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「ハードはソフトを規定するか ~その2~」 小林千尋

(以下は2022年5月13日の金原のブログからの転載です)

 創作表現論、秀作をもうひとつ。こちらは前回のものとは、まったく趣の違うエッセイです。
 ユーモラスなエッセイとして、とてもうまく書けてます。とくに後半、星野源が出てくるあたりから、一気に加速します。その加速ぶりがおかしい。

「ハードはソフトを規定するか ~その2~」 小林千尋

……「~その2~」⁉ なんだそれ、そんなのアリか。
 提出の締め切り3時間半前まで何も書くことが浮かばないという絶望的な3週間前の夜、首から下はそのプレッシャーによる腹痛に苦しみ、目は「締め切り時間まであと何分か」という焦りから何度も時計を確認する。手は「何か書かなくては」とガムシャラにパソコンのキーボードをたたき、今までにないくらいの速さのタイピングを行なっている影響からかだんだんサイバーテロリストにでもなったような気分になり、とうとう頭の中ではミッションインポッシブルの曲が流れだしてくるという、まるで熱にうかされた時に見る夢のように目まぐるしく、追い込まれた状態の中、締め切り4分前に無理やり書き上げたのが第1回の「ハードはソフトを規定するか」という課題である。
 私の中では、難しく、何も思いつかず、歯がゆくて、苦しくて……やっと乗り越えたトラウマ級の難題であったのに、今回はなんとその続編を出せというのか。もう前作の時点で、出せる話題という話題を絞り出し、玉切れだっていうのに、続編だと? もうそんなの勘弁してくれよ。書けないよ? だって書くことがないんだもん。書けないったら書けないもん。――いや、もうやめだ。嘆いてもどうにもならないことだってある。とりあえず何か書こう。前にもこんなような思いをした経験があった。それは確か中学の夏休み、宿題の作文に取り組んでいた時だ。
私の学校では、毎年夏休み明けに弁論大会が開かれ、作文はその弁論を書くことになっていた。中学1年生の私は扇風機に当たりながら、リビングの机に置かれた400文字の原稿用紙と数分にらめっこしては「書くの面倒くさいよぉ」とうなだれていた記憶がある。
 中学生だった当時、文章を書くという行為は、原稿用紙に鉛筆で書き出すという方法で行っていた。パソコンのキーボードを使って打ち込むようになった今と昔の文章の推敲について比較してみると……、
 Wordの場合、書きたい事柄があったとして、例えばそれを2時間くらいかけて完成させたとしても、書いていくうちにやはりその話題はいらないなと判断することがある。その場合そう判断した瞬間に、その部分を選択してカットすることができる。2時間かけた力作も5秒くらいでなかったことになる。
 一方夏休みの作文は、書きあげてもいらなくなった文章は、書いた分だけ消しゴムで消したり、鉛筆で文字の上に線を引いたりする。修正にもそれなりの労力が必要だった。
 また、私は文章の全体の構成を考える以前に、絶対にその文章に書き入れたい決め台詞のようなフレーズを用意しておくことが多い。前にお笑い番組で松本人志が、「こういう小道具使ってみたいからこういうコント書いちゃおっていうノリで、コント書くことってあるよな」と言っていたことがあるのだが、まさにそれと同様である。
そのフレーズを完璧に決めるために、この文章を書くと言っても過言ではないほど、決め台詞の重要性は高く、それを中心に文章の方向性が決まってくるのである。
 タイピングの場合、まずそれらの絶対に書きたいフレーズは1番初めにWordに書き留めている。それからその周りに、文章になっていくように言葉を肉付けていくような形で文章を書くようになった。
 一方、紙に鉛筆で書いていた時は、基本、書きたいフレーズは頭の中に溜めていた。どうしても我慢できない、あるいは忘れてしまいそうな時は、文章を書き始める前に作る構成メモの隅っこに書き留めるようにしていた。
 この分野においては、タイピングの方が他の言葉を後から固めていく形で書くことができるので、決め台詞を優先して構成を決めることができる。一方手書きの方は文章の構成を手軽に変えることができないので、他の紙で事前に構成を練った上で原稿用紙に文を書き始める、または紙にも書かず、頭の中で構想を練る。
 総合的に見れば、手書きの方が頭で考えて書く要素が多く、他の紙に書き換えるなどの作業から労力的にも負担が多い。またWordなら自分の汚い字に困らなくて済む。
 頭の中で構想を練ることは一見ただ混乱しそうでメリットがないように思えるかもしれないが、私はこの作業方法が案外好きだったりする。そのことについては後で触れるとしよう。

2013年、私が小学6年生の頃、リニューアル前のテアトル新宿に『箱入り息子の恋』という映画を観にいった。決して家が近かったわけでもなく、どうしてそこに観にいったのか、なぜその作品を観たのか、何も覚えていない。その作品では現在、爆発的な人気を誇るアーティストの星野源が主演だった。今でこそ彼は「塩顔イケメン」「笑顔がかわいい」と女性から人気を集めているが、その風貌はここ数年、芸能界に揉まれて洗練された賜物であり、洗練される前の当時の彼はイケメンと言われる部類ではなかった(むしろ確実にブサ○クの部類だ。というか今の彼においても塩顔イケメンかどうかについては議論すべきだと考えている)。その映画での役も、35歳で人と目を合わせることができない、奇行が多く、向上心もなく、暗くて友達もいない醜男であった。そんな散々な役であったはずなのに、小6の私はそのスクリーンに映る俳優星野源に恋をした。一体そんな奴のどこに恋をする要素があったのか、長くなってしまうので説明を省く代わりに、もしお時間があったらぜひこの映画を観て、あなたにも彼が演じる「天雫健太郎」の魅力を感じていただきたい。
 そのうち本来の彼を知りたくなり、歌手星野源のCDを聴き、ラジオパーソナリティ星野源の深夜ラジオを聴き、文筆家星野源のエッセイを読み漁り、彼の全てに小学生ながら夢中になった。こんなにも何かに熱中したのは生まれて初めてで、周りの友達にも彼の曲や本の良さを勧めるのだが、まだ売れてもない得体の知れない醜男に熱狂している私を友達は気味悪がり、誰も相手にしてくれなかった。その出来事は、かえって「彼の魅力は私しか分からない」という優越感を掻き立て、私の生活はさらに星野源一色に染まっていった。
 そんな一方的な大恋愛を経験した矢先、中学生になると、とうとう憧れが行き過ぎて星野源になりたいと思い始める。彼の歌を生で聴いてみたいとか、彼と結婚したいとか、もうそういう次元じゃない。歌い方や癖のある動き、彼の考え方全てを自分のものにしたくなった。
 (ちなみに今はみじんも星野源になりたいなんて思わない。何かチャラついてきたと思ったら今度はガッキーと結婚しやがって。くそ、あの頃は素朴で気弱で脆い感じが良かったのに、今のお前は世間の目を気にして、つまらないし下劣さがない。見ててムカつくんだよ。……幸せにならないと、承知しないからな)
 そこで、私が星野源になる方法の1つとして利用したのが、中学の弁論の宿題である。これでは、クラスのみんなの前で声に出して読むことになる。彼のエッセイでの独特な言葉遣いや考えに極限まで寄せて書くことで、弁論をしている最中だけは星野源っぽいことを述べることができるというわけだ。この、自分にしか通用しない謎の理論を思いついたのは中学2年生。その夏の作文作りは、前年度と比べると何倍も楽しく、作業をしながら興奮したのを覚えている。どういう言い回しや話題が源さんっぽくなるか、この源さんっぽい決め台詞を光らせるにはどのような構成にすればよいか、星野源になることに徹底的に執着し、膨大な時間を文章の推敲につぎ込んだ。
 私は、「文を読むのも書くのも苦手」であった。というか、今も本を読むことはあまり得意ではない。
「文章を書くということは時間と執念、知識が必要である」と先生は仰ったが、本当にそうだと私も実感している。
 私はあの中学2年生の夏、文章を書くことに快感を覚えた。その快感とは、第一は星野源になりきれたことだ。つまり、自分の書きたい話題や言い回しをつかうことができるかということに成功したからだといえる。しかし、私に快感をもたらしたのはそれだけではない。文章を前後させて調整したのち、しっくりくる構成が決まった瞬間や、ある事柄を根拠づけて話すために知識を採集していく作業の楽しさ。そして何よりの快感は、構成を一切紙に書き出さずに行い、「この話題とこの言葉があって、こんな文章になる」というように、頭の中で何となく完成を想像する。その完成形が頭ではできているのにも関わらず、手で1つずつ文字を書き出し、言葉を頭から取り出して紡いでいかなくては目の前に文章が完成しないという、じれったい感覚。これが何よりもたまらない。そしてその作業が上手くいくと、私はとてつもない達成感に包まれるのだ。
 このひと夏の経験をきっかけに、私は文章を書く楽しさを知った。それに、星野源の文才が魅力に満ちているおかげで、それにあやかった私の源さんなりきり弁論は学校で大いに評価された。その結果、弁論大会学年代表、記念式典や卒業式の代表の言葉、川崎代表の弁論大会の出場に選ばれるなど、その後何度も星野源になりきって弁論をさせてもらえるチャンスに恵まれ、その度に文章を書くという機会をいただいた。私は、中学でのこれらの機会に、文章を書く上での「時間」と「執念」を養うことができたと考えており、今では「文を読むのは苦手、でも書くのは好き」と言えるようになった。

 何だか上手くまとめたいい話のようになっているのだが、これが全然いい話じゃない。
 1つ大事なことをお忘れのようだ。そう、文章を書くには時間と執念、そして「知識」が必要なのである。残念ながら、中学時代は「時間」と「執念」ばかりに力を注いでしまって、その「知識」とやらの方面を一切伸ばすことができなかった。ろくに本も新聞も読まない、一般教養もない。圧倒的に「知識」が足りていないから、私はいつもこの授業の課題では書くことが浮かばないと悩み続けている。

 提出の締め切り前日まで何も書くことが浮かばないという絶望的な土曜の夜、首から下はGWの暴食による腹痛に苦しみ、目は「私の睡眠時間はあと何分削ればいいんだ」という苛立ちから何度も時計を確認する。手は「何か書かなくては」とガムシャラにパソコンのキーボードをたたき、今までにないくらいの速さのタイピングを行なっている影響からかだんだんゲームプログラマーにでもなったような気分になり、とうとう頭の中では星のカービィの曲が流れだしてくるという……


これは星野源 (2013)「料金支払いはつづく」「連載はつづく」『そして生活はつづく』文藝春秋 のパロディです。