じ時間が流れているのだ。私には何も出来ない。戦争を止めることが出来ない。人を正気に戻すことが出来ない。
時間は留まろうとする人を、先へ先へと急かし、絶え間ない変化を強いる。誰もがその濁流に流され、下流へと運ばれる。服は剥がされ、岩石に身を砕かれ、体を傷だらけにして細かな砂と共に流される。
私もいま、流されている。そして、上流にあった日々を思い出す。あの時何気なく過ごしていた日常はどれほどかけがえのないものだったのだろう。いま私がみる光景は、この先どれほど美しいものになるだろう。いつも先へ先へと進みたがっていた。大人になれば、すべてが変わると思っていた。確かにたくさんの事が変わった。世界も変わったし、私も変わった。幾人かの友と出会い、幾人かの友を喪った。
流れつく先はみんな同じだ。そこには広い海が待っている。どこまでも広く、終わりの見えない海だ。私たちは、陽の届かないほど深い海の底に沈み、本当の孤独を知るだろう。どこまでも闇がつづく孤独の中で気づくだろう。もはやそこに憎しみはない、ひとり彷徨う魂は、ただひとつ愛を求めている。生まれ持ってその身に宿る小さな愛を抱え、どこかに彷徨う誰かの小さな愛を求めている。